あの日にかえりたい
手探りで、ベールからおそるおそる三角形の布地を取り出す。
(……やっぱり、こっちがお兄ちゃんのパンツだ)
指先に伝わるいつもの安心感。決して安っぽいわけではない。選び抜かれた上質な素材は、健太の体温を宿しているかのように温かい。だが今はその温もりがあかりの不安をかきたてるのだ。これをはいてしまえば、きっと自分でも抗えない「答え」が出てしまうと予感したからだ。
あかりは一度深く呼吸し、目を開いて観客席を見つめた。
何万人もの観客が固唾を呑んで、一人の少女がパンツをはく瞬間を見守っている。世界広しといえど、これほどの大観衆の前で下着を身につける女の子が、一体ほかに何人いるだろうか。
何百、何千という視線とぶつかり、眩暈がした。だがその喧騒の中に、誰よりも熱く、真っ直ぐな視線があった。
(お兄ちゃん……私、はくよ)
あかりは健太の瞳を射抜くように見つめ返しながら、片足ずつ、ゆっくりとパンツに足を通した。そして、祈るような気持ちで、ゆっくりと引き上げる。
「……っ!」
その瞬間、ドームの狂乱が消えた。
驚いて目を見開くと、そこは木漏れ日の差し込む森の小道だった。あかりは大きな木の根元で、膝を抱えて座り込んでいた。大きく張り出した枝が、焦がすような夏の日差しを遮ってくれている。地面には光の雫がぽたぽたと落ち、生い茂る葉で熱気を削がれた風と共にゆらゆらと揺れていた。
(東京ドームにいたはずじゃ……? それに、この場所はたしか……)
耳を塞ぎたくなるほどに喚き立てていた蝉たちが、逃げ水の遠く向こうにいってしまったような静けさだ。ふいに、被っていた麦わら帽子が持ち上げられた。頭の上に置かれたのは、少し小さくて、ひどく温かい掌。それは心地よいリズムで優しく動き、あかりの強張っていた身体の緊張を、魔法のように梳かしていく。
あかりが一番ほしかったもの。
その手はすぐ近くにあった。あのときまでは、いつでもそこにあったのだ。悲しい時も、寂しい時も、焦る気持ちも、苦しい時も、嬉しい時も、怒りに震える時も。その掌がすっと伸びてくれば、あかりの抱える感情の「半分」を吸い取って持って行った。あかりもまた手を伸ばし、服の裾を掴む。そうして感情の「半分」を受け取った。
すべてを二人で分かち合い共有する。それが、幼いあかりにとっての世界だったのだ。
けれど、いつのことか誰かがあかりに告げたのだ。いつまでも二人でべたべたしているのは、恥ずかしくて格好が悪いことなのだと。あかりは自分がひどく惨めになったような気がして、心に幾つもの棘を忍ばせた。そして、自分から「もういらない」と、その手を振り払ってしまったのだ。
(違うの……っ!)
あかりは慌てて手を伸ばした。けれど指先は空を切り、もう届かない。手放してしまったことのあまりの重大さに気づき、愕然とする。でも、もう遅い。自分で「いらない」と言ってしまった。
(ごめんなさい)
沈んだあかりの頭に、また手が乗せられた。
温もりは変わっていなかった。でも大きくなっていた。またリズムよく動き、心の棘を払い落としてくれる。
あかりは頭に乗せられた手にそっと触れる。相変わらず柔らかく心地よい。一番大切で絶対に手放してはいけないもの。失くしたと思っていたものは、ここにあった。今もあかりの半分を見守っていたのである。
それに気づいた瞬間、あかりを包み込む純白の布切れから、堰を切ったように温かい感情が流れ込んできた。
(お兄ちゃん!)
だけど手を差し出し掬い上げると、さらさらと流れ落ち、地面に飲まれていく。また消えてしまうんじゃないかと不安になる。ぽつり、と一本の棘が心に生えた。
また、棘々した気持ちでいっぱいになる日が来るかもしれない。いや、そんな日は必ず来る。幼い頃には白一色だった世界。でも本当は様々な色によって染め上げられているのだ。そのようなものに触れるたび、棘は一本ずつ増えていくのだ。
胸を締め付けてくるものに押しつぶされそうになる。
(でも……!)
あかりは強く首を振った。
そんな時はこのパンツをはけばいいんだ。それは健太とあかりの半分こなのだ。
いつしか、光の雫が広がって他の雫と繋がっていく。そしてあかりの視界はいつしか見た純白の、光り輝く世界に包まれた。
「蝉の声……?」
あかりがぼんやりと目を開くと、そこには爆発するような笑顔の群れと、万雷の拍手、地鳴りのような歓喜、そしてドームを揺らす足音があった。金色の紙吹雪が吹き荒れ舞い踊っている。その中心で、健太が大きく両手を振り上げ、観客の歓声に応えていた。
健太は振り返るとあかりに向かって何かを叫んだが、その声は熱狂の渦に呑み込まれて、何も届かない。でも、それで良かった。あかりは健太と一枚のパンツで繋がっている。
「そっか……。お兄ちゃん、勝ったんだね」
あかりは光あふれる大地の上に立つ健太を見つめ、また少し身長が伸びていることに気づいた。
「よかったね。……あと、私。お兄ちゃんのこと――」
あかりの言葉もまた、大観衆の声のなかに呑まれて消えた。




