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第九話 ── 迷宮実習(2)第一層

 薄い霧が木々の隙間に流れ、朝の冷気が肺を洗った。野営地の灰を土で隠し、荷を締め直す。携帯パンを割り、薄く炙った乾燥肉と香草を挟むと、塩気が舌に乗って体の芯に火が入った。


「入口までは、もう少しだ。足元、気をつけて」

 ユリウスが枝葉をそっと押さえ、低い茨を指で示す。

「おう。……灯り、少し強めるな」

 カイルが腰の魔灯に触れる。白光がふっと広がり、露をまとった草の先が点のようにきらめいた。


 木々が途切れ、黒い裂け目が口を開く。湿った石の匂い、ひやりとした空気。三人は視線で合図を交わし、一歩、闇へ踏み入れた。


 温度が一段落ちる。魔灯の輪は狭く、砂礫のこすれる音が近くで響いた。低い天井、苔むした壁、天水の雫がぽとりと落ちるたび、音が何倍にも重なって返ってくる。

「声は小さめで」

 カイルの囁きに、レオは頷いた。先頭に立ち、滑りやすい苔を避けるように歩幅を刻む。掌はいつでも《防御障壁シールド》を張れる位置に。


 最初の広間は浅い水盤が点々と続き、鏡面の揺れが光を歪めていた。

 ぷく、と泡。半透明の塊が三つ、四つ、顔を出す。

「スライム。軽い個体だ。核は浅い」ユリウスが淡々と告げる。

「了解、弱めでいく」

 カイルが掌を掲げ、短く息を切る。

「《火球ファイア・ボール》」

 小さな爆ぜが水面を叩き、粘質がほどけて中央の核がはっきり露わになった。

「……あとは核だけだ」

 レオが呟いた瞬間、後方から矢が一閃、核めがけて飛ぶ。

 ぱきん、と澄んだ音。核が砕け、粘体が力を失って崩れた。

(ユリウスか)

「二体め、三体めも同じ。間合い、取って」

 ユリウスの声にあわせ、カイルの《火球ファイア・ボール》が粘質を裂き、露出した核をユリウスの矢が正確に打ち抜く。

 光が消えてしばし——小粒の魔石がころりと転がった。

「後続なし。回収する」

 レオは足場を確認してから、散らばった魔石をまとめて袋へ収めた。


 細い通路を抜け、背をかがめて岩の裂け目をくぐる。乾いた軋み。暗がりの向こうで、弦が引かれる気配。

「右——弓がいる」ユリウスの声が絹糸みたいに細く響いた。

 レオは半歩前へ踏み込み、掌を突き出す。

「《防御障壁シールド》」

 目に見えぬ盾が空気を撓ませ、飛来した矢がぴしりと鈍く跳ね返る。

「前、俺が斬る。《風刃ウィンド・カッター》」

 カイルの風が暗がりを刻み、スケルトンの腕が弓ごと叩き折れた。石床を蹴る足音。正面から、錆びた剣を握るスケルトンがふたつ。

 レオは《防御障壁シールド》を厚く展開し、刃の衝突を受けて流した。衝撃の重みが掌を叩き、すぐ抜ける。

「今」

 ユリウスの短弓が二度鳴り、膝関節を正確に穿つ。ぐらりと揺れた骨に、カイルの《火球ファイア・ボール》が胸骨で弾け、乾いた匂いが広間に広がった。


「ふう。……レオ、無理してない?」

「問題ない。盾はまだ保てる」

 息を整えながら、レオは指先を折り開く。(攻撃を受けても、それが魔法でなければ記憶——頁には刻まれない。……焦るな)


 道はさらに下り、空気は湿りを増した。やや広い踊り場、岩のひだから地中水が滲み出し、細い筋となって床を濡らす。

「ここで喉を湿らせて」

 ユリウスが静かに言い、布袋に水を満たす。魔灯の光が雫を細い糸に変え、きらめきながら落としていく。濡れた岩の縁には黒ずんで溶けた跡。

「酸……スライムの通り道、だな」

「うん。匂いも薄い腐敗が混じってる」ユリウスが鼻先で空気を嗅ぐ。「この層、もう一種いる」


 曲がり角の先で、低い唸り。腐肉の色をした痩せた人影——グールが三体、明かりを嫌うように眼を細め、牙をむく。

「距離を取る。火が効く」

「任せろ。《火球ファイア・ボール》」

 カイルの炎が低く唸り、腐肉を焼く苦い臭いが通路に満ちた。倒れきれず、よろけた個体が一体、レオへ爪を伸ばす。

 レオは足を送って肩でいなし、肘で距離を作った。二射目の《火球ファイア・ボール》が腹で爆ぜ、黒い煙が揺れる。

「よし、焼き切った」

「……効きはいいな」

 レオが息を吐くと、ユリウスは片手で合図をしながら、少しだけ声を落とした。

「ここは学園管理の迷宮だから問題ない。でも——未管理の迷宮じゃ火属性は厳禁だよ」

「なんでだ?」カイルが眉を上げる。

「腐敗ガスに引火して、大爆発になる可能性がある。昔、探索者が一隊まとめて吹き飛んだ記録もある」

「……冗談じゃねえな」

「だから火は“切り札”。使うなら、風向きと気配の確認、そして退避線——覚えておいて」

 穏やかな口調なのに、ユリウスの目は真剣だった。レオは小さく頷く。(覚えるのは魔法だけじゃない。生き残る手順だ)


