第92話:王都の胎動
ユウキたちが、魔族領の奥深くで世界の運命を左右する「鍵」を手に入れていた、その頃。
遥か東のアークライト王国王都では、巨大な権力構造を内側から揺るがす、小さな胎動が始まっていた。
夜の王城。
若い衛兵レオンは、心臓が張り裂けそうなほどの緊張を押し殺し、聖騎士団の副団長執務室へと続く廊下を歩いていた。
懐にしまった、小さな騎士団の印。それが、投獄された英雄マサルから託された、あまりに重い希望の証だった。
「――失礼します! ゲルハルト副団長閣下!」
レオンが扉の前で声を張り上げると、中から「入れ」という、低く、そして疲労の滲んだ声が返ってきた。
部屋の中では、聖騎士団副団長ゲルハルトが、机に山と積まれた書類を前に、苦虫を噛み潰したような顔で座っていた。齢五十を超え、歴戦の傷跡が刻まれたその顔には、最近の王城の空気を反映したかのような、深い心労の色が浮かんでいる。
「……何の用だ、小僧。今は取り込み中だ」
ゲルハルトは、顔も上げずに言った。
「はっ! 緊急にご報告したい儀が! どうか、人払いをお願いできないでしょうか!」
レオンの必死な声に、ゲルハルトは初めて訝しげに顔を上げた。一介の衛兵が、副団長に人払いを要求するなど、前代未聞だ。だが、レオンの瞳に宿る、ただならぬ覚悟の色を読み取ったのだろう。彼は、しばらくレオンを無言で見つめた後、小さくため息をついた。
「……分かった。下がれ」
その一言で、室内にいた他の側近たちが、一礼して静かに退出していく。
二人きりになった部屋で、ゲルハルトは探るような目でレオンを睨みつけた。
「で、話とは何だ。つまらんことなら、ただでは済まさんぞ」
レオンは、ごくりと唾を飲み込むと、懐からマサルに託された騎士団の印を取り出し、震える手でゲルハルトの机の上に置いた。
「……! これは、マサル殿の……!」
ゲルハルトの表情が、驚愕に変わる。
レオンは、マサルから教えられた合言葉を、一言一句間違えぬよう、はっきりと告げた。
「『偽りの太陽は沈み、真実の夜明けが来る。星の導きを待て』……と」
その言葉を聞いた瞬間、ゲルハルトの顔から、完全に血の気が引いた。
それは、かつて彼が、若き日のマサルに騎士の心得を説いた際に、冗談半分で交わした合言葉。二人しか知らない、誓いの言葉だった。
マサルが、生きている。そして、戦おうとしている。
その事実が、ゲルハルトの心に、激しい衝撃となって突き刺さった。
「……そうか。あやつ、まだ……」
ゲルハルトは、マサルの投獄に、誰よりも強く反対していた。王子のやり方は、あまりに横暴で、正義にもとる、と。だが、彼の声は、王子の絶対的な権力の前では、あまりに無力だった。
しかし、マサルは諦めていなかった。牢獄の中から、この国の正義を取り戻すための、反撃の狼煙を上げようとしていたのだ。
「……若者よ。よく、届けてくれた」
ゲルハルトは、レオンの肩を強く掴んだ。その目には、再び騎士としての、闘志の炎が燃え上がっていた。
「マサル殿の真意、確かに受け取った。我らも、もう黙ってはおれん」
その日を境に、王都の水面下で、静かな、しかし確実な動きが始まった。
ゲルハルトは、王子派閥の横暴に不満を抱き、マサルの無実を信じる騎士たちを、一人、また一人と、密かに集め始めた。それは、王国の心臓部で育つ、反乱の火種だった。
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一方、王城の最上階。
大賢者アイカは、第三研究所での一件を、第一王子に報告していた。その隣には、『影の猟犬』のリーダー、ゼノンが静かに控えている。
「――私のゴーレムが、破壊された、と?」
王子の声には、苛立ちの色が隠せない。
「はい。ユウキの未知のスキルによるものです。私の計算を、完全に超えていました」
アイカは、淡々と、しかしその声にはわずかな悔しさを滲ませて答えた。
「全く、使えん男だと思っていたが、とんだ置き土産を残してくれたものだ」
王子が舌打ちする。
そこに、ゼノンが静かに口を挟んだ。
「殿下。我らの情報網が、ユウキたちの新たな足取りを捉えました。彼らは、国境を越え、魔族領へと入った模様です」
「何? 魔族領だと?」
その報告に、アイカが眉をひそめる。
「……なるほど。王国に追われ、今度は魔族に助けを乞う、というわけですか。どこまでも非合理で、感傷的な男ね」
彼女は、心底つまらなそうに、しかしその瞳の奥には冷たい光を宿して言った。
「ですが、好都合ですわ。魔族と手を組んだとなれば、もはや彼らは王国にとって完全な『敵』。魔族もろとも、まとめて消去すればいいだけの話」
ゼノンが、優雅に一礼する。
「はっ。すでに、手は打っております。魔族領に精通した、新たな『駒』を、彼らの元へ送り込みました。今度こそ、逃しはしません」
ユウキたちが、魔族領で新たな「鍵」を手に入れたことなど、知る由もなく。
王国では、着実に、そして静かに、内乱の足音が響き始めていた。
物語は、誰にも予測できない、新たな局面へと、向かおうとしていた。




