第34話:銀髪の狩人
結界の向こう側、霧の中から現れたのは、月光を浴びて輝く銀髪を持つ、一人のエルフの女だった。
その美貌は、まるで精緻な人形のように人間離れしていたが、対照的に、その目に宿る光は、獲物を見据える肉食獣のように冷酷で、一切の感情を映していなかった。
「見つけたわ、アルテミス家の忘れ形見」
女は、鈴の鳴るような、しかし温度のない声で言った。
その声は、俺を隔てる不可視の壁を通り抜け、はっきりとルナの耳に届いていた。
「ルナ! そいつから離れろ!」
俺は壁を叩きつけながら叫ぶが、声は届かない。壁の向こうのルナは、目の前に現れた圧倒的な捕食者を前に、恐怖で完全に体を強張らせていた。
女――『影の猟犬』の一人は、ゆっくりとルナに歩み寄る。
「自己紹介がまだだったわね。私はシルヴィア。あなたを迎えに来たの」
シルヴィアと名乗ったエルフは、ルナの銀髪を一瞥し、つまらなそうにため息をついた。
「あなたも、その髪のせいで不幸になるのね。アルテミス家の生き残りなど、災いの元でしかない。さあ、おとなしく王子殿下の元へ来なさい。抵抗しなければ、苦しまずに済むわ」
その言葉は、ルナの心に突き刺さった過去の悪夢を、鮮明に呼び覚ました。
家族が処刑される光景。燃え盛る屋敷。兵士たちの嘲笑。
恐怖が、全身を支配する。足が、地面に縫い付けられたように動かない。声も出ない。
また、奪われる。また、全てを失う。
もう、あの絶望に戻るのは嫌だ。
「ルナ! 逃げろ! 走れ!」
結界の向こう側で、ユウキが必死に何かを叫んでいる。
その姿が、恐怖に凍り付いたルナの意識を、強く揺さぶった。
(ユウキ……)
そうだ。私はもう、一人じゃない。
私には、相棒がいる。
私の「目」と「耳」を必要としてくれる人がいる。
私の名前を、呼んでくれる人がいる。
『お前は、俺の『目』と『耳』になれ』
『これは、二人で生き残るための訓練だ』
ユウキとの、約束。
ここで捕まれば、全てが終わる。ユウキの元へ、二度と帰れなくなる。
――嫌だ。
その強い拒絶の感情が、初めて、恐怖を上回った。
ルナは、奥歯を強く噛みしめた。
「あら、まだ抵抗する気?」
シルヴィアが、心底つまらなそうに短剣を構え、一気に距離を詰めてくる。
その瞬間、ルナは、今まで出したことのないような力で、地面を蹴っていた。
ユウキとの訓練を思い出す。敵から逃げる時は、ただ闇雲に走るな。地形を利用しろ。相手の死角に飛び込め。
ルナは、近くにあった大きな岩の影に身を滑り込ませ、そのまま森の奥深くへと駆け出した。
木の根に足を取られ、ぬかるみに体勢を崩しながらも、必死に足を動かす。
生きたい。
死にたくない。
ユウキの元へ、帰りたい。
その一心だけが、彼女を突き動かしていた。
「……少しは、楽しませてくれるのかしら」
シルヴィアは、逃げ出した獲物を見て、初めてその唇に冷たい笑みを浮かべた。彼女は、まるで戯れるかのように、しかし確実に、森の闇に消えた小さな背中を追い始めた。
「ルナァァァッ!」
俺は、結界の壁を殴りつけながら、無力に叫ぶことしかできなかった。
壁の向こうで繰り広げられる、絶望的な鬼ごっこ。
早く、早くこの壁を壊さなければ。
焦りと怒りが、俺の心を黒く染め上げていった。




