第33話:追跡者の罠
新たな目的地、アルテミス家の旧領地の先にあるという「隠れ里」。
それは、ただ追手から逃れるための場所ではなかった。そこに眠るという「遺産」は、俺たちがこの不条理な運命に抗うための、唯一の希望かもしれなかった。
「これはもう、ただの逃亡じゃない。俺たちの戦いの始まりだ」
夜の森を歩きながら、俺は隣にいるルナにそう呟いた。彼女は、俺の言葉に力強く頷き返す。その瞳には、もう以前のような怯えだけの色はなかった。
ゲオルグから受け取った地図を頼りに、俺たちは王国の監視網を抜けるべく、険しい山道や獣道を選んで進んだ。
『【無名:ミスディレクション】』と『【無名:痕跡抹消】』のスキルは、驚くほど効果的だった。何度か追手らしき斥候とすれ違ったが、彼らは俺たちに気づくことなく通り過ぎていく。
順調すぎる。
その事実が、逆に俺の警戒心を煽っていた。『影の猟犬』と呼ばれる連中が、これほど簡単に追跡を諦めるとは思えなかった。
旅を始めて、五日が過ぎた頃だった。
俺たちは、霧が立ち込める深い森の中にいた。地図によれば、この森を抜ければ、アルテミス家の旧領地はもうすぐのはずだ。
何の前触れもなかった。
俺が、ぬかるんだ地面に一歩足を踏み出した、その瞬間。
――パリンッ!
ガラスが割れるような甲高い音が響き渡り、足元の地面から淡い紫色の光の線が、蜘蛛の巣のように一気に広がった。
「なっ……!?」
「ユウキ!」
光の線は、俺と、俺のすぐ後ろを歩いていたルナとの間に、見えない壁となって立ち塞がる。俺は咄嗟に振り返り、壁の向こう側にいるルナに手を伸ばした。だが、その手は、まるで分厚いガラスに阻まれたかのように、それ以上先へは進まない。
「ルナ!」
俺の叫び声は、不可視の壁に吸い込まれて虚しく響くだけだ。壁の向こうで、ルナが驚きと恐怖に目を見開き、こちらに手を伸ばしているのが見える。だが、彼女の声も、俺には届かない。
(魔力結界か……!)
俺は舌打ちし、すぐに状況を分析する。これは、物理的な壁ではない。侵入者を分断し、閉じ込めるための、大規模な罠だ。
「クソッ、まんまと誘い込まれたか……!」
俺はすぐに【概念の翻訳者】を発動させ、この忌々しい結界の情報を読み取る。
> **【概念:空間分断型結界魔法『迷宮の檻』】**
> **【概念:対象の分離と足止めが目的】**
> **【概念:術者の魔力供給が続く限り、維持される】**
> **【概念:術者の意図:銀髪の娘の捕獲を最優先事項とする】**
> **【概念:術者の意図:同行者(勇者)は足止め、あるいは無力化】**
――狙いは、ルナか!
スキルが弾き出した無慈悲なデータに、全身の血が凍るような感覚を覚えた。
俺がどうなろうと構わない。だが、ルナだけは……! あいつを一人にしてはならない。
ゴブリンの巣窟での記憶が、悪夢のように蘇る。あの時よりも、遥かに危険な状況だ。相手は、王子直属の暗殺部隊なのだから。
俺は、結界の壁を力任せに殴りつけた。だが、壁は微かに波打つだけで、びくともしない。
「ルナ! 聞こえるか! 何があっても、そこを動くな! すぐに行く!」
声が届いているかは分からない。それでも、俺は叫ばずにはいられなかった。
壁の向こうで、ルナが恐怖に震えながらも、必死に頷いているのが見える。
焦りが、心を焼き尽くす。
冷静になれ。俺は自分に言い聞かせる。この結界を破壊する方法を探せ。術者は、おそらく近くにいる。
だが、敵が俺にそんな時間を与えてくれるはずがなかった。
結界の向こう側、ルナがいる空間の霧の中から、一人の人影が、音もなくゆっくりと姿を現した。
その姿を見て、俺は息を呑んだ。
月明かりに照らされた、美しい銀色の髪。鋭く尖った耳。
――エルフ。
そして、その手には、獲物を狩るための毒々しい光を放つ二本の短剣が握られていた。




