第19話:咄嗟の庇護
『嘆きの森』は、その名の通り、不気味な静寂と淀んだ空気に満ちていた。グレイの情報通り方位磁石は狂ったように回り続け、俺は木の幹にナイフで印をつけながら、慎重に森の奥深くへと進んでいった。
数時間後、俺は岩陰に隠された洞窟を発見した。入り口周辺には獣の骨が散乱し、内部からはゴブリン特有の不快な匂いが漂ってくる。ここが巣窟で間違いないだろう。
「ルナ、お前はここを動くな。物音一つ立てるなよ」
俺は、洞窟から少し離れた茂みの影にルナを待機させ、冷たく言い渡した。彼女は、いつも通り黙って頷くだけだ。
俺は一人、『【無名:足音消失】』を発動させ、洞窟内へと滑り込む。内部は薄暗く、曲がりくねった通路が続いていた。すぐに、二体のゴブリンが見張りをしているのが見えた。奴らは油断しきって、意味のない言葉を交わしている。
(まず、二体)
俺は通路の影から、スキルで生成した小石を奴らの背後へと『【無名:投擲補助】』で投げつけた。カラン、と乾いた音が響く。ゴブリンたちが、警戒しながらそちらへ顔を向けた。
その隙を、俺は見逃さない。
『【無名:短剣術強化(初級)】』を発動させ、一気に背後へ回り込む。一瞬で二体のゴブリンの喉を掻き切り、奴らが悲鳴を上げる間もなく、その命を絶った。血の匂いが、洞窟の空気に混じる。
俺の心は、驚くほど冷静だった。恐怖も罪悪感もない。ただ、目的を遂行するための作業を、淡々とこなしているだけだ。
この調子で、俺は巣窟の奥へと進んでいった。見張りを数体始末し、ゴブリンの数を確実に減らしていく。リーダーであるホブゴブリンは、おそらく最深部にいるはずだ。
もう少しで広間に出る、という通路まで来た時だった。
俺は斥候のゴブリンを一体仕留め、次の獲物を探して息を潜めていた。ルナを待たせている入り口からは、もうずいぶん離れている。
その、静寂を切り裂いて。
――カラン。
背後から、小さな、しかしこの静寂の中では致命的ともいえる音が響いた。
しまった、と俺が振り返ると、そこにはいつの間にか俺の後をついてきていたルナが、恐怖に顔を強張らせて立ち尽くしていた。彼女の足元には、蹴り飛ばしてしまったのであろう小石が転がっている。
なぜ、ここにいる。動くなと言ったはずだ。
俺の思考が怒りと焦りで満たされた、その瞬間。
通路の角から、一体のゴブリンがぬっと姿を現した。そして、音の発生源であるルナの姿を認め、醜い顔を獰猛な喜びに歪ませた。
「ギギッ!」
ゴブリンが、手に持った汚れた棍棒を振り上げ、非力な獲物であるルナに襲い掛かる。
――まずい。
そう思った時には、俺の体は思考よりも先に動いていた。
俺は、ルナの前に飛び出していた。
ゴッ、と骨が軋むような鈍い衝撃が、左腕を襲う。
ゴブリンが振り下ろした棍棒を、俺は咄嗟に腕で受け止めていたのだ。激痛が走り、視界が白く染まる。
だが、痛み以上に、俺の心を支配したのは、激しい動揺だった。
(なぜ?)
なぜ、俺はこいつを庇った?
道具だ。壊れても心が痛まない、ただの道具のはずだ。
道具が壊れるのを防ぐため? 違う。それなら、もっと合理的なやり方があったはずだ。ゴブリンの注意を引くとか、別の方法が。
自分の身を危険に晒してまで、咄嗟に庇うなど、ありえない。
あってはならない行動だ。
「ギシャアアッ!」
ゴブリンが、追撃のために再び棍棒を振り上げる。
俺は、混乱する思考を無理やりねじ伏せ、右手に握った短剣を振るった。スキルで強化された一閃が、ゴブリンの太い首を正確に切り裂く。
断末魔の悲鳴を上げて、ゴブリンは崩れ落ちた。
俺は、激痛の走る左腕を押さえながら、その場に膝をつく。背後では、ルナが恐怖で腰を抜かし、小さく震えていた。
俺は、自分の左腕を見下ろした。
じんじんと熱を持ち、感覚が麻痺していく。
だが、それ以上に、俺の心は冷え切っていた。
道具として扱ってきたはずの少女のために、無意識に体を張ってしまった自分自身への、理解不能な恐怖によって。




