第67話:大賢者の論理
長い廊下の先にあったのは、広大なドーム状の空間だった。
壁には、無数のガラス管が並び、中には得体の知れない液体と、原型を留めない「何か」が浮かんでいる。グレイの報告書にあった、生体実験の残骸だろう。鼻をつく異臭が、ここが生命を弄ぶ地獄であることを物語っていた。
そして、その中央。
巨大な魔石の制御装置らしきものの前で、一人の少女が、静かにこちらに背を向けて立っていた。
腰まで届く、艶やかな黒髪。知的な光を宿した眼鏡。
間違いない。
【大賢者】、相川愛歌。
俺たちが足を踏み入れると、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
その表情に、驚きや動揺の色は一切ない。まるで、俺たちがここに来ることを、最初から知っていたかのように。
「……久しぶりね、黒崎君。いえ、今はユウキ、だったかしら」
涼しげな声。
俺が最後に聞いた、あの頃と何も変わらない声。
だが、その声の響きは、俺の心の奥底に突き刺さる、氷の刃のようだった。
「……ああ、久しぶりだな、アイカ。随分と、趣味の悪い研究をしているらしいな」
俺は、込み上げてくる怒りを抑えつけ、皮肉を込めて言い返した。
「趣味じゃないわ。これは、この世界を救うための、最も合理的なプロセスよ」
彼女は、表情一つ変えずに言い切った。
「合理的、だと? 人を物のように扱い、命を弄ぶことがか?」
「ええ。そうよ」
アイカは、あっさりと肯定した。
「魔王という絶対的な脅威を前に、感傷や倫理はノイズでしかない。必要なのは、最小の犠牲で、最大の結果を出すための、冷徹な論理。私は、その論理に従っているだけ」
その言葉に、俺は絶句した。
こいつは、本気で言っているのか。
「……一つ、聞かせろ。なぜ、俺を裏切った? なぜ、俺を生贄にした?」
俺が、ずっと抱えてきた疑問をぶつける。
すると、彼女は心底不思議だというように、小さく首を傾げた。
「裏切った? 人聞きの悪いことを言わないで。あれは、裏切りじゃないわ。『最適化』よ」
「……何?」
「あの時の状況を思い出して。私たち勇者は、魔王を倒すという目的のために召喚された。でも、あなたのスキルは、戦闘には全く不向きだった。ステータスも、一般兵以下。客観的に見て、あなたは勇者としての『不良品』だったの」
不良品。その言葉が、俺の心を容赦なく抉る。
「一方で、王国は『生贄』を求めていた。出来損ないの勇者を処刑することで、民衆の不安を煽り、結束を高めるための、政治的なパフォーマンスをね。――だから、私は提案したの。王子殿下に。戦闘に役立たないあなたを『生贄』という役割で活用することで、全体の士気を高める。それは、あの時点での、最も合理的な判断だった。あなた一人の犠牲で、残りの勇者の結束と、国民の戦意が高まるのなら、安いコストだと思わない?」
その、あまりに冷酷で、非人間的な論理に、俺は激しい怒りで目の前が真っ赤になるのを感じた。
こいつは、俺を、俺の命を、ただの「コスト」として計算し、切り捨てたのだ。
かつて、同じ教室で笑い合ったはずのクラスメイトを。
「……ふざけるな」
俺の口から、地を這うような低い声が漏れた。
「お前の言う正義は、犠牲になる側の痛みを、何も考えていない。ただの、傲慢な自己満足だ!」
「感傷的ね、ユウキ。でも、それも仕方ないわ。あなたは、犠牲になる『側』の人間だから。私のように、全体を俯瞰して、より大きな利益のために非情な決断を下す『側』の人間には、なれない」
アイカは、憐れむような目で俺を見た。
「でも、あなたが生きているのなら、話は別。その未知のスキルは、私の計算を狂わせた唯一のイレギュラー。私の計画に協力してくれるなら、あなたを再び『仲間』として迎え入れてもいい。あなたも合理的に考えれば、私の正しさが理解できるはずよ」
仲間、だと?
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で、何かが完全に切れた。
俺は、隣で静かに怒りを燃やしているルナの手を、強く握りしめた。
この温もりこそが、俺の真実だ。
こいつの言う、歪んだ正義や合理性など、クソ食らえだ。
俺は、かつて友と呼べるかもしれなかった少女を、今はただの「敵」として、憎悪に満ちた瞳で睨みつけた。




