お腹がすく条件
7月24日(木)
窓ガラスの外は茹だるような暑さだ。蝉はひと夏の恋を謳歌するため元気に鳴いている。蝉にとっては一生に一度きりの恋。だが俺にとっては五月蠅いだけだ。いやもしかすると蝉もここ最近の日照り続きで恋愛どころではなく「暑い、暑い」と泣いているのかもしれない。今年の夏は本当に熱い。
取り敢えず俺こと結城和三郎と親友の野網満はエアコンの利いた家の中で、夏休みを満喫している。
正確に言えば少し違う。今月の小遣いは夏休みに入って直ぐに使い果たしている。後1週間は無一文であるから真の意味で夏休みをエンジョイしているとは言えない。
まあ、小学5年生の夏は大方こんなものだろう。自分たちの事を標準値だと思いたい。もしかしたらダメな小学生かもしれない。
「腹が減ったな」
何気なく俺の口から言葉が漏れた。
「ワッサンはいつも腹減らしているな」
隣でマンガを読んでいたミツルがこちらをチラリと見て答える。特にミツルに対して言った言葉ではないが、返事をされたら無視するわけにはいかない。
「俺は小5の11才、世間ではガキと呼ばれている年齢だ。餓鬼とは腹を減らしているものだ。ミツルお前だって同じだろう」
「ワッサンは理屈っぽい。まあそうだな、暇になると腹が減る。遊んでいると腹は減らない。今は腹減った。」
ミツルこそ理屈っぽい。それに今は遊んでいるじゃないのか?宿題もしていなし。でもミツルは遊んでいないつもりのようだ。
「じゃ外に遊びに行くか」
「外は36℃の地獄だぜ。俺たちのような子供が外で遊ぶなんて、昭和か平成時代じゃあるまいし、今どき流行らないぜ」
「時代ってなんだよ。古代エジプト時代も江戸時代も子供は外で遊んでいたと思うけど。それなら、ここで何かして遊ぶのか。自慢じゃないが、俺の家には昭和の吉幾三さんレベルだよ。Wi-Fiもなければテレビゲームもラジオもない。まあ今時ラジオは普通にないか。ならお前ん家に行くか」
俺の親父はIT関係の会社を経営しているが住んでいるこの家は築60年、装備も昭和のままだ。貧乏ではないはずなのに。
寝転がっていたミツルは気怠そうに起き上がるが答えは明瞭だ。
「俺ん所はだめだ。姉貴が受験生だから息もできない」
何を大げさな、お前の家は海底にあるのか。名前が野網だからか定置網のようなものか。
「ん、お前何か失礼な事を考えただろ」
無駄に鋭い親友のミツルは、たまに俺の考えを察する時がある。
「そんな事はない。それなら図書館はどうよ。エアコンは勿論、マンガも少ないが置いてある」
「あそこも息ができない。静かすぎて落ち着かない。我の安息の地は神に導かれし約束の地」
面倒くさい奴だ。そう彼は小学5年生にして中二病を患っているのだ。成人病が若年化しているように中二病も同様の傾向にあるらしい。もしかしたら中二病ウイルスが突然変異を起こし、感染力を高めたのかもしれない。
俺が親友の体を心配していると、突然ミツルが言い放つ。
「海へ、いざ参らん」
「・・・・」
さっき外は地獄だとか言ってなかったか、ああ海底はお前の家があったな。まあそれも悪くはないな。金もないから晩飯のおかずでも採って親から小遣いをもらうとしよう。
「よし一稼ぎ。魚を突きに行くか。裏の倉庫にヤスとかゴーグルがあるから持って行こう」
俺の家は海の近くにある。どれだけ近いかと言うと、玄関から徒歩1分で海岸である。台風の時は、窓ガラスにワカメが張り付いた事があるほどだ。
そこから海岸沿いに300mほど北へ進んだ所に安戸池と言う海水の池がある。
