普通のパンツで迎えた朝
朝。山科家の静寂は、あかりの鳴らすけたたましい足音によって無残に失われた。
「お兄ちゃん! 私、今、普通のパンツをはいてるんだけど、どういうこと!」
階段を駆け下りてきたあかりが食卓の椅子を激しく引いて座る。
「……よかったじゃないか、普通の女の子に戻れて」
健太はあかりの剣幕を柳に風と受け流し、焼き上がったばかりの目玉焼きに醤油を垂らした。しかし、箸をつけようとした瞬間に皿を奪われる。あかりは皿ごと口元に運ぶと、飲み干すように目玉焼きを頬張った。
「もぐ……ん、んぐっ……! 醤油、かけないでって言ってるでしょ。私は塩派なの!」
「いや、それは俺の朝飯だ」
敷かれたベーコンに苦戦しながらも、あかりは強引に咀嚼して飲み込んだ。
「それで? お兄ちゃんの作ったパンツは?」
健太はため息をつき、空になった自分の皿を見つめながら、昨日の放課後の出来事を淡々と打ち明けた。パンツを美咲に拾われ、挙句にゆるりまで加わって「はきたい」と懇願されたというカオス極まりない状況を。
「な、なんなの、その地獄絵図は? 涼形美咲さんって、あの超有名な美咲先輩のことだよね? 全然意味がわからないけど、ただの変態だったってこと?」
「美咲ちゃんは変態じゃない。ただ、あかりのパンツを履いて歓喜しただけだ」
「それを世間では変態って呼ぶの! それに、どうしてパンツに私の名前を刺繍してあるわけ!」
「ちゃんと持ち物には名前を書けと、昔先生に言われただろ?」
「小学校のときの話でしょ! バカなの? 本当にバカバカバカ!」
あかりの罵倒が飛ぶ中、健太は悔しそうに奥歯を噛み、拳を握りしめた。
「今はあかりのパンツの完成に注力したいんだ。だが、サンプルが増えるのは開発者として見逃せない。……でも俺の体は一つなんだ。三人分を同時に仕上げる時間が今の俺には……ない!」
健太のあまりに悲痛な、しかし明後日の方向を向いた情熱に、あかりはドン引きして冷めた視線を送る。
「じゃあ、私の分はいいから、その先輩たちに作ってあげればいいじゃない。私は解放されて、毎朝清々しい気持ちで目覚めることができる」
「それはダメだ!」
健太が椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がった。あかりは思わず肩を跳ねさせ、身を引く。
「な、なによ……」
「あの老人が作ったパンツの感触を知っているのは、あかりだけなんだ。俺の作るパンツが、あの『至高の一枚』を超えたかどうか……それを正しく判断できる審美眼を持っているのは、お前しかいないんだ!」
健太の射抜くような、純粋すぎる眼差し。あかりは毒気を抜かれたように視線を泳がせ、赤くなった頬をぽりぽりと掻いた。
「……まあ、いいわよ。それで、昨日の夜は私の部屋に来なかったってわけね。美咲先輩にパンツを取られたから」
「いや、夜中に忍び込んでちゃんと身体の計測と観察はしておいたぞ。今晩は新作をはかせてやるから安心して眠れ」
「……そうなんだ。だったらよかった。……って、全然良くない! 犯罪者!」
あかりは健太の湯呑みを奪い取ると、熱い茶を勢いよく飲み干して立ち上がった。
「お兄ちゃんのバカな話を聞いていたら、朝練に遅刻しちゃう! あと勝手に私の部屋に忍び込んで来ないで!」
びしっと人差し指で兄を差し示したあかりは、嵐のような勢いで玄関へと消えていった。
◆◇◆◇◆
昼休み。あかりは教室の自分の席で、居心地が悪そうに身を捩っていた。
「うー……、なんか、いつもと違ってお尻が変な感じ……」
「なになに? あかり、どったの? 痔?」
声をかけてきたのは、里中志保だ。あかりのクラスメイトであり、同じバドミントン部に所属する、腐れ縁の親友である。
「違うよ……。なんていうか、調子が狂うっていうか……」
あかりは机にどろりと溶けるように突っ伏した。志保はそのツインテールを掴むと、手綱のように揺らし始める。
「そういえば、朝練のときも動きが鈍かったよね。風邪でも引いた?」
その問いに、あかりは満腹感と午後の陽気にくるまれ、うとうと気分で話し始める。
「お兄ちゃんがね……、今日はパンツをくれなかったの……」
「……んんんっ? お兄ちゃんが、パンツを、くれなかったぁ!」
志保の驚愕の叫び声が、まったりとした空気の漂う教室に炸裂した。
一気に全身の血の気が引いたあかりは、跳ね起きて志保の口を両手で塞いだが、時すでに遅し。クラス中の爛々とした好奇の眼差しがあかりに降り注がれていた。
「今のなし! 志保、ちょっと来なさい!」
あかりは親友の腕を掴むと、ずるずると廊下へ連行していく。
「ちょ、待ってよ! どこへ行くのよ、あかり!」
「トイレ!」
「いいけどさ……。あかりがブラコンなのはみんな知ってるから、今更隠さなくてもいいのに……」
その言葉に、あかりの動きがピタリと止まった。雷に打たれたように硬直するあかりを、志保が不思議そうに覗き込んで手を振る。
「私が……ブラコン……? 何をどうしたら、そんな誤解が生まれるの……?」
常日頃から健太を罵倒し、冷遇してきた自負があるあかりにとって、それは屈辱以外の何物でもなかった。
「だってさ、女子で恋バナしてても、あかりはお兄ちゃんの話しかしないじゃん。理想のタイプを聞けば『お兄ちゃんよりはマシな人』とかさ。それにお兄ちゃんの写真、絶対見せてくれないし。独占欲?」
「あ……、あ……、それは、あんなもの世に出したら私の人生がおわっちゃうからで……っ」
あかりは顔を隠しその場に蹲った。誤解が幾重にも積み重なり、逃げ場のない牢獄となっている。
そんな彼女の肩を、志保がニヤリと笑いながら叩いた。
「さ、トイレ行こ。取ったりしないからさ、あかりの大好きなお兄ちゃんのこと、全部白状しちゃいなよ!」
志保に引きずられるように歩き出しながらあかりは確信した。この不調も、この誤解も、すべては健太と健太の作るパンツのせいなのだと。
「お兄ちゃんのことなんか大嫌いなんだからっ!」
あかりの叫び声が一年生のフロアに炸裂した。




