あかりの日常と、美咲の困りごと
「お兄ちゃん!」
山科家の朝の静寂をあかりの怒声が切り裂いた。続いて古い階段を激しく踏み鳴らす音が響く。
リビングの扉が勢いよく開き、セーラー服姿のあかりが飛び込んできた。その激しい動きに合わせて、結い上げられたツインテールが生き物のように跳ね回っている。
「私が寝ている間に勝手に部屋に入って、お兄ちゃんの作ったパンツに履き替えさせるの、マジでやめてって言ってるでしょ! 毎晩毎晩どうして入ってくるの!」
あかりは健太が口に運ぼうとしていたトーストを横からひったくり、怒りをぶつけるようにかじりついた。
「おい、俺の朝飯だぞ……」
健太が力なく差し出した手をあかりはぴしゃりと弾き、自分の手を突き出した。
「お兄ちゃんこそ返して!」
「何をだ?」
「昨日買ってきたばかりの私のパンツ!」
「……あれか。あれは市販の粗悪品だ。縫製も生地の選定も甘い。あかり、あんなものをはいては肌が泣くぞ」
あかりがきりりと眉を吊り上げる。しかし、健太は知らぬ素振りで新しいパンをトースターにセットする。
「私はあれがいいの! 昨日、お兄ちゃんにはかされたパンツで学校に行ったら、お尻のところがつっかかって変な感じがしたんだからっ」
「何……?」
健太は真剣な面持ちで、手元にタブレットを引き寄せてスタイラスペンを走らせる。そこには毎晩計測した彼女の体型のデータが整然と並んでいた。
そして鋭い目つきでデータとあかりの体型を見比べる。
「その違和感は持続的? それとも特定の動作時?」
「部活で動いてる時! 左右に振られた時に、なんかこう……引っかかるの!」
あかりはすすっと横滑りに動き、ラケットを振る素振りを見せる。スカートの裾がはらりと舞った。
「なるほど……。歩行時のデータから算出した伸縮率では、激しい横移動をカバーしきれなかったか」
健太は「ううむ」と唸りながら、画面上の数値に補正を加えていく。
「あーもう! 何をごちゃごちゃしているのよ! 朝練に遅刻するじゃない!」
あかりは健太のマグカップを奪い取ると、中の牛乳を一気に飲み干した。そして壁に立てかけてあったバドミントンバッグを荒々しく掴む。
「とにかく、帰ってきたら絶対に返してもらうから!」
あかりはずいっと健太に顔を寄せた。
「断る。俺には『至高のパンツ』を完成させる使命があるんだ。あかり、お前はモニターとして協力すると約束しただろ」
健太もずいっとあかりに顔を寄せた。
「してない! どこの世界に自分の作ったパンツを妹にはかせるお兄ちゃんがいるの!」
「誰もやったことないことに挑むんだ。それがお前の兄貴だ」
健太は得意げに親指を立て、眩しいばかりの笑顔を向けた。
「バカ!」
あかりは空のマグカップをテーブルに叩きつけるように置くと、嵐のように家を飛び出していった。
◆◇◆◇◆
涼形美咲は、この学園の誇る「おっとり系の美人」である。その美貌は学年でも一、二を争い、多くの男子の視線を集めていた。数多の男子生徒が彼女に告白をして、そして散っていったという。
「ふう……」
水泳帽を脱ぎ、結んでいたゴムを解く。さらりと流れ落ちた長い黒髪の影で、彼女は深い溜息をついた。
プールの授業が終わり、更衣室は女子たちの喧騒に包まれている。しかし美咲は、一人その輪から離れた場所で立ち尽くしていた。
彼女の視線はロッカーの中にある小さな紙袋に注がれている。今朝、教室で拾ったものだ。持ち主の名前は分かっている。袋の中のものには「やましなあかり」と丁寧な刺繍が施されていた。山科といえばクラスにいる地味で目立たない男子、山科健太の名字だ。彼は女子ばかりの手芸部に所属しているという変わり種で、部員たちからは「害はない」と評されている。たしか彼には妹がいた。見たことはないが、一年生なのにバドミントン部でレギュラーとなり、そのちょこちょことコートを駆け回る姿が可愛らしいともっぱらの噂だ。
おそらくこれは、彼の妹の物なのだろう。
(返さなきゃいけないのは分かってる。でも……)
美咲は唇を噛み、紙袋をそっと開いた。
中にはまばゆいほど純白のパンツが入っていた。無駄な装飾を削ぎ落とした素朴な作りだが、中央の小さなリボンが可憐なアクセントになっている。それに目が眩む。
今朝の美咲は、致命的なミスを犯していたのだ。水泳の授業があるというのに、着替えの下着を忘れてきてしまったのだ。これは、授業の後にノーパンで過ごすほかなかった彼女に差し出された救いの手、いやパンツだった。
「……ごめんなさい」
誰にともなく謝罪を口にし、美咲はその純白の布に足を通した。その瞬間だった。
「ほわあああぁぁぁっ……!」
思わず声が漏れた。肌にぴたりと吸い付くような、異常なまでのフィット感。それでありながら締め付けは一切なく、まるで温かな空気に包まれているような安心感がある。天にも昇るような極上の履き心地に、脳内のエンドルフィンが一気に噴出した。
(なにこれ……。私、今まで何を履いていたの? これなら、どこまでも走っていける。何だってできる……!)
美咲は雲の上を歩くような心地で、恍惚とした表情を浮かべた。
ふと我に返ると、更衣室の全員が凍りついたように美咲を見ていることに気づいた。パンツ一枚で奇声を上げ、うっとりと震えているクラス一の美少女。そのシュールな光景に、女子たちが戦慄している。美咲の頬が一瞬で沸騰したように赤く染まった。
「ち、違うの! これは、その……っ」
言い訳を探して視線を彷徨わせる美咲に、青髪ショートヘアの女子、三輪ゆるりが歩み寄ってきた。
「美咲ちん、どしたの? いきなり叫んで」
ばくばくと心臓が打ち鳴らされ、新鮮な酸素を取り込んだ血液が脳に送り込まれる。
美咲はすべての脳細胞を覚醒させ、そして、振り絞るように答えを捻り出した。
「……黒い、虫が。今、そこを……横切った気がして」
「く、く、く、黒い虫ぃぃーっ!?」
その言葉を合図に、更衣室に阿鼻叫喚の悲鳴が響き渡った。混乱の渦中で、美咲は自分の下半身を包む至高の感触を確かめる。
(このパンツ……もう、返せないかも)
彼女は再び訪れる極上の陶酔感に、静かに身を委ねるのだった。