そこにはハマチ養殖を世界で始めて成功させた野網和三郎の銅像が立っている。そう俺の名前、和三郎はこの人にあやかって付けられており、ニック ネームのワッサンもこれを詰ったものだ。
この銅像を初めて見たのは俺が3歳の時、祖母に連れられてきた時だ。あの時の事は鮮明に覚えている。
あの瞬間この銅像は俺だと解った。そう俺は以前、野網和三郎だったと理解した。野網和三郎の魂が憑依したと言うより、記憶が蘇ったと言った方が感じ的には正しい。
決して、3才で中二病を患ったわけではない。
また、俺が神童と呼ばれた事も無かった。普通より魚に詳しい少し擦れたガキなだけである。
小学5年生になった今、銅像に対する感想と言えば、できれば高知県桂浜の坂本竜馬像のように、太平洋を臨むような形で立ててほしかった。安戸池を眺めながら佇んでいる姿より外側の海、播磨灘を見据えるように立たせて欲しかった。その方が未来を見据えている様でかっこいいし、内向きに立っていると安戸池に何かやり残した事、何か未練がある様にも見える。俺にはそんな気持ちありませんから。
そうそう、この展開から行けば、俺はまた前世の様に水産業の研究に没頭して行きそうな流れだがそうではない。
今の俺は魚より肉が好きです。魚も嫌いではないよ。でもやはり牛肉でしょ。ステーキ、焼き肉でしょ。まあ前世では肉と言えばクジラの肉だったし、その肉は魚屋さんに売っていた。肉も水産業でした。
今生ではマクドナルドに吉牛、こんな田舎でもファーストフード店はある。そうです。牛肉の味を覚えてしまったのだ。と言う訳で水産業にはこれっぽっちも興味がありません。
少し自己紹介が長くなった。今からミツルと行こうとしているのはその安戸池です。
今の安戸池は釣堀として魚を放流しているから勝手に採ったら泥棒になる。俺達が遊ぶのは池に面している外側の海だ。
池と海は水門で繋がっており、常時海水が潮の満ち引きにより流れている。
引き潮の時は池から海へ、満ち潮の時は海から池へ海水が流れてくる。今の時間だと緩い引き潮のはずだ。水門から外海に向かってゆっくりと潮が流れているだろう。
家の倉庫からヤスを持ち出し、ゴーグル、スノーケル等、必要な道具を自転車の籠に入れ水門へ向かう。暑い空気の中でも自転車で進むと風が心地よい。
水門に着いたミツルは、靴を脱ぎ捨てると海に向かって飛び込んだ。後に残るのは、海に向かって白い靴が脱ぎ捨てられているだけ、入水自殺の現場と言いたいところだが、脱ぎ捨てられた靴は乱雑に散らばっており、海から打ち上げられたゴミと変わらない。釣り堀の管理人にゴミと間違えられて回収されたら困るので自転車の籠に入れてやる。
俺はミツルのお母んか。ミツルは11才だが、俺は前世61年間の記憶を持つから今の11才とで72才、お母さんではなく爺だな。実際の所、ミツルは野網和三郎の子孫、つまり俺の子孫だから、俺はミツルのひーひーひー爺さんにあたる。
ミツルの靴を片づけた後、俺は軽自動車のタイヤチューブから作った特製の浮き輪に獲物格納用の網を取り付け、それを海に投げ込む。そして俺も流れる水流めがけて飛び込んだ。一瞬ひやりと身体を包む海水が気持ちいい。
水門から流れ出る水流は、俺たちをゆっくりと沖へ運んでいく。
海岸から少し離れた沖に岩礁がある。そこは干潮になると岩が水面から顔を出すくらい浅くなっている。今はまだ干潮には時間があるため岩礁は海中にある。
ミツルはその場所を、俺とミツルだけの秘密の狩場などと言っているが、昔は違った。俺の前世の記憶にもある。近場の泳ぎの得意なガキどもがサザエやアワビを拾いに遊んでいた岩礁だ。
