作家とはかくあるべき
翌日梶原はパソコンの前で、突っ伏したまま眠ってしまっている自分に気が付いた。いつ眠ってしまったのだろうか。身体がやけに強張っている。
夕べの記憶がよみがえり、自分の身体を確認して部屋の中を見回すが、何も異常はなかった。当たり前だ、何かあってたまるものか。きっと疲れて夢でも見たのだろう。
それにしては記憶が生々しいのが気持ち悪いが。
パソコンの画面は、主人公が学校から逃げ出したところを記述したところで止まっていた。
梶原は書きかけの原稿を保存したところて、『なななウォーター』からメールが入っていることに気が付いた。
お世話になります。『なななウォーター』の七海です。本日追加で『なななウォーター』を1ケース送付いたしました。レポートも毎回確認させていただいておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。
毎回見ているのか…、あんなもの何の役に立つのだろうか。そうは思ったがあれはあれできっと何か意味があるのだろう。
梶原はここでふと気が付いた。そう言えば新着メールのアラートが出るのは、『なななウォーター』からのメールだけで他には無い。何かしら薄気味悪さを感じるが、梶原は基本的にパソコンには詳しくない。きっと発信側が何か設定すればああなるのだろう位に考え、それ以上気にすることはしなかった。
しかし、昨夜寝落ちしてしまったことといい、ちょっと根を詰めすぎているのかもしれない。今日は気晴らしに外出でもしよう。
この暑さだと飲み物も必要だ。梶原は冷蔵庫から冷えた『なななウォーター』を一本取り出して保冷カバーを付け、リュックに放り込む。一々ペットボトルを買わずに済むのは助かる。
玄関を開けると、玄関横に『なななウォーター』が配達されていた。
タイミング悪いな、とは思ったが、後で家族から何か言われるのも面倒なので、自室に運び込んでおいた。
さて、今度こそ出掛けるか。
気を取り直して梶原が向かった先は、五駅先にあるショッピングモールだった。あそこならばクーラーも効いているし、こんな暑い日には丁度いい。そう言えばあそこにある模型屋も暫く見に行っていなかった。梶原の趣味はミリタリー系のプラモデル制作なのだが、こちらも暫く手を出していない。
ショッピングモールの中は、予想通りクーラーが効いていて快適。梶原は他の店に興味が無かったので、真っ直ぐに中山模型店と言う名前の模型屋に向かった。
無い!
中山模型店は記憶していた場所には無かった。ショッピングモールでは模様替えとかで店の場所が変わることも多い。どうせ、そんなことだろうと案内板を見るが、中山模型店の名前を見つけることはできなかった。
何と言うことだ、あの模型店はこの辺りで一番大きな模型屋なのだ。無くなるはずなど…
そうだ、今風に何とかホビーとか言う名前に変わっているのかもしれない。
諦めきれない梶原は、「趣味」というカテゴリーの案内板を探した。あった「ツクシホビー」きっとこれに違いない。
そう思った梶原は、案内板にあったA-2のスペースに急いだ。
そこにあったのは女性向けのアクセサリーと手芸用品の店だった。
ガックリと膝から崩れ落ちる梶原(脳内イメージ)。
仕方なく梶原は虚しい気持ちで、近くの本屋に寄る。ホビー関係のコーナーを覗いてはみたが、気分が重たいまま、何かを手に取る事も無くそのまま通り過ぎた。
ショッピングモールを出て、木陰のベンチに腰を掛ける。
カバンから『なななウォーター』を取り出してキャップを開け、一口、口を付けた。
オレは何をしに来たのだろう。
家を出た時の高揚感は完全に引いていた。
気がつくとキャップが緩んでいたのだろう、『なななウォーター』から中身が零れていた。手に掛けると冷たくて気持ちが良い。
梶原は頭を下に向け、残っていた『なななウォーター』を頭に掛ける。後頭部から額にかけ、勢いよく流れるそれは、顔にも伝って来た。
水浴び後の犬のようにブルブルと頭を振って、空を仰ぎ見る。青い空には夏の白い雲がくっきりと浮かび上がっている。
