第74話:ルナの願い
国境の街タルガの酒場は、昼間から熱気と酒の匂いに満ちていた。
俺は、エールをちびちびと飲みながら、周囲の会話に耳を澄ませる。傭兵たちの武勇伝、商人たちの儲け話、そして、この街ならではの、王国と魔族領に関するきな臭い噂話。
「……『魔石』の輸送、か」
傍受した通信にあったキーワード。だが、この酒場で得られる情報は、どれも信憑性に欠けるものばかりだった。確かな情報を掴むには、もっと別のルートが必要だろう。
「……」
俺の隣で、ルナはただ静かにジュースを飲んでいる。彼女の『気配察知』は、この騒がしい酒場の中でも、俺に向けられる悪意や過度な好奇心を的確に捉え、俺にだけ分かるように小さく合図を送ってくれていた。彼女は、もう立派な俺のパートナーだ。
「行くぞ。ここにはもう、めぼしい情報はなさそうだ」
俺たちが酒場を出て、再び雑多な市場を歩いていた時だった。
路地裏の方から、複数の男たちの下品な笑い声と、何かに怯えるような小さな声が聞こえてきた。
よくあるトラブルだ。この混沌とした街では、日常茶飯事の光景。
俺は、面倒事に関わるつもりは毛頭なく、そのまま通り過ぎようとした。
だが、俺のローブの裾が、くい、と軽く引かれた。
振り返ると、ルナが、その路地裏をじっと見つめていた。その瞳には、俺がこれまで見たことのない色が宿っている。
「……どうした」
俺が尋ねると、彼女は俺の目を見上げ、そして、震える声で、しかしはっきりと、こう言った。
「……助けてあげて」
俺は、一瞬、言葉を失った。
彼女が、自分のこと以外で。見ず知らずの他人のために、自らの意志を、願いを、口にしたのは初めてだった。
俺は、彼女の視線の先にある路地裏を、改めて覗き込んだ。
そこには、二人の王国兵が、壁際に一人の少女を追い詰めている光景があった。少女は、年の頃はルナと同じくらいだろうか。頭からは、魔族の証である小さな黒い角が生えている。
「おい、魔族の小娘。何か隠してるんじゃねえのか? 見せてみろよ」
「ヒヒッ、こいつの角、高く売れるかもしれねえぜ」
兵士たちが、下卑た笑いを浮かべながら、じりじりと少女ににじり寄る。少女は、恐怖に体を固くし、ただ震えているだけだった。
その姿が、かつて奴隷市でうずくまっていたルナの姿と、重なって見えた。
(……面倒だ)
関わるべきじゃない。俺たちの正体がバレれば、元も子もない。合理的に考えれば、無視して立ち去るのが最善手だ。
俺はルナの手を引き、その場を離れようとした。
「ユウキ」
だが、ルナは動かなかった。彼女は、俺の目をまっすぐに見つめ、もう一度、繰り返した。
「お願い……助けてあげて」
その瞳に宿る、強い光。
それは、理不尽な暴力に晒される者を見過ごせないという、彼女の魂の叫びだった。
彼女はもう、ただ守られるだけの存在ではない。自分の意志で、誰かを救いたいと願う、一人の人間なのだ。
「……はぁ。仕方ないな」
俺は、大きくため息をつくと、彼女の頭をくしゃりと一度だけ撫でた。
「お前の『願い』だ。聞かないわけにはいかないだろう、パートナー」
俺は、ルナを安全な物陰に待たせると、一人で兵士たちの方へと歩み寄った。
「おい、そこのお二人さん。随分と楽しそうじゃないか」
俺が声をかけると、兵士たちは苛立ったようにこちらを振り返った。
「ああん? なんだ、てめえ。邪魔すんじゃねえよ」
「いやいや、邪魔だなんて。ただ、あんたたち、何か大事なものを落としましたぜ?」
俺は、ニヤリと笑って、地面を指差した。
兵士たちが訝しげに自分の足元を見ると、そこには、彼らのものらしき革袋――給金袋が、口を開けて転がっていた。
「なっ!? 俺の給金袋!」
「なんでこんなところに!?」
兵士たちが慌てて金貨を拾い集めようと屈んだ、その瞬間。
俺は、もう一つのスキルを発動させていた。
『【無名:平衡感覚阻害】』
「うおっ!?」
「な、なんだ、急に地面が……!」
屈んだ姿勢で強烈な眩暈に襲われた兵士たちは、無様に互いの頭をぶつけ合い、その場にひっくり返った。
「……さて、今のうちに失せな。次に俺の前に現れたら、給金袋だけじゃ済まないぜ?」
俺が冷たく言い放つと、兵士たちは何が起こったのか分からないまま、ほうほうの体で逃げ出していった。
俺は、その場に残された魔族の少女に視線を移す。
「……もう大丈夫だ」
少女は、まだ怯えた目で俺を見ていたが、やがて、深々と頭を下げた。
「あ、ありがとう……ございます……」
「礼なら、あいつに言え。俺は、あいつに頼まれただけだ」
俺は、物陰から出てきたルナを顎でしゃくった。
魔族の少女――リリスは、ルナを見て、そして俺を見て、何かを理解したように、もう一度、丁寧に頭を下げた。
俺は、そんな二人を横目に、少しだけ照れくさいような、そしてどこか誇らしいような、複雑な気持ちを抱えていた。