 緊張の余韻のまま、三人は道を取る。通路は胸の高さでくびれ、左右の壁に奇妙な陰刻が連なる小部屋に出た。蔓のような彫りが重なり、ところどころに掌ほどの窪み。

「隠し扉とか、ありそうだよな」

 カイルが軽口を叩き、壁の窪みに指先を触れ——

「待っ——」ユリウスの制止が終わるより早く、

 ギギギギッ。石壁の奥で何かが巻かれる音。

 次いで、ガシャン! 反対側の壁から槍が数本、横一線に突き出た。火花が散り、石が欠ける。

「カイル!」

 レオが肩を掴んで引き戻す。槍先が空を裂き、カイルの前髪を一本切り落として石壁にめり込んだ。

 冷や汗が、つっと顎を伝う。

「……す、すまん。悪かった」

 青ざめた顔に、レオは短く息を吐く。

「次からは、触れる前に声をかけろ。俺たちの命がかかってる」

「……了解」

 ユリウスは槍の列を目で測り、穂先の高さと間隔を素早く数えた。

「再作動はしないタイプだ。端を回れば抜けられる。——いこう」


 慎重に槍列を迂回し、さらに一つ角を曲がる。天井は再び高くなり、空気が重く冷えていく。左右の壁面には魚の骨のような紋様が増え、足音がゆっくり深く沈む。

 通路脇の暗がりから、ぽたり、と黒い液が落ちた。

「上、注意」ユリウスの声。

 見上げると、天井の突起に張りついた薄いスライムが灯りを嫌うように震えている。

「上から来る」

 レオは一歩退き、《風刃ウィンド・カッター》で張りつきを剥がす。落ちた塊にカイルの《火球ファイア・ボール》が重なり、小粒の魔石がころりと転がった。

「拾う。……この層、熱と湿気の溜まり方が妙だ。広間が近い」ユリウスが壁に手を当て、指先で結露を払う。「音も変わってる。反響が深い」


 ほどなくして、通路は口を広げ、天井の高い広間に出た。床の半分がぬめりに覆われ、魔灯の白が鈍く飲み込まれる。

 奥で、ずるり——と巨大な影が身を横たえ、灯りに合わせてゆっくり脈打った。半透明の塊。内側に泳ぐ黒い核影。

「……いるな」カイルが喉を鳴らす。

「大型スライム。核は深い。火の直撃では、再生能力が勝る」

 ユリウスの瞳がわずかに細くなる。「水で内部を満たして抵抗を下げ、雷で一気に通す。それが一番通りやすい」

「なるほど。通り道を作るわけか」カイルが口角を上げる。

「ただし、ここは湿度が高い。通路側まで波及させると足場が死ぬ。やるなら、広間の奥半分で完結させたい」

「じゃあ、俺が引く。間合いは俺が取る」

 レオは深く息を入れた。掌が熱を帯び、左手の上で——一瞬、薄い頁が脈打つ感覚。(今はまだ、使わない)


「行くよ」ユリウスの声は落ち着いていた。

 レオはぬめる床に重心を低く置き、巨大な塊との距離を計りながら歩み出る。塊が気配に反応し、表面の膜をぶるりと震わせた。舌の代わりに細い触手が二本、試すように伸びる。

「《水球ウォーター・ボール》」

 発した水は表面で弾けず、塊の内へ吸い込まれていく。内部の影が揺れ、重さがひとつ増える。

「もう一つ。——あと一つ。……今だ、通す!」

「《雷球サンダー・ボール》!」

 白い閃きが塊の奥で枝分かれし、無数の細い光が網のように広がった。空気が一瞬止まり、耳の奥をくすぐる痺れ。

 巨大な塊は内側から泡立ち、全体が痙攣する。張り詰めていた肌理がほどけ、ぐしゃり、と自重に潰れて崩れ落ちた。透明な粘液がだらりと広がり、中央に暗い魔石が露わになる。


「……決まり」カイルが息を吐く。

「理屈が通れば、怖くはない」

 ユリウスは魔石を布に包み、袋に収めた。

 レオは肩の力を抜き、掌に残る熱を手首へ流す。緊張の糸が、ひとつ切れた。


 床に淡い光が滲み始めたのは、その直後だ。

 粘液が薄く引いた岩面に、輪と線が静かに現れ、二重の円環が重なって花のような紋様を編む。

「転送陣……一層クリア、ってことか」

 三人は互いに視線を交わす。

「一息入れてから乗ろう。脈拍、呼吸、手の震え——戻して」ユリウスの声は穏やかで、確かだった。

 水袋を回し、手指と掌の汗を拭い、呼吸を三回。魔灯の出力をわずかに落とすと、転送陣の光が脈のように岩肌で呼吸した。


「二層は構造が違う。気持ちを切り替えよう」

「おう。雷は、もう一発は行ける。けど、様子見ながらだな」

 レオは短く頷き、転送陣の光を見つめる。掌の奥が、とても微かに、熱い。左手の上で、“本”の頁が——確かに、かすかに震えた気がした。


 何が記録されたのか。

 この陣そのものか、それとも——。


 答えを確かめるのは、次だ。

 三人は合図し、光の上へ足を踏み入れる。


――第二層へ続く。

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