債務不履行
ミツルたちが家に帰った後直ぐ、エミからラインの通知が届いた。
「私は、自由研究にミツル君を参加させる責務をはたしたわ。次はあなたの番よ」
早くデートに誘えと言っている。
俺は初恋を60年前に経験しているが、デートの経験はない。結婚はお見合いだ。72年間の人生の中でどのページをめくってもデートの記載はない。
しかし、何事にも最初というものはある。案ずるよりも産むが易し。心配することはない。怯えることもない。
しかし、小遣いがない。デート資金がない。そう運転資金が不足して債務不履行に陥ろうとしている。このままでは債権者のエミの取り立てに怯える毎日を過ごさなければならない。
不渡りを出しそうな会社の社長になったようだ。
この場合、社長は何をするべきか、やはり資金繰りだ。銀行から融資を受けるのが定石、俺の場合は母親か父親、どちらもエミとのデート用の小遣いをくれと言えば喜んで出してくれるだろう。井筒家との縁は将来、結城家に大きな利益をもたらすはずだ。ならば返済計画も必要でなく、俺に対する投資として受け取ることができる。
デメリットは俺からエミとの関係を解消しにくくなることだ。あまり将来に枷をかけたくない。
ならば二人の兄に借りるのはどうか。これは下策だ。町の裏金融に金を借りるようなものだ。利子として何を要求されるか、わかった物でない。
やはりここは、債権者に事情を話して履行期限の猶予をもらうのが得策だ。俺は迷い考え抜いたすえ、エミにラインを送信した。
「今から会いたい。お前の家の門で待つ」
少しの間返信を待っていたが、来そうもないので取敢えず行くことにした。
井筒家の門が見えるところまで歩いて行くと、エミは門に寄りかかって待っている。慌てて走って行くと予想した通り、怒っていた。
「待っていると言っときながら、なんで私が待たされているのよ」
「ラインの返事待っていたら遅くなった。ごめん」
「それで要件は何?今から例の約束を守ってくれるの」
「その事なんだが、少し待ってくれないかな。今俺小遣いがなくて、デートできそうにない」
エミは一瞬驚いたようにポカンとしたが、直ぐににんまりとする。
怖い。俺は何かとんでもないミスを犯したようだ。
「分かったわ、デートは延期してあげる。その代わり明日、私のお買い物に付き合ってもらうね」
何を要求されるか心配した。でも少しほっとした。次の言葉を聞くまでは。
「デートが履行されるまで、毎日利息は払ってもらうからね」
町の裏金融に十一という違法の金利をとる者がいると聞くが、エミの場合毎日1割の金利を要求している。さすがと言うべきか、この地域一帯を大昔から牛耳ってきた井筒一族の末裔だ。
7月28日(月)
一夜明けて午前10時、俺は井筒家の車、田中さんが運転する黒のクラウン後部座席にエミと一緒に乗っている。目的地は高松市内、昨日エミと約束した買い物に付き合うためだ。
右隣に座るエミは、袖なしの黒のジャケット同じ色合いの短めのスカート、とても似合っている。
表情から上機嫌であることが直ぐにわかる。利息として今日一日俺をこき使うつもりだ。
エミの口角が上がり、俺の眉間のしわが溝を深める。
「今日は何の買い物だ。高松市だから三越デパートにでも行くのか」
「何を言っているの、三越で買い物をする人なんて、地方から出て来た田舎者よ」
「俺たちは、香川県の東の端、東かがわ市、その中でも更に東の端である引田地区から来ているのだぞ。正真正銘の田舎者だ。ならば田舎者の手本として三越に行くべきだろう」
「ワーちゃんは三越に行きたいの?もしかしてだけど、カブト虫コーナーに行きたいとか。日頃大人ぶった言葉を使うのに、中身はお子様ね」
エミが嬉しそうにすり寄ってくる。
「ちげーよ。でも三越に行って見たいとは思う。行ったことがないからな。まあ今日はお前の買い物の付き添いだ。どこにでも付いて行ってやる」
「私はぶらぶらと町を見て回るつもりよ。田中さんは三越で香辛料を買う予定だと聞いています。後で、三越で落ち合いましょう」
運転をしている田中さんを見ると、「はい、承知しました」と短く返事した。なにやら楽しそうな表情に見える。
