第85話:魔境の洗礼
魔族領へと続く門をくぐった瞬間、俺たちの世界は一変した。
空は鉛色に淀み、大地は黒くひび割れている。足元からは、絶えず紫色の瘴気が立ち上り、視界を不明瞭にさせていた。俺が即座に生成した『【無名:瘴気耐性】』のスキルがなければ、ルナは一歩も進めずに倒れていたかもしれない。
「……空気が、重い」
ルナが、苦しそうに呟く。瘴気そのものはスキルで防げても、この土地全体を覆う、生命を拒絶するかのような重圧までは消し去れない。
「これが、魔族領の普通だよ。私たちにとっては、故郷の匂いだけどね」
案内役のリリスは、平然とした顔で言った。彼女にとっては、この過酷な環境こそが日常なのだ。
旅は、初日から困難を極めた。
王国領の森とは、生態系が根本から違う。木々はねじくれ、植物は毒々しい色をしている。そして、何より厄介なのは、この土地を闊歩する魔獣たちだった。
「グルルルァァァッ!」
茂みから飛び出してきたのは、硬い甲殻に覆われた、巨大な狼のような魔獣だった。その目は憎悪に爛々と輝き、涎を垂らしながら俺たちに襲いかかってくる。
「チッ、面倒なのが出たな!」
俺は短剣を抜き、ルナとリリスを背後にかばう。これまでの経験から、敵の急所は首か心臓。俺はセオリー通り、魔獣の懐に飛び込もうとした。
「待って、ユウキさん!」
リリスの鋭い声が、俺の動きを制止した。
「その魔獣、『鎧狼』は、首や胴体を狙ってもダメ! 甲殻が硬すぎて、刃が通らない!」
「何だと!?」
俺が戸惑った、その一瞬。鎧狼が、その巨体に似合わぬ俊敏さで俺に飛びかかってきた。
「ユウキ!」
ルナの悲鳴が響く。俺は咄嗟に地面を転がり、攻撃を回避する。だが、体勢は完全に崩されていた。
「弱点は、関節! それと、眉間にある魔石よ!」
リリスの的確な指示が飛ぶ。
関節と、眉間の魔石。
俺は体勢を立て直しながら、鎧狼の動きを冷静に観察する。リリスの言葉を信じ、俺はあえて危険な懐へと飛び込んだ。そして、奴が前足を振り上げた瞬間、がら空きになった関節部分に、スキルで強化した短剣を突き立てた。
「ギャインッ!」
甲高い悲鳴を上げ、鎧狼が体勢を崩す。俺はその隙を見逃さず、奴の背中に駆け上がると、眉間で不気味な光を放つ魔石めがけて、ありったけの力で短剣を突き刺した。
魔石が砕け散る、甲高い音。鎧狼は、断末魔の咆哮を上げて巨体を横たえ、やがて動かなくなった。
「……はぁ、はぁ……助かった、リリス」
俺は、荒い息をつきながら、リリスに礼を言った。彼女の知識がなければ、俺は無駄に体力を消耗し、最悪の場合、致命傷を負っていたかもしれない。
「ううん。私も、ユウキさんたちの戦い方を見て、驚いてる。すごいね」
リリスは、少しだけ頬を赤らめて言った。
俺は、彼女の有用性を、認めざるを得なかった。
この魔境において、彼女の知識と経験は、俺の地味スキルと同じか、それ以上に価値のある武器だ。
だが、この土地の厳しさは、魔獣だけではなかった。
旅の途中、俺たちは武装した魔族の一団とすれ違った。彼らは、俺とルナの姿を認めると、あからさまな敵意と侮蔑の視線を向け、唾を吐き捨ててきた。
「……チッ、人間が、なぜこんな場所にいる」
「どうせ、奴隷狩りか何かだろう。汚らわしい」
聞こえよがしに放たれる、憎悪に満ちた言葉。
リリスが慌てて俺たちの前に立ち、「この人たちは、私の客人だ!」と庇ってくれたおかげで、それ以上のトラブルにはならなかったが、俺は改めて自分たちの立場を痛感させられた。
ここは、完全な敵地。
人間であるというだけで、俺たちは全ての魔族から敵として見られる。
オルデンの言葉が、脳裏をよぎる。
『魔族領では、決して人間を信じるな。そして、魔族も信じるな』
俺は、隣を歩くリリスの横顔を、そっと盗み見た。
彼女は、本当に信じられるのか?
人間不信の俺の心は、まだ、その答えを出せずにいた。




