プロローグ
二人の幼い子供の背に、蝉の声がいつまでも降り注いでいた。細く頼りなく、どこまでも続くように見える山道。樹木に覆われ、前にも後ろにも人影はない。
山科健太は妹のあかりの肩を抱え、大きな木の根元に座らせた。あかりはお腹を抱えて蹲る。
「痛い?」
「ごめんね、お兄ちゃん……」
あかりが小さく頷く。健太は麦わら帽子を取り、その頭をゆっくりと撫でた。あかりは顔を上げ、にこりと微笑む。心配させまいとする振る舞いだろうが、その額には汗一つなく、肌は青白い。周囲の暑さから切り離され、どこかへ攫われてしまいそうなあかりの姿に健太の胸は痛んだ。
健太は周囲を見回した。探検が楽しくて、二人で遠くまで来すぎてしまったのだ。健太は汗を拭い、きつく拳を握りしめる。
「少し待っていて。お父さんを呼んでくる」
あかりに背を向け走り出そうとした健太の裾が、弱々しく掴まれた。
「どこにも行かないで」
「だけど……」
両親はまだ母親の実家で酒を飲んでいるはずだ。それが退屈で家を飛び出してしまったのだ。あかりはとことことついてきた。スマホはさっきまで繋がっていたはずなのに、今は圏外だ。人を呼ぶにもこの蝉の猛烈な合唱で声は届きそうもない。
健太は屈み込み、妹の小さな手を握り返した。柔らかく、そしてひんやりとしていた。
妹を守らなくてはならない。だけど、どうすればいいのか分からない。誰かが通りかかるのを祈るように、あかりが背を預けている巨木を見上げた。隙間から太陽の光が刺すように降り注ぐ。その眩しさに目を細めた瞬間、ふと、音が消えた。
自分の耳がおかしくなったのかと思ったがそうではなかった。蝉が鳴き止んだのだ。
驚いて周囲を確認する。そして知らぬ間に背後に立っている影に気付いて、思わず尻もちをついた。
「あっ……」
何かを言おうとしたがあまりの驚きに声が出なかった。それは白髪に白髭の老人だった。ひょろりと背が高く、古ぼけたぼろぼろの着物をまとっている。健太はあかりを背中に隠そうと腕を広げた。
「ぼうや、そう警戒しなさんな」
低く嗄れた声だった。皺深く窪んだその奥に小さな黒い瞳がしばしばと瞬く。それはウインクをしたようにも見えた。
「ほうほう、困っておるようじゃのう」
老人はさらに皺を寄せて笑い、声を和らげた。
「おじいさん、あかりが……いえ、妹がお腹を痛がっていて……。誰か人を呼んできてくれませんか?」
老人は「ふむ」と頷くと、あかりに近づき、しゃがみ込んで彼女の額に手をおいた。
あかりは震えていたが、それが痛みによるものか老人への怯えなのかは分からない。彼女はぎゅっと健太の手を握りしめた。健太がなにかを言おうとした瞬間、老人は妹の額から手を離し、立ち上がる。そして懐から何かを取り出し健太に差し出した。
「おじいさん……、これは?」
それは純白のパンツだった。真珠のような光沢を放ち、触れてみればすべすべと柔らかい。今まで触れたことのないような上質な生地だった。生温かいのは老人の体温が移っていたからだろうか。
「これをはかせるとよいじゃろう。腹痛など、たちどころに治まるはずじゃ」
健太は目を丸くした。
「パンツ……? こんなもので治るんですか?」
「ふふふ……、チャックが社会の窓というのなら、パンツは心のカーテンじゃ」
愉快に笑う老人の言葉の意味はわからなかったが、健太はあかりにパンツを渡す。あかりは朦朧としているのかその場ではきかえようとするので、あわてて彼女の肩を再び担ぎ幹の裏側へと連れて行く。そこで彼女がはき替えるのを待った。
「お兄ちゃん!」
しばらくすると、あかりの弾んだ声が響いた。驚いて見ると、彼女は頬を赤らめはにかんだ笑顔を浮かべて立っていた。
「平気なのか?」
「うん、もう痛くない」
その言葉に、健太は大きな安堵の息を漏らす。そして礼を言おうと振り返った。
しかし、そこに老人の姿はなかった。ただ、再び蝉たちの合唱が騒がしく鳴り響いているだけだった。
◆◇◆◇◆
あの老人が何者だったのか、結局わからずじまいだった。祖父母に尋ねても、みな首を捻るばかりだ。手元に残されたのは、あの一枚のパンツだけである。あかりは成長してサイズが合わなくなるまで、それを宝物のように愛用し続けた。
そして今、そのパンツは額縁に収められ、健太の自室の壁に飾られている。長く愛用されたために少し形は崩れているが、その真珠のような光沢はいささかも衰えていない。
健太はじっとそれを見つめる。自分も、いつかこのようなパンツを作る。至高の一枚を作り上げたとき、あの老人は再び自分の前に現れるはずだ。
その時こそ、あの日言えなかった礼を言う。健太は静かにパンツに誓った。




