第16話:道具と人間
ゲオルグの店をどうやって出たのか、よく覚えていない。
老商人は涙ながらに、ルナ様の力になりたい、何かできることはないかと申し出てきたが、俺は「今はそっとしおいてくれ」とだけ告げて、その場を後にした。
ザラームの喧騒が、やけに遠くに聞こえる。
俺は無言で宿への道を歩き、ルナはいつも通り、俺の数歩後ろを黙ってついてくる。何も変わらない、いつもの光景。
だが、俺の中では、何かが決定的に変わってしまっていた。
(ただのデータだ)
俺は、必死に自分に言い聞かせた。
【概念の翻訳者】が示した「国政の裏切り者の娘」という情報が、ゲオルグの口から語られただけだ。事実関係が補強されたに過ぎない。ルナが俺の「道具」であるという事実は、何一つ変わらない。
そう、変わるはずがない。
人間を信じれば、裏切られる。期待すれば、絶望させられる。
この少女を「人間」だと認めてしまえば、俺はまた、あの地獄を繰り返すことになる。それは絶対に避けなければならない。
宿の部屋に戻り、俺はランプに火を灯した。
夕食の準備をしなければならない。いつも通り、固いパンと干し肉を荷物から取り出す。そして、いつも通り、その半分をルナに……。
俺の手が、止まった。
いつもなら、床に無造作に放り投げるはずのパンを、俺は握りしめたまま動けなくなっていた。
床に転がったパンを、彼女が小さな手で拾い上げる姿が脳裏をよぎる。あの時は、何も感じなかったはずなのに。
結局、俺は無言でルナに近づき、パンと干し肉を直接手渡していた。
ルナは、驚いたようにわずかに目を見開いたが、やがておずおずとそれを受け取った。
俺は、そんな自分に苛立ちながら、壁際に腰を下ろす。
ルナから目を逸らし、自分の分の食事を無理やり口に詰め込んだ。味がしない。
ちらりと、視線を向ける。
部屋の隅で、ルナが小さな口でパンをかじっている。その姿は、もう俺には「餌付けされる小動物」には見えなかった。
痩せた肩。虚ろな瞳。その奥に隠された、想像を絶する絶望。
彼女は「壊れた道具」などではない。
――俺と、同じじゃないか。
信じていた世界に裏切られ、全てを奪われ、心を殺して生きている。
ただ、俺が憎悪と拒絶を選んだのに対し、彼女は沈黙と無を選んだ。その違いでしかない。
彼女は、人間だ。
その事実を認めてしまった瞬間、俺の胸の奥で、頑なに閉ざしていた扉が軋むような音を立てた。恐怖が、冷たい霧のように這い上がってくる。
また、傷つくのが怖いのか? 俺は。
俺は、ルナの首筋に目をやった。
フード付きのローブを着ていても、その細い首には、錆びついた鉄の首輪が食い込んでいるのが分かる。
以前は、ただの「行動の障害」であり、取り除くべき「コスト」でしかなかった、あの首輪。
だが、今の俺には、それが全く別のものに見えていた。
あれは、彼女に不当に被せられた「冤罪の証」だ。
彼女の尊厳を奪い、過去の絶望に縛り付ける、呪いの鎖だ。
(……あれを、外す)
以前も、そう考えた。
だが、その意味は、今や全く違うものになっていた。
それはもう、単なる「道具の修理」や「リスクの排除」ではない。
この少女を、彼女を縛り付ける不理な過去から、解放する。
その行為が、俺にとって何を意味するのか。
彼女を人間として認めた先に、何が待っているのか。
まだ、分からない。考えたくもない。
だが、俺は確かに、そう決意していた。
打算や合理性だけでは説明のつかない、初めての明確な「目的」として。
俺は、静かに食事を続けるルナの姿から、目を逸らすことができなかった。




