プロローグ ――終焉転生
灼けた石の匂いが、肺に突き刺さる。
魔王城最奥、玉座の間。黒曜石の床はひび割れ、壁に穿たれた巨大な傷跡から、冷たい夜風が悲鳴のように吹き込んでいた。本来は威容を誇った柱も、激戦で折れ崩れている。崩れた天蓋が星の光を細く裂き、砕け散った宝玉が血潮のように床を彩る。世界の終わりを象ったかのような光景の中心に――黒き魔王がいた。
咆哮。闇がうねり、紅蓮が咲く。
黒炎は触れたものすべてを灰に変え、雷のような轟きで空間を震わせる。床を縫う影が槍となって伸び、霧のような呪詛が視神経を焦がす。常識の外側にある力だ。人が積み上げた文明も、信仰も、祈りも、ここでは紙切れに等しい。
――にもかかわらず。
魔王の前に立つのは、人類最後の希望と呼ばれた五人。
無限の魔導師、レオンハルト・グランツ。
王太子アルディス・アストレア。
巨剣の戦士ガレス・ドランベルク。
錬金の奇才アデル・リューネハルト。
癒しの聖女ソフィア・フェルディナント。
三年に及ぶ遠征の果て。幾千の犠牲を背負い、国境を越えて歩み続けたその果てに、ようやくここまで辿り着いた。
◇◇◇
「下がるな、ガレス!」
俺――レオンハルトは短く叫ぶ。闇の槍が雨のように降り注ぎ、戦士の巨躯を壁へ釘付けにしようと迫る。
「《水天障壁》!」
透明な壁が奔流のように立ち上がり、闇槍の群れを撥ねた。衝突の音が連打のように続き、霧が白く立ち込める。霧のすき間から伸びる黒い尾が、蛇のようにこちらへと唸り寄る。
「《王家守護・第二層》、展開」
アルディスの低い号令。金色の薄膜が重なって、影の尾を鈍らせる。見えない壁にぶつかったように黒い舌が跳ね返り、床に焦げ跡を刻んだ。
「《聖光の祝祷》……傷よ、閉じて」
ソフィアの祈りが空気のざわめきを整え、淡い金光がガレスの裂傷を縫い合わせる。光が触れた瞬間、痛みの棘が抜け落ち、滴る血が静かに止まる。彼女の白い喉が小さく震えていた。癒しは代償を伴う――命を削って命を繋ぐ術だ。
「持っていけ、レオ!」
アデルが投げた小瓶が空を裂く。紫の液が床に散り、呪詛の靄を一瞬だけ相殺した。
「《反呪触媒》だ。十数える間だけ、奴の呪圧が弱まる!」
「助かる」
俺は頷き、雷の矢を束ねて放つ。
「《雷槍》!」
黄白の光条が連射され、魔王の左肩を穿つ。黒鱗が弾け飛び、溶けた金属のような血が床を灼いた。だが、巨躯は揺るがない。傷が口のように笑い、そこから新たな闇が芽吹く。
魔王が咆哮し、両腕を掲げた。黒炎、影の鎖、雷が一斉に収束していく。空気がねじれ、床が鳴動し、圧が肺を潰しかける。
「……来るぞ!」
視界が黒と赤で塗り潰される。
「《滅獄黒嵐》!」
物理と魔法の複合嵐が襲いかかる。影の鎖が拘束を狙い、黒炎が灼き、雷が穿つ。すべてが重なった滅びの奔流。
「隊列を整えろ! 共鳴に合わせろ!」
アルディスの号令に俺たちは意識を合わせる。
胸の奥で魔力循環を同調させる。鼓動のリズムを揃え、詠唱の拍を合わせる。金色の光が一人、また一人と響き合い、やがて三重の壁となった。
「《王家守護・第三層》!」
障壁が咆哮した。複合嵐が金膜に激突し、世界が白黒に塗り替えられる。押し潰されそうな重圧を、五人の共鳴が押し返す。
仲間の息遣いが重なり、鼓動がひとつに揃った刹那、黒嵐は霧散した。
◇◇◇
(終わらせる)
俺は深く息を吸い込み、魔力の循環を加速する。体内を巡る潮流が熱を帯び、骨の髄を洗う。詠唱の韻律が舌の上で整列し、世界の理と噛み合った瞬間――視界が澄んだ。
「――無限魔砲」
光が、世界を貫いた。
白。白。白。
光粒が嵐となって渦を巻き、炎と闇と雷と氷をすべて呑み込む。圧縮された星の核をそのまま放ったような奔流が、直線のまま魔王の胸を穿ち、背へ、そして玉座の壁面へと抜けた。壁は遅れて爆ぜ、夜風が火達磨になって流れ込み、瓦礫を星屑のように舞い上げる。
咆哮が、途切れた。黒き巨躯が膝をつき、やがて崩れ落ちた。
◇◇◇
静寂。残響の消えた玉座の間に、五人の呼吸だけが残る。
長き戦いは――終わった。
その前に立つのは五人の英雄――そして、この直後に四人は剣先を彼へ向ける。
「……英雄は一人でいい」
低く、冷えた声。アルディスのものだった。王太子の瞳は澄み、そこには喜びも悲しみも映っていない。硬質な光だけがあった。
ガレスが剣を構え直す。
ソフィアの手に、眩い光が宿る。
アデルが、懐から黒い金属の環――刻印の走る呪具を取り出す。
