第60話:研究所の闇
マサルとの再会が残した心の軋みを無視するように、俺は意識を目の前の任務へと強制的に切り替えた。
夜。王都が深い眠りにつく頃、俺とルナはグレイが用意した隠れ家を出た。
目指すは、王立魔道具研究所。
白亜の美しい建物は、夜の闇の中では巨大な墓標のように、不気味な静けさで佇んでいた。
「行くぞ」
俺は『【無名:足音消失】』を発動させ、ルナは『【無名:気配察知】』に全神経を集中させる。俺たちは、闇に溶け込む二つの影となって、研究所の敷地へと滑り込んだ。
衛兵の巡回ルート、死角、交代のタイミング。昼間のうちに頭に叩き込んだ情報を元に、俺たちは誰にも気づかれることなく、建物の内部へと侵入することに成功した。
「……ユウキ。人の気配が、多い。地下から、嫌な感じがする」
ルナが、小声で俺に告げる。ペンダントの力で強化された彼女の感覚は、この建物の異常性を正確に捉えていた。
「地下、か」
辺境伯の日記にも、研究所の地下に秘密の研究施設がある可能性が示唆されていた。おそらく、そこが当たりだろう。
俺たちは、所長室と思われる部屋に忍び込んだ。辺境伯が記憶を遺すとしたら、最も重要な情報が集まるこの部屋の可能性が高い。
部屋の中央にある、重厚な執務机。俺は、ルナに頷きかける。
「頼む」
「うん」
ルナは、胸元のペンダント『アストライアー』を両手で握りしめ、そっと机の上に置いた。
ペンダントが、淡い蒼色の光を放ち始める。
周囲の空間が歪み、俺たちの意識は、再び過去の記憶の中へと引きずり込まれていった。
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目の前に広がるのは、同じ所長室の光景。
だが、そこに立っているのは、俺たちではなく、アルテミス辺境伯だった。彼は、机の上に置かれた何かの書類を、険しい顔で調べている。
『……やはり、ここの研究は表向きのものだけではないな』
辺境伯が呟き、書棚に隠されたスイッチを押す。ゴゴゴ、と音を立てて、本棚が横にスライドし、地下へと続く隠し階段が現れた。
俺たちの視点も、辺境伯と共に、その冷たい石の階段を下りていく。
階段の先は、別世界だった。
壁に並ぶガラス張りの水槽の中には、異形の生物が蠢いている。床には、おびただしい血の痕跡。そして、鼻をつく薬品の匂いと、死臭。
非人道的な生体実験。その言葉が、脳裏をよぎった。
辺境伯は、物陰に身を隠しながら、さらに奥へと進む。
やがて、一番奥にある、ひときわ大きな実験室の光景が目に飛び込んできた。
そこでは、数人の研究員たちが、巨大な魔石――砦で見たものと同じ、禍々しい紫黒の魔石――を前に、何かの作業を行っている。そして、その中央で、冷静に、淡々と、指示を出している人物がいた。
その姿を認めた瞬間、俺の思考は、完全に停止した。
腰まで届く、艶やかな黒髪。知的な光を宿した眼鏡の奥の、涼しげな瞳。
他の勇者たちよりも小柄で、いつも静かに本を読んでいた、物静かな少女。
俺と同じ、日本から召喚された勇者。
【大賢者】の職業と、あらゆる魔法を使いこなす【魔法創造】のスキルを持つ、天才。
「――アイカ」
俺の口から、掠れた声で、その名前が漏れた。
相川愛歌。
クラスでも目立たない存在だったが、その頭脳は誰よりも明晰で、俺が唯一、心を許せるかもしれないと思っていた、クラスメイト。
その彼女が、今、目の前で。
「その個体はもういいわ。廃棄して。次の実験体を用意してちょうだい。今度は、もう少し魔力耐性の高いものを」
まるで、壊れた道具でも捨てるかのように、冷たい声で、非人道的な命令を下している。
嘘だ。
何かの間違いだ。
これは、洞窟が見せた幻覚と同じ、罠なんじゃないのか。
だが、【概念の翻訳者】が、その僅かな希望さえも、無慈悲に打ち砕いた。
> **【概念:対象アイカの思考】**
> **【概念:『天を穿つもの』の早期完成への渇望】**
> **【概念:実験体を『材料』としか認識していない非人間性】**
> **【概念:出来損ないの勇者の排除は合理的判断だったという結論】**
――出来損ないの勇者の排除は、合理的判断だった。
その、一行のテキストが、俺の心を、粉々に砕いた。
俺を裏切ったのは、王でも、王子でもなかった。
俺が、この世界で唯一、信じられるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまった、勇者仲間の一人。
彼女が、俺を「生贄」として切り捨てた、張本人だった。
「……あ……ああ……あああああああああっ!」
声にならない絶叫が、俺の魂から迸る。
激しい怒りと、それを遥かに上回る、底なしの絶望。
信じていた。
また、俺は、信じてしまっていた。
そして、また、裏切られた。
「ユウキ!?」
記憶の光景が消え、現実に戻った俺の異変に、ルナが悲鳴のような声を上げる。
だが、その声は、もう俺の耳には届かなかった。
俺の心は、再び、あの冷たくて暗い、人間不信の闇の中へと、急速に沈んでいこうとしていた。