あのころはたくさんサザエが拾えた。今はどうかと言うと、実はそこそこ採れる。親父に聞いた話だと、20年ほど前は採りつくした為かサザエやアワビはいなかったそうだ。それからその場所は人々から忘れられ、月日を経て令和の今復活したのだろう。
今は小学生だけで海で遊ぶことなど誰もやらない。プールでさえ監視員の他に複数の親たちが同行している。海岸から少し離れた沖の浅瀬で子供だけで遊ぶなど以ての外である。今はこの岩礁が俺たちの秘密の場所、ミツルが言う「神に導かれし約束の地」と言ってもいいのかもしれない。
先に岩礁にたどり着いたミツルは岩礁の上に立ち、俺に向かって手を振っている。
「ワッサン早く来いよ。いい具合に潮が引いているぞ」
「分かった。例の錨を探しておいてくれ」
ミツルは「おう」と答えるとスノーケルを咥えて岩礁の周辺を泳ぎだす。少ししたところでミツルがポチャンと水音を残して海中に潜る。30秒もしないうちにミツルの頭が海面からぬーと出てくる。
「ワッサン、ここだ。この下にある」
「よし、待ってろ」
俺は浮き輪に繋いでおいた細いトラロープの端を握り、ミツルが指す海中めがけて潜る。2m程潜った所に薄っすらとステンレス製のアンカーが見えて来た。
これはプレジャーボートで使用する比較的小さめのアンカーだ。アンカーの爪が岩の裂け目に食い込み、引き上げることができなくなっている。多分この付近で釣りを楽しんでいたプレジャーボートが回収できなくなり放置したのだろう。去年の夏、ミツルと遊びに来た時、偶然発見したのだ。
俺はアンカーリンクにロープを通して直ぐに浮上し、ロープの先に取り付けたカラビナフックを浮き輪にカチリと付ける。
これで準備完了だ。
「ミツルいいぞ。やろうぜ」
「よし、一番の大物は俺がいただく。吠え面かくなよ」
ミツルは俺に向かってニヤリと白い歯を見せると海面からいなくなった。
そのセリフはラノベに出てくる一般的な小物悪役だな。
「我も負けるつもりはない。汝、身の程を知るがいい」と呟く。
・・・いかん。俺にまで中二病菌が感染している。推定年齢72才のこの俺が、・・・この病原菌はやはり感染力が強い。
詰まらぬ心配で時間をとった俺は、慌ててヤスの輪ゴムを腕に通し、岩が溝になっている場所を探しながら潜って行く。2m程の水深の所に岩の裂け目を見つけた。そこに目を開けたまま昼寝をしている奴を発見した。魚は瞼がないので目を開けたまま寝るのだ。
アイナメだ。結構大きいぞ。今夜は唐揚げか煮つけか。ぐふふ。あれは500円程かな。
魚を長さや重さではなく値段で計るのが今の俺である。長さや重さはその物の真価を表さない。やはり物の尺度はある程度普遍的な価値をもって図るべきだ。小遣いに困窮している我が身であればこそ悟れた真理である。
俺はそろりとヤスのゴムを張り、お昼寝中のアイナメに近づいていく。ヤスの刃先が標的の20㎝程に近づいたところで放つ。プシュ、命中だ。
必死に逃げようとアイナメは暴れまくるが、ヤスの刃には返しが付いているため逃げられない。
俺は直ぐに浮上し、浮き輪に取り付けてある網の中に獲物第1号を入れる。最初は500円程かなと思っていたが、改めて見ると思っていたよりも小さく300円程だ、少し落胆する。
網の底を見ると既にもう1匹、魚が入っている。ミツルが採った魚だ。早いな。種類はカサゴだな。並みのカサゴより大きいが俺のアイナメより3㎝程小さい。ふふふ、勝ったな。気を良くした俺は次の獲物を狙いに海中に戻る。
