第84話:魔境への第一歩
数日後。
俺たちは、魔族領への旅立ちの準備を整え、隠れ家の入り口に立っていた。
オルデンをはじめ、『月影』の一族の者たちが、俺たち三人を見送るために集まっている。
「若者よ、心して聞け」
出発の直前、オルデンは俺の前に立ち、その深い瞳で俺をまっすぐに見据えた。
「これより先は、我ら魔族の領域。だが、お主らにとっては、王国以上に危険な敵地となるだろう」
彼の言葉に、俺は黙って頷く。人間である俺たちが、魔族の領土に足を踏み入れる。それがどれほど危険なことか、想像に難くない。
「魔族領では、決して人間を信じるな。そして、魔族も信じるな。我らとて、一枚岩ではない。様々な氏族が、それぞれの思惑で生きている。友好的な者もいれば、人間と見るや、問答無用で牙を剥く者もいる」
オルデンは、一度言葉を切り、俺の隣に立つルナと、そして自分の孫娘であるリリスに、慈しむような、しかし厳しい視線を向けた。
「信じられるのは、己の力と、隣に立つパートナーだけだ。……リリスを、頼んだぞ」
その言葉は、俺の胸に重く響いた。
人間も信じるな、魔族も信じるな。
それは、俺がこの世界に来てから、ずっと自分に言い聞かせてきたことと同じだった。
だが、オルデンは最後に付け加えた。「パートナーだけは信じろ」と。
俺は、隣に立つルナを見た。彼女は、俺の視線に気づき、こくりと頷き返す。その瞳には、揺るぎない信頼の色が宿っている。
そうだ。俺はもう、一人じゃない。
「……ああ。分かっている」
俺は、短く答えた。
「ユウキさん、ルナさん。行こう」
リリスが、覚悟を決めた顔で俺たちを促す。彼女はもう、ただの案内役ではない。一族の未来を背負い、俺たちと共に戦うことを決意した、一人の戦士だ。
俺たちは、オルデンたちに背を向け、タルガの街へと続く地下通路を歩き始めた。
地上に出て、再び混沌とした街の雑踏を抜ける。そして、ついに、魔族領へと続く西の門の前に立った。
門の向こう側に広がるのは、アークライト王国の緑豊かな大地とは全く異なる、荒涼とした風景だった。
空はどんよりと曇り、太陽の光さえも毒々しい紫色に染まっているように見える。大地は黒く、ひび割れ、そこから立ち上る瘴気が、まるで亡霊のように揺らめいていた。遠くからは、聞いたこともない魔獣の咆哮が、断続的に響いてくる。
ここが、魔境。
人間にとっては、死地そのもの。
「……すごい、瘴気」
ルナが、顔をしかめて呟く。
「大丈夫だ」
俺は、あらかじめ生成しておいた『【無名:瘴気耐性】』のスキルを、俺とルナに付与した。リリスは魔族であるため、この程度の瘴気は問題ないようだった。
俺たちは、誰ともなく顔を見合わせた。
人間不信の、元勇者の俺。
王国に全てを奪われた、元貴族の少女ルナ。
そして、王国に故郷を追われた、魔族の少女リリス。
あまりにも歪で、ありえない組み合わせのパーティ。
だが、俺たちの目的は一つ。
この不条理な世界に、反撃の狼煙を上げること。
「行くぞ」
俺の言葉を合図に、俺たちは、魔境へと続く荒野に、第一歩を踏み出した。
新たな脅威と、未知の文化が待ち受ける、危険な旅。
だが、俺の心に、もう恐怖はなかった。
ただ、隣に立つ二人のパートナーと共に、前へ進むという、静かで熱い決意があるだけだった。




