なななウォーター
朝目が覚めたのは10時過ぎ、いつもより早く寝たので頭もすっきりしている。今日は筆の運びも良さそうだ。
梶原は洗面所に行って顔を洗い、ダイニングに母親が用意してくれた朝食を当たり前のように食べる。
母親は既にパートに出ているし、父親は地方公務員、妹はスポーツジムでインストラクターをしているので家の中には誰も居ない。梶原にとってはこれも当たり前。
昨日田中が言っていたブラック就労が当たり前は、梶原家には全く当てはまっていない。そうか田中はオレをからかうネタを見つけただけだったのだ。あいつめ、すっかり担がれるところだったぞ。
両親がどういう思いで働き、苦労をして自分を育てて来たのか。その両親と妹が今どういう働き方をしているのかなど、梶原には思いもよらない事だった。
腹もくちて、すっきりとした顔をした梶原は部屋に戻り、何時ものようにパソコンの電源を入れた。この後は気に入っているSNSを見て回り、登録している映像サイトの面白そうなものをチェックするのが定番コースだ。
しかし今日はどういうわけか、メールが来ているというアラートが出ている。梶原はいつも自分が必要だと思わない限りメールのチェックなどしない。面倒くさいな、そう思ってアラートを閉じようとしたのだが間違って開いてしまったらしい。
『求人のお知らせ』とある。
ああ、昨日ハローワークの求人情報の所で何か登録してしまったのか。そう梶原は納得した。どうせ関係無いのだろう、そう思ったのだが一つのキーワードに目が行った。
『文章を書くことが得意な方』
…、オレのことだ。あるじゃないかよ。あの職員脅しやがって。梶原はほくそ笑んだ。
もう一度ハローワークの求人検索サイトにログイン、求人番号を入れて求人内容を確認する。
求人区分
フルタイム
事業所名 :『なななウォーター』株式会社
就業場所:埼玉県方丈市
仕事の内容
・文書作成業務
・パソコン入力作業
・開発商品のモニター
雇用形態:正社員
賃金(手当等を含む):200,000円〜250,000円
なんだけっこうしっかりした会社そうだな。で、仕事内容は…
弊社は2016年に設立され…
現在独自AIの開発を行っており、そこの学習に必要な文章を作成していただける人材を求めております。このAIは他社のAIと違った特徴を持っており…
要はオレのような人材を求めているってことでいいんだよな。取り敢えず応募は…、なんだ直接応募が出来るんじゃないか。またハローワークに出向かなければいけないと思っていた梶原だったのだが、これなら簡単だ。
面接希望日時、まぁこれは昼間のシフトが入っていない日ならいつでもいいし。メッセージか…これは書かないとといけないんだろうな。
オレの場合は文章力のアピールが必要だ。それならば昔の連載の内容とか、今使っている小説サイトのリンクを載せておけば間違いないだろう。
梶原はそう考えて簡単なアピール文を作成、応募ボタンを押す。
まずはこれで一歩踏み出せた。
ちょっと成長できたという満足感に浸って、その後はいつものSNSの閲覧ルーチンを開始した。
夕方の4時過ぎに仮眠から目を覚ますと、パソコンの画面に新着メールのアラートが出ている。そもそもメールのお知らせなど出ないはずなんだが、そう思いながらも確認すると『なななウォーター』からのメールだった。対応が早い。
弊社への応募ありがとうございました。早速梶原様の経歴を確認させていただき、弊社が求める技術的な部分に関する確認を行うことが出来ました。
適切な内容の連絡をいただきましたので、迅速な確認を行うことが出来ましたこと、御礼申し上げます。
つきましては面接等の日程を確認させていただきたく…
やった! バッチリだぜ。
『なななウォーター』は方丈駅から歩いて5分くらいのオフィスビルの4階にあった。
梶原が面接に訪れた旨を告げると、若い女性社員に導かれて、奥にある会議室らしき小さな部屋に案内された。
パーテーション越しに見たオフィスはごく普通の事務所と言った感じで、10人程度の社員がパソコンに