第45話:迷いの洞窟
「準備は、よろしいですかな」
隠れ里エルムの最奥。巨大な岩壁に穿たれた、闇が口を開ける洞窟の前で、長老は静かに俺たちに問いかけた。
俺とルナは、無言で頷き返す。
長老は、その洞窟――『迷いの洞窟』を見上げながら、最後の忠告のように語り始めた。
「ユウキ殿、ルナ様。この洞窟には、魔物も、物理的な罠もございません。ですが、力ある者も、賢い者も、一人では決して踏破できぬ場所。なぜなら、この洞窟が試すのは、人の『心』そのものだからです」
「……精神の罠、か」
俺の呟きに、長老は深く頷いた。
「洞窟は、中に入った者の最も辛い記憶を呼び覚まし、最も深い絶望を幻として見せるでしょう。多くの者が、その悪夢に囚われ、二度と戻ってはきませんでした」
その言葉に、ルナの体が微かにこわばるのが分かった。彼女にとって、最も辛い記憶。それは、想像を絶する地獄であるに違いない。俺にとっても、それは同じだった。
「では、どうすればいい」
俺が問うと、長老は俺とルナの顔を交互に見て、諭すように言った。
「乗り越える鍵は、ただ一つ。パートナーを信じ、互いの心の闇を照らし合うこと。己の弱さを認め、パートナーの強さを信じること。それ以外に、道はございません」
パートナーを、信じる。
その言葉が、俺の胸に重くのしかかる。
人間不信の塊である俺に、それを試すというのか。この試練は、まるで俺のために用意されたかのようだ。
俺は、隣に立つルナを見た。
彼女は、不安そうに唇を噛み締めながらも、俺の目をじっと見つめ返してきた。その瞳には、「あなたと一緒なら、大丈夫」という、揺るぎない信頼の色が宿っている。
……ああ、そうか。
俺はもう、一人じゃないんだったな。
俺は、ルナの小さな手を、強く握りしめた。
「行くぞ」
「……うん」
俺たちは、覚悟を決めて、洞窟の闇へと足を踏み入れた。
一歩中に入った瞬間、背後で騒がしかった里の喧騒が、嘘のように完全に途絶えた。
ひんやりとした、墓場のような空気が、肌に纏わりつく。
洞窟内は、不気味なほどに静かだった。
風の音も、水滴の音も、虫の羽音一つしない。俺とルナの足音だけが、闇に吸い込まれては消えていく。
俺は左手に『【無名:微光】』を灯した。だが、その頼りない光は、まるで分厚い闇に阻まれているかのように、数歩先までしか届かない。
物理的な罠や、敵の気配は一切感じられなかった。それがかえって、じわじわと精神を締め付けるような、言いようのないプレッシャーとなっていた。
俺たちは、繋いだ手を離さないように、互いの存在だけを頼りに、洞窟の奥深くへとゆっくりと進んでいく。
どれくらい歩いただろうか。
景色は全く変わらず、ただただ暗く、静かな通路が続くだけ。
その、静寂が。
不意に、破られた。
『――悠希』
どこからか、懐かしい声が聞こえた気がした。
俺は、はっとして足を止める。
「ユウキ?」
ルナが、不思議そうに俺の顔を見上げる。
「……いや、何でもない」
気のせいか。
俺が再び歩き出そうとした、その時。
『あなたを信じていたのに!』
『お前のせいで、会社はめちゃくちゃだ!』
『もう、顔も見たくない』
親友の声。上司の声。恋人の声。
俺が信じ、そして裏切られた者たちの声が、次々と脳内に直接響き渡る。
それは、俺が心の奥底に封じ込めていたはずの、悪夢。
「……っ、やめろ……!」
俺は、頭を抱えてその場に蹲った。
違う。これは幻だ。罠だ。
分かっているのに、思考が、憎悪と絶望に黒く塗りつぶされていく。
「ユウキ! しっかりして!」
ルナの悲鳴のような声が、遠くに聞こえる。
だが、俺の意識はもう、あの日の地獄へと、急速に引きずり込まれていこうとしていた。