俺とエミは瓦町駅で車を降りた。前世で見た町の風景はどこにもなかった。
驚きを隠せず、立ち並ぶビル群を見ていた俺の口は半分開いていたのだろう。
「田舎者の手本であるワーちゃんに私が町を案内してあげる」
エミはノリノリで歩き出す。エミの服装が少し似ているせいか、昔々バスツアーのガイドさんが、小さな旗を持って、ツアー客の先頭を歩いていたのを思い出していた。
前世の思い出に浸っている間に、エミはどんどん歩いて行く。俺は人ごみの中慌てて追いかける。
俺たちは菊池寛通りを西に歩き、アーケード内に入ると人がうじゃうじゃいた。
うじゃうじゃと言う表現を人を見て思うのは初めてだ。庭の土を掘るとアリの巣があり、そこからアリがうじゃうじゃ出て来たことがある。気持ち悪かった。今も同じだ。
でも、エミにそのような感じは全くなく、ぐいぐいと進んで行く。そして彼女は迷うことなく、最初の目的の店にたどり着いた。
井筒屋のお嬢様が訪れるお店とは、高級な宝石店またはお洒落なブティックかと想像していたが、そこは手作りの肉まん、あんまん等を店頭で実演販売している小さな店だった。肉まんを作っている職人さんの姿がガラス越しに見える。蒸された肉まんの美味しそうな香りが表にまで漂っている。
エミは10個のあんまんを注文し内8個を包んでもらう。残りの2つはエミと俺に1つずつ、直ぐ食べれる状態で受け取る。お代はエミが支払い、包は手提げの紙袋に入れてもらう。持つのは勿論俺だ。
俺とエミはそのあんまんをぱくつきながらアーケード内を進む。そして食べ終わる頃、次の店に着いたらしい。大判焼の店だ。
ここでもあんまんの店と同様に10個注文、内2個はエミと俺用に包んでもらい、食べながら歩き出す。
ようやく解った。今日の買い物とは、食べ歩きだ。何が町を見て回るだ。食って回るの間違いだろ。
その後、大福店、ドーナツ店、間にタピオカジュースを飲み、シュークリーム店を回った。
俺の両手はお土産の手提げ袋でいっぱいだ。もちろん胃袋も同様である。
「エミは良く食うな」
「あら、女の子は、甘い物は別腹と言うじゃない」
この状況でその言葉は少し違うと思う。
食べた甘い物だけ、別腹があるとすれば、今回は6軒店を回った。内1軒は飲み物だから除外するとして、5軒、別腹が5個あることになる。牛でも4つしか胃を持っていない。エミの胃は5個ある事になる。
だが、俺はそれを指摘しない。俺も同じだけ食べたからだ。実に美味しかった。それにお代はエミが全て払っている。あれ、これいいのかな?
タダより高い物は無いと言う。
少しずつ恩を着せられている。既に6回も・・・手遅れだ。
「腹水盆に返らず」「後悔先に立たず」夏休み前の国語の授業で習った言葉だ。
この状況を避けるための言葉なのに、何の役にも立っていない。
「馬の耳に念仏」それは俺の事を言っている。
「馬の耳に念仏」の意味を答えろとテストに出題されたら、その答えは「和三郎にことわざです。ごめんなさい」と回答しよう。先生はベストアンサーとして生徒たちに紹介してくれる事だろう。
じわじわと自責の沼に沈んでいく俺の心に、突然ラオウ様の声が舞い降りる。
「退かぬ、媚びぬ、省みぬ」
俺の中にいる中二病菌が発動したようだ。
ネガティブな俺の心をポジティブに塗り替えていく。
そうだ、返せない金と恩は踏み倒せばいい。
「ワーちゃん大丈夫?」
はっと気が付くと俺の顔をエミが覗き込んでいる。近い。
俺は数歩後ずさりした。
「ごめん、少し考え事をしていた」
「ワーちゃんの顔、白から青へそして赤に変化していたよ。人ゴミに酔った?」
「本当に大丈夫だ。次は何処に行く?」
「予定していたお買い物は終わりよ。取り敢えず荷物を車に預けに行きましょう。その後三越内をぶらぶらね」
エミは田中さんと連絡を取り、三越近くに駐車していた車に荷物を預けた。それにより俺の両手は自由になった。一仕事終えた気持ちだ。そうだ、今回の仕事は賄い付きの仕事だったのだ。別にエミから奢ってもらったわけではないのだ。そう思うと気持ちが晴れた。




