第86話:少女たちの絆
魔族領での野営は、王国領でのそれとは比較にならないほどの緊張感を伴った。
俺は、周囲に『【無名:気配察知】』のスキルを応用した簡易的な結界を張り、交代で見張りをすることにした。今は俺の番だ。
パチパチと音を立てて燃える焚き火の向こう側で、ルナとリリスが、身を寄せ合うようにして座っている。
ルナは、俺が渡した毛布をリリスの肩にもかけ、二人でそれにくるまっていた。
何を話しているのか、ここまでは聞こえない。だが、その雰囲気は、これまで俺が見たことのない、穏やかで温かいものだった。
「……ねえ、ルナさん」
リリスが、小声でルナに話しかけている。
「ユウキさんって、いつも怖い顔してるけど……本当は、優しい人だよね」
その言葉に、ルナは一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、小さく頷いた。
「この前の戦いの時もそうだった。ルナさんのことを、自分の体よりも大切にしてるのが、見てて分かったよ。口は悪いけど、行動はいつも、ルナさんのためだもん」
リリスは、からかうように、しかしどこか羨ましそうに笑う。
ルナは、自分の膝の上で握りしめた両手を見つめながら、ぽつり、ぽつりと、たどたどしい言葉を紡ぎ始めた。
「……うん。ユウキは、優しい」
「最初は……怖かった。道具だって、言われた。でも……」
彼女は、言葉を探すように、一度だけ黙り込んだ。
「でも、いつも、守ってくれた。ゴブリンの時も、追手の時も……。私のために、傷ついてくれた。私の首輪も、外してくれた。……私の名前も、認めてくれた」
その言葉は、リリスに語りかけているようで、同時に、自分自身の心に確かめるように響いていた。
「ユウキといると、安心する。……言葉も、少しずつ、話せるようになった。感情も……少しずつ、戻ってきた気がする」
ルナは、そう言うと、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
リリスは、そんな彼女の手を、優しく握りしめた。
「そっか……。良かったね、ルナさん」
俺は、少し離れた木の幹に背を預けながら、その光景をただ黙って見ていた。
女同士の、無駄話。
そう切り捨ててしまえば、楽だったのかもしれない。
だが、俺のスキルは、それを許さなかった。
俺の意思とは関係なく、【概念の翻訳者】が、二人の間に流れる温かい空気の正体を、無機質なテキストデータとして俺の視界に映し出す。
> **【概念:対象ルナと対象リリスの間に発生】**
> **【概念:種族を超えた友情の萌芽】**
> **【概念:同じ境遇を持つ者同士の深い共感】**
> **【概念:相互理解によってもたらされる精神的な安らぎ】**
友情。共感。安らぎ。
それは、俺が最も理解できず、そして最も遠ざけてきた概念の羅列だった。
俺の知らないところで、ルナは、自分の世界を広げ、新しい関係を築き始めていた。
俺が与えたのではない、彼女自身の力で。
その事実に、俺は言いようのない戸惑いを覚えた。
胸の奥が、チリチリと焦げるような、奇妙な感覚。
それは、寂しさか? 羨望か?
あるいは、自分の「道具」だったはずの存在が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうことへの、身勝手な独占欲か。
分からない。
だが、その感情は、決して不快なものではなかった。
それどころか、焚き火の光に照らされて、楽しそうに、そして少しだけ悲しそうに微笑み合う二人の少女の姿は、この瘴気に満ちた魔境の中で、唯一、心を温めてくれる光景のように思えた。
俺は、自分の中に芽生え始めた、この正体不明の温かい感情から逃れるように、ふいと顔を背けた。
そして、誰にも聞こえないように、小さく、小さく、呟いた。
「……良かったな、ルナ」
その言葉は、夜の闇に溶けて消えた。
だが、俺の心に灯った小さな温もりは、もう消えることはなかった。
人間不信の分厚い氷が、また一枚、音を立てて溶けていくのを、俺はただ感じていた。




