第46話:再現される悪夢
「ユウキ! しっかりして!」
ルナの悲鳴が聞こえる。
繋いでいたはずの彼女の小さな手の感触が、急速に遠のいていく。
俺は、その手を必死に掴もうとするが、指先は虚しく空を切るだけだった。
やがて、洞窟の冷たい空気は消え、代わりに、俺が最も忌み嫌う、あの役員会議室の空気が鼻をついた。
目の前には、憔悴しきった顔で「悠希がやったんです」と俯く、親友だったはずの男、斎藤の姿があった。
『お前のせいで、俺の人生もめちゃくちゃだ!』
『信じてたのに、どうして……!』
『あなたって、最低の人間ね』
上司の怒声。恋人の軽蔑した視線。家族の失望した顔。
俺が心の奥底に鍵をかけて封じ込めていたはずの、裏切りの記憶が、次から次へと洪水のように押し寄せてくる。
「やめろ……やめてくれ……!」
俺は耳を塞ぎ、蹲る。
これは幻だ。洞窟が見せる罠だ。
頭では分かっている。だが、一度抉られた心の傷は、あまりに深く、そして生々しかった。
信じれば、裏切られる。
期待すれば、絶望させられる。
築き上げたものは、いとも簡単に壊される。
その事実が、呪いのように俺の思考を縛り付ける。
そうだ。俺は、一人だ。
最初から、一人だったじゃないか。
ルナの手の温もりも、彼女の信頼の色を宿した瞳も、全ては俺が見た都合のいい幻だったのかもしれない。
結局、俺は誰にも救われないし、誰も救えない。
憎悪と絶望が、再び俺の心を黒く塗りつぶしていく。
もう、どうでもいい。
何もかも、終わってしまえばいい。
俺の意識は、心地よい諦めと共に、底なしの闇へと沈んでいこうとしていた。
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ユウキが、突然頭を抱えて蹲ってしまった。
その瞳からは光が消え、まるで亡霊でも見るかのように、虚空を睨んでいる。
「ユウキ! どうしたの!? 私が、分かる!?」
ルナは、彼の肩を必死に揺さぶる。
だが、ユウキは彼女の声に全く反応しない。それどころか、繋いでいたはずの手を、まるで汚いものでも振り払うかのように、乱暴に振りほどいた。
その瞬間。
ルナの世界から、音が消えた。
ユウキの姿が、目の前から掻き消える。洞窟の闇も、ユウキが灯してくれていた掌の光も、全てが嘘だったかのように消え失せた。
代わりに、彼女の目の前に広がったのは、燃え盛る炎と、黒煙が立ち上る、見慣れた故郷の風景。
アルテミス家の城の中庭。
そして、目の前には、血に濡れた断頭台と、そこに引きずられていく、父と母、そして兄の姿があった。
「いや……いやぁぁぁっ!」
声にならない悲鳴が、喉の奥で張り付く。
兵士たちの下卑た嘲笑。民衆の罵声。そして、家族の最期の絶叫。
全てを奪われた、あの地獄の日が、寸分の違いもなく、目の前で再現されていく。
助けて。
誰か、助けて。
ユウキ。
彼女は、心の底からパートナーの名前を叫んだ。
だが、その声は、もう言葉にはならなかった。
恐怖と絶望が、彼女の精神を再び蝕み、砕いていく。
光を失った瞳からは、感情のない涙だけが、とめどなく流れ落ちた。
思考が、止まる。
感覚が、麻痺していく。
私は、ただの壊れた人形。
何も感じない。何も望まない。
ただ、この悪夢が終わるのを、待つだけの。
洞窟の中、二人はすぐ隣にいるはずだった。
だが、その心は、決して交わることのない、それぞれの孤独な地獄へと、完全に引きずり込まれていた。
互いの存在を見失い、互いの声も届かない、深い、深い闇の中で。