「何を言っている……?」
「王家の正統は、混じりけのない英雄譚によって支えられる。功績は一つに、歌は一人を讃えるものだ」
アルディスの声は微塵も揺れない。
「待て、アルディス。俺たちは――」
「人類最後の希望は、王家の名で語られねばならない」
ソフィアの睫毛が震える。祈りの声が微かに濁った。
「あなたの力は……眩しすぎるの。無限に伸びゆく才を前に、人は劣等と恐怖しか抱けない」
アデルの唇の端が持ち上がる。見たことのない、歪な笑み。
「……お前の“無限”が憎かった。何も持たない俺にとってはな」
理解は、瞬間だった。
受け入れは、できなかった。
胸に焼けるような痛み。肺が凍り、骨が軋む。
ソフィアの光が針となって降り、皮膚に触れた瞬間に体内へ沈む。癒しの逆――光を介した封印。
アデルの呪具が黒い鎖を吐き、術式の根を絡め取っていく。
アルディスの《王家守護・第一層》が外側から物理の壁となり、逃げ道を塞ぐ。
その内側で、ガレスの剣先が喉元で静止した。
視界の縁が黒く滲む。
魔力の循環が乱れ、詠唱の構文は頭の中で砂になる。
俺が、俺であるための力――魔法が、一本ずつ抜かれていく。
水が奪われ、炎が奪われ、雷が奪われ、風が奪われ、土が奪われ、光も、影も。
心臓の鼓動が遠ざかり、世界の輪郭がほどけていく。
(これで、終わるのか……?)
そのとき――瞼の裏に灯りが生まれた。
走馬灯。旅の景色。焚き火を囲んだ夜の笑い声。冷えたスープを分け合った、あの冬の峠。
小さな村で抱き上げた赤子のぬくもり。
そして、辺境の荒原――砂塵の丘の向こうから現れた魔貴族の隊列。黒い旗。刻まれた紋章。怯える人々。
俺は走っていた。村の門は破られ、火の粉が夜空に散っていた。泣きじゃくる少女の手を取り、背に隠し、魔貴族の従僕が放った狂犬を《風刃》で断ち、黒い呪縛を《浄解》で払った。
少女の髪は砂色で、瞳は澄んだ琥珀色。痩せた肩が震えていた。
『ありがとう、英雄さま……』
涙で笑った顔が、まぶしくて目を細めた。
そして、別れ際に小さく呟いた。
『……わたし、ずっとずっと英雄様を忘れません』
あの村はその後、立ち直れただろうか。
あの子は無事だっただろうか。
――あの土地で芽生えた、ささやかな祈りが、いつか誰かの心を灯すことを、俺は願っていた。
ページが風にめくられるように、記憶が連なっていく。
その間にたった一枚、厚みの違う頁が挟まっているのを、俺は思い出した。
誰にも語らなかった。自分自身からも遠ざけていた。代償が重すぎるから。使えば戻れないから。だから忘れていた。忘れようとしていた。
けれど、いま――ここでなら。
「……いつか必ず、貴様らに復讐を果たす。たとえその刃が届くのが、貴様ら自身ではなく末裔の時代であってもだ。」
喉の奥で、言葉が金属音を立てた。
アルディスの眉がわずかに動く。ソフィアの瞳が揺れ、アデルの笑みが一瞬だけ固まる。
俺は、最後の一語を思い出す。
長く封じ、記憶の底に沈めていた禁忌の秘術。失われゆく魔法の束の、最後の一本。命と引き換えに、因果だけを先へ渡す術。
古い発音を舌で転がす。世界の縫い目に針を立てるような感触。魔力の残滓が、残火のように集まる。視界の中央に、微かな光が灯る。暗い海に浮かぶ一点の星。同時に、胸の奥の痛みが不意に遠のいた。重さが解ける。鎖が音もなく外れていく。
俺は、それを迎え入れる。
「――終焉転生」
光が、内側から溢れた。
音が遠のく。
アルディスの口が動く。何かを叫んでいる。ソフィアが手を伸ばす。アデルが呪具を握りしめる。ガレスの剣が震える。みな、小さく見える。
世界が薄紙になり、指先から崩れていく。
光の向こうに、闇がある。闇の向こうに、温度がある。鼓動。微かな拍。母胎の水響。
――落ちていく。
まだ、終わらない。終われない。終わらせない。
レオンハルト・グランツという名は、ここでいったん途切れる。
だが、物語は続く。因果は記録され、頁は次へ渡る。
次に目を開けたとき、俺は侯爵家の三子として――再びレオンハルトと名乗ることになる。
かつての仲間の末裔が君臨する王都で。
世界から消された“真の英雄”の名は、まだ誰も知らない。
けれどいつか、書は開かれる。
復讐の頁が、静かにめくられるその日まで。
初投稿ですが、ここまで読んでいただきありがとうございます!
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