次の獲物もできれば同じアイナメが欲しい。食卓に並べるので同じ魚がいいに決まっている。
しかし、何度か潜水浮上を繰り返した後にやっとエンカウントしたのはカサゴだった。そのカサゴは、目はおろか口まで開けて寝ている。いや起きているのか?あまり賢そうには見えない。大きさはミツルが採った物とあまり変わらない。十分だ。
ヤスのゴムを張りアイナメの時と同じようにそろりと近づく。
今だと思った寸前、カサゴは一瞬身をよじったかに見えた。
既にそこにカサゴはいなかった。瞬間移動。奴は瞬間移動のスキル持ちの高レベルなカサゴだ。さぞや名のある者に違いない。
息が苦しくなったので急いで浮上する。海面から頭を出し大きく息を吸い込む。脳に酸素が行き渡り、正常な思考を取り戻す。
・・・瞬間移動スキルって何よ。名のある者って何これ。酸欠は中二病を悪化させる傾向があるようだ。気を付けよう。
少しの間浅くなった岩礁の上で休んでから、網の中を見ることにした。
そこにはミツルのカサゴ、俺のアイナメの他に、それらと比べ遥かに大きなマゴチがいた。
・・・完敗だ。・・・
しかもマゴチの生息地は岩礁ではない。ミツルは俺のアイナメに勝つため岩礁地帯を諦め、近くの砂地にいる獲物に切り替えたのだ。それにしてもこのマゴチは立派だ。
俺がマゴチを見て驚いていると、ミツルがどや顔で岩礁に上がってきた。
「どうだ。我が御業を見たか。万物が我にひれ伏す日は近い」
大分無理をしたようだ。酸欠で中二病が悪化している。
「ああ俺の負けだ。丁度干潮のようだ。岩礁が海面から出ている。潮が満って来る前にサザエを拾って帰ろう」
「そうだな、そうしよう」
ミツルは脳に酸素が満たされたのか正気を取り戻したらしい、少しはにかみながら頷いた。
俺たちは大きめのサザエを10個ほど拾った。まだ沢山サザエは拾えるが今日食べるだけの量だけにしている。乱獲がもたらす結果を知っているからと言っておく。
サザエを魚の入った網に掘り込み帰り支度をする。水中のアンカーに繋いでいたトラロープを回収し、獲物の入った網の口を縛る。
二人が乗っている岩礁が水中に隠れだしたのを待って泳ぎだす。方向は安戸池の水門だ。
行きは引き潮に乗って、帰りは満ち潮に乗るのだ。泳がずとも浮いていれば運んでくれる。10分程泳げば海岸に着く。後は自転車に乗って帰るだけ。
家に着けば外の洗い場で体を洗う。塩気を取るだけなのでカラスの行水程度だ。
採った獲物は俺の親父が全て買い取ってくれる。
ミツルは何も持って帰らない。ミツルの母親に海で遊んでいる事を知られないためだ。ミツルの母親が特に心配性なわけではない。これが普通なのだ。
でも父親の方は知っているらしい。注意されたことがないので黙認しているのだと思う。
今回の売り上げは、サザエが10個で千円、カサゴが300円、アイナメも300円、マゴチは500円、合計2,100円だった。
ミツルとの分配は100円単位で山分けし、余ったお金は貢献度の高い者が受け取ることにしている。だから今回はミツルが1,100円で俺が1,000円だ。
以前、採りやすいサザエを沢山採ればいいと思った事もあったが、10個より多くは買い取ってくれない上、海に返してこいと言われた。
何はともあれ一仕事、いいえ一遊び終えた俺達はまた俺の部屋に戻りごろりと横になった。先ほどまで聞こえなかった蝉の声がまた五月蠅く聞こえる。先ほどまで聞こえなかった俺の腹の虫の声まで聞こえてくる。
ミツルの言っていた事は正しい。遊んでいるときは腹が減らない。




