第30話:ゲオルグの申し出
ザラームを発つ前夜。
俺たちは、人目につかないよう、街の最下層にある安宿に部屋を取っていた。明日、夜が明けきる前に、北の門から出て、追手の意表を突くルートで逃亡を開始する手筈だ。
部屋の中では、ルナが買ってきたばかりの地図を広げ、俺が指し示す逃亡経路を真剣な眼差しで追っている。彼女はもう、ただ守られるだけの存在ではない。俺の「相棒」として、この危機を共に乗り越えようとしていた。
その時だった。
コン、コン、と控えめなノックの音が、部屋の扉から響いた。
俺は咄嗟に短剣を抜き、ルナを手で制して背後に隠す。こんな時間に、この安宿を訪ねてくる者など、ろくな相手ではない。追手の密偵か?
「……誰だ」
俺が、殺気を込めて低い声で問う。
「……私です。ゲオルグと申します。ルナ様はいらっしゃいますか」
扉の向こうから聞こえてきたのは、意外な人物の声だった。アルテミス家の元家臣、あの老商人だ。なぜ、彼がここに?
俺は警戒を解かないまま、扉に近づき、わずかに隙間を開けた。そこには、人目を忍ぶようにローブを目深にかぶったゲオルグが、心配そうな顔で立っていた。
「どうしてここが分かった」
「情報屋に、金貨を一枚ほど。あなた方が街を離れるおつもりだと聞いて、居ても立ってもいられず……」
グレイか。あの男、どこまで情報を売っているんだ。
俺はゲオルグを部屋に招き入れ、すぐに扉を閉めた。
「ユウキ殿、ルナ様。やはり、街を出られるのですね。……賢明なご判断です」
ゲオルグは、俺たちがまとめた荷物を見て、納得したように頷いた。
「あんたも、何か掴んだのか」
「はい。私の古い商売仲間から、情報が。王都の動きが、どうにもきな臭いと。どうやら、王子殿下が直々に、何かを探させているようで……。『影の猟犬』という、不吉な名も耳にしました」
ゲオルグも、追手の正体を掴んでいる。彼の言葉に嘘はないようだ。
「それで、ただ心配しに来ただけか?」
俺がぶっきらぼうに問うと、ゲオルグは真剣な顔で首を振った。
「いえ。あなた方に、逃げ場所を提案しに参りました」
彼は懐から古い地図を取り出し、テーブルの上に広げた。
「あてどなく逃げるだけでは、いずれ『影の猟犬』に捕まります。彼らは、そういう連中です。ですが、この国の北東、アルテミス家の旧領地のさらに奥に、王国の支配がほとんど及ばない『隠れ里』がございます。そこならば、追手の目も届きにくいでしょう」
アルテミス家の旧領地。ルナの故郷。
その言葉に、隣に立つルナの肩が微かに震えるのが分かった。
俺は、ゲオルグの申し出をすぐには信じなかった。
「……親切な申し出だが、あんたに何の得がある。俺たちを罠にはめるつもりじゃないだろうな」
人間不信が、俺にそう言わせた。
だが、ゲオルグは悲しそうに微笑むと、静かに言った。
「これは、アルテミス辺境伯様から受けたご恩をお返ししたいという、私のわがままです。……それに、あなた方には、そこへ向かうべき理由がある」
「理由だと?」
ゲオルグは、声をさらに潜め、重大な秘密を打ち明けるように続けた。
「辺境伯様は、万が一の事態に備えておられました。あの方は、王子派閥との対立が、いずれ悲劇を生むことを予見されていたのかもしれない。そして、来るべき時に備え、アルテミス家に代々伝わる『遺産』を、誰にも知られぬ場所に隠されたのです」
「……遺産?」
その言葉が、俺の興味を強く引いた。
金か? 強力な武器か? あるいは、王子派閥の不正を暴く、決定的な証拠か?
「それが何か、私にも分かりません。ただ、辺境伯様はこう仰っていました。『もし、アルテミス家の血を引く者が、絶望の淵に立たされた時、この遺産が、反撃の狼煙となるだろう』と」
反撃の、狼煙。
その言葉は、ただ逃げることしか考えていなかった俺の心に、熱い火を灯した。
現状を打破する、唯一の可能性。
俺は、ゲオルグの目をまっすぐに見据えた。彼の瞳には、アルテミス家への揺るぎない忠誠と、ルナの未来を案じる誠実な光が宿っていた。