首筋から服の中にまで水滴が滴ってきた。梶原はパンッと両手で顔を叩いて気合いを入れる。何を下らないことで落ち込んでいるんだ。オレは息抜きに来ただけで、模型を買う事が目的じゃなかったはずだ。
気を取り直して立ち上がろうとしたとき、周りの人の視線に気が付いた。
それはそうだろう、いきなりベンチに座っていた男が自分の頭にペットボトルの水を掛ける姿など見れば、不審に思うのも当然だ。
梶原はリュックにタオルが入っていたことを思い出して、背中のリュックを下した。前髪から滴り落ちる『なななウォーター』が目に入る。
リュックの中を覗くと、そいつはそこに居た。皮膚が融け崩れ、赤黒い粘液を滴らせているその手を、リュックの縁に掛け中から這い出そうとしている。
「うわぁ!」
梶原は悲鳴を上げて、リュックを放り出した。何が起こっているんだ、オレが創作したモンスターがなぜこんなところに…。ふと、梶原の脳裏に昨日の夜の光景がよみがえる。
モンスターはリュックから既に上半身を引きずり出していた。その目がじろりと梶原を睨み、口を開けた。口は顔中に広がり、その中には全く歯が無く、大きな黒い空間だけが広がっている。そうだよ、オレはあの口で何でも吸い込んでしまうモンスターを作ったんだ。
モンスターは腕を伸ばすと、梶原の足首を掴んだ。冷たいぬらりとした感触に鳥肌が立つ。何なんだ、この馬鹿力は。メキメキと足の骨が砕ける感触に、梶原の口から悲鳴が上がる。
誰か!誰か助けてくれる人は居ないのか!
血走った目で周りを見回すが、周りの人々は汚いものを見るような目で見るだけで、目が合うと慌てて目を逸らされた。
ビシャッと嫌な感触に顔が包まれ、顔を潰されるかと思うほどの圧力を感じ、地面を引きずられる。全身が冷たい何かに包み込まれ、身体が押しつぶされる感触を感じたところで、梶原は気を失った。
梶原はパソコンの前で、突っ伏したまま眠ってしまっている自分に気が付いた。いつ眠ってしまったのだろうか。身体がやけに強張っている。
時計を見ると夜の10時を回ったところのようだった。
えーっと、どこまで書いたんだっけ?
梶原はパソコンの電源を入れ、『なななウォーター』用に書いている小説のファイルを開いた。主人公が、命からがら学校から逃げ出し、ショッピングモールでモンスターに追いつかれるシーンだった。
おかしい、なぜか強い既視感を感じる。やっぱり疲れているのだろうか?
ふと上げた梶原の目に、パソコンの横に積んである『なななウォーター』の箱が目に入った。
二箱重ねて、上のひと箱は半分ほどになっている筈、だったのだが三箱重なっている。追加で届いた分を家族が運び込んだのだろうか? まあ、後で聞いてみればいいだろう。梶原はあまり気にも留めず、夜食を物色しに台所に向かった。
『なななウォーター』の七海部長はため息をつくと、新聞を閉じて膝の上に置いた。
「なんだって、物書きって言うのはああも簡単に物語に入り込んじゃうのかねぇ。おーい、工藤さん。梶原さんのAIの様子はどんな感じだい?」
「調子はいいみたいですよ」
工藤と呼ばれた女子社員は七海部長の机にお茶を置いた。
「なななタンクの中で身体が無いのは不便だって、まるで本人になったみたいに文句を言ってます。学習AIとしては優秀だと思うんですけど、人格まで学習してしまうのはどうかと思いますよ」
嫌悪感を表した工藤の顔を見て、七海部長は渋い顔になる。
「全員の『ウォーター』は回収済みなんだよね」
「ええ、すでに全員回収済みです。でも田辺課長は今後のAI学習に支障が出るって、ゴネてますよ」
七海部長は事務所の隅に置かれた巨大ななななタンクに目を向けた。
サーバーシステムに繋がれたタンクの中では、無色透明な液体が意識を持っているかのようにうねっていた。
「中学校の校庭で不気味な彫刻が発見されたと、SNSで話題に」
7月22日の朝登校した中学校の生徒が、校庭の隅で泥沼から這い出そうとしている姿の男性の姿を発見したと、警察に通報があった。しかしその日の激しい雨により、警察が到着した時にはその男性の姿は溶け崩れており、土の彫刻だったことが判明、悪質ないたずらであったとして警察では目撃者を探している。しかし、その際撮影された画像があまりにもリアルで気持ちが悪いとSNSで話題になっている。