第23話:新しい名前
魔道具工房からの帰り道、俺とルナは無言だった。
彼女は時折、まだ信じられないというように、自分の首筋にそっと触れている。その仕草を見るたび、俺の胸の奥が奇妙な感覚に包まれた。
宿に戻る途中、俺はふと足を止め、近くにあった衣料品店を指差した。
「おい、入るぞ」
ルナは、戸惑ったように俺の顔を見上げる。俺は何も言わず、店の中へと入っていった。これまで彼女が着ていたのは、奴隷市で買った薄汚れたローブか、俺が適当に見繕ったフード付きの旅装だけだ。首輪が外れた今、それらはもう相応しくない。
「……好きなものを選べ」
俺がぶっきらぼうに言うと、ルナは戸惑ったように、店に並べられた色とりどりの服をただ見つめるだけだった。自分で何かを選ぶという行為に、慣れていないのだろう。
結局、俺は一番地味で、しかし仕立てのしっかりした濃紺のワンピースを手に取り、代金を支払った。これも合理的な判断だ。みすぼらしい格好は、無用なトラブルを招く。ただ、それだけだ。
宿の部屋に戻り、俺は買ってきたワンピースをルナに投げ渡した。
「着替えろ」
彼女は黙ってそれを受け取ると、部屋の隅で、背を向けて着替えを始めた。
やがて、着替えを終えたルナが、おずおずとこちらを振り返る。
俺は、思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、もう「壊れた道具」ではなかった。
奴隷の証である首輪はなく、薄汚れたローブの代わりに、簡素だが清潔なワンピースを身にまとっている。痩せてはいるが、その姿には、隠しようのない気品が漂っていた。長い銀髪が、ランプの光を浴びてきらきらと輝いている。
これが、アルテミス辺境伯家の令嬢、彼女の本来の姿に近いものなのか。
俺は、胸に込み上げてくる正体不明の感情から逃れるように、わざと冷たい声を作って言った。
「いいか。お前はもう、奴隷じゃない」
ルナの肩が、ピクリと震える。
「だから、その名前も捨てろ。『ルナ』という名は、奴隷だったお前の名前だ。過去と一緒に、捨ててしまえ」
それは、俺なりの不器用な配慮だったのかもしれない。
過去を捨て、新しい人間として生きろ。俺自身がそうであるように、過去に縛られるな。そんな、自分勝手な押し付け。
ルナは、俯いたまま動かなかった。
また、いつも通り、黙って頷くだけだと思っていた。
だが、違った。
長い沈黙の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、涙に濡れていたが、そこには確かな意志の光が宿っていた。
そして、か細い、しかしはっきりとした声で、彼女は言った。
「……ルナが、いい」
俺は、言葉を失った。
彼女が、自分の意志を、これほど明確に口にしたのは初めてだった。
「どうしてだ。その名前は、お前にとって苦しい記憶の象徴のはずだ」
俺が問い詰めると、彼女は小さく首を振った。
「……お父様と、お母様が、つけてくれた……名前、だから」
途切れ途切れの、たどたどしい言葉。だが、その一つ一つに、彼女の想いが込められているのが分かった。
「……それに……あなたが、呼んでくれる……名前、だから」
その言葉は、鋭い矢のように、俺の心の最も柔らかい場所を貫いた。
彼女は、過去から逃げることを選ばなかった。
辛く、苦しい記憶も、両親から与えられた愛情も、そして俺に「道具」として扱われた日々さえも。その全てを抱きしめた上で、自分の足で歩き始めようとしている。
「ルナ」という名前は、彼女にとって、過去と今を繋ぐ、唯一の絆なのだ。
俺は、何も言えなくなった。
ただ、目の前で、か細い体で懸命に自分の意志を伝えようとする少女の姿を、見つめることしかできなかった。




