10曲目「後輩のリコーダーに、金ぴかカップとハンガーをチューニング!」
ざわ……ざわざわ……ざわ……!
ついに始まった運命の合奏の時間。音楽室はすでにいたる所からのざわめきに包まれ、異様な空気が醸し出されている。
そのざわめきの中心にあるものは、もちろんトロンボーンパート。もっと言うと当然由佳である。
彼女が堂々と構えているのは、アルトリコーダーのベル部分に金ぴかカップが貼り付けられた異様な楽器。そして右手にはトロンボーンのスライドを模したつもりなのだろうか。黄色いプラスチックハンガーが握られている。
「ちょっと、由佳センパイ……? マジでやるんすか……?」
他パートから容赦なく向けられる好奇の視線に耐えかね、冬子は由佳の肩をつつく。
「ええ。アタシの作戦に狂いは無いわ」
隣に座る冬子からしたら「いや、狂いしかないっすけど」と言いたいところでしかないが、当の由佳はなぜか自信満々であった。その自信はいったいどこから来るのだろう……?
***
30分前のこと。
「由佳センパイ。言われた通り、リコーダーとハンガー持ってきたっすけど」
冬子がロッカールームに向かってから数分後。音楽の授業で使うアルトリコーダーと、ロッカーで使っている黄色いプラスチックハンガーを持った冬子が音楽室へと戻ってきた。
「あ、冬子サンキュー。お! 黄色いハンガーとは、キミ分かってるねぇー」
「まあこれしかなかったっすからね。……で、いったいこれをどうするんすか?」
謎にテンションの高い由佳に対し、イマイチ何をするつもりなのかすら分かっていない冬子。
「まあ見てなって。まずはこの『権兵衛』とリコーダーを……がっちゃんこ!」
すると、由佳はトロンボーンケースからセロハンテープを取り出し、リコーダーの先端に権兵衛のカップを貼り付けた。
「よし。あとはこのハンガーを右手に構えれば……じゃーん! ほら、どこからどう見てもトロンボーンじゃね?」
真っすぐ顔の高さに掲げられたベル(金ぴかのカップ麺容器)。右手にはトロンボーン最大のアイデンティティでもあるスライド(ハンガー)。由佳が「どこからどう見てもトロンボーン」と豪語するそれは控えめに言って、すごく目の悪い人が100メートルくらい先から細目で見れば、まあトロンボーンに見えなくもない……かもしれないくらいのクオリティだった。
「うわ、マジっすね! どっからどう見てもトロンボーンじゃないすか!?」
……しかし、このときの冬子は「何か面白そうなことになってきたっすねー」くらいのノリで、ブレーキではなくアクセルを踏み抜いていた。30分後、その選択を後悔することになるとも知らずに……。
***
「……」
指揮台の前に立つ夏希の顔には、心なしか青筋が立っている。その視線の先にあるのは……言うまでもなく由佳だ。
「……ヤバいっすよ先輩! 絶対バレてますって!」
無言の圧を放つ夏希を前に、正気に返って怖気つく冬子。
「だいじょぶ、だいじょぶ。作戦通りにすれば問題ないって」
しかし、当の由佳は能天気にトロンボーンもどきを構えている。何度でも言うが、その自信はいったいどこから湧いてくるのだろう……?
「……とりあえず、チューニングしましょうか。月奈、B♭(シ♭)ちょうだい」
夏希はあえて、由佳の奇行はスルーする方針にしたようだ。月奈のチューニングB♭に合わせ、各々がB♭の音を拭いてチューニングを行う。
由佳はもちろん……吹いてはいない。長年のスライド感覚でハンガーの突き出し具合をB♭のそれへと調節し、トロンボーンに擬態することだけに専念している。
……そもそもの話、皮肉にもそのハンガーに右手が塞がれているが故に、左手のリコーダーでは楽器の構造上B♭を吹くことはできないわけだが。
「……なるほど。そういうことね」
そんな由佳の思惑を察してか、最善列にだけ聞こえるかどうかくらいの声で夏希が呟いた。
最前列組のフルートパート2年の戸山萌絵とオーボエパートの白井千聖は、由佳と夏希の顔を交互に見比べてオロオロと狼狽えている。
「ほら。『冬子が吹いた音にスライドの動きを合わせる』作戦。これならバレないって」
擬態作戦が上手くいったと思い込み、したり顔で冬子にアイコンタクトを取る由佳。
「は、はぁ……」
……案外バレないものなのだろうか? そんな考えが一瞬冬子の脳裏に浮かんだものの……。
「トロンボーンだけ、もう一度B♭ちょうだい。もちろん、《《二人》》でね」
無論そんな訳はなかった。当たり前である。
冬子が横目で由佳の方を見てみると、公開処刑タイムの幕開けを悟り、さしもの由佳も冷や汗を浮かべていた。
苦し紛れでとりあえず冬子だけでB♭を吹き、由佳がスライドの動きを合わせる作戦に出るのだが……。
「2ndはいいんだけど、《《1stが聴こえない》》わね。《《1stだけで》》もう一回」
当然のことながら上手くいくはずもなく、夏希にピシャリとたしなめられてしまった。
これでいよいよ詰みだ。冬子は目の前に座るユーフォニアム2年の山邉萌葱の影へ隠れるよう身を屈め、ゴーストプレイヤーとしての役目をまっとうしようとしたものの……。
「2ndは楽器下ろして」
「……はい」
もちろん、バレないはずもなかった。何度も繰り返すが、当たり前である。
「ほら、1st。早くB♭吹いて」
音楽室に訪れる緊張と静寂の一刻。固唾を呑んで見守る部員と、各々好き勝手に暇をつぶしている部員とに分かれる中、由佳は意を決したように、トロンボーンもといアルトリコーダーへと息を吹き込んだ。
「それはH(シ)ね。私はB♭を吹いてって言ったはずだけど? それとも、もしかしてその楽器、片手じゃB♭吹けないのかしら? そんなはずないわよね……? トロンボーンなんだから」
口元だけは微笑んでいる夏希であったが、その目はまるで笑っていなかった……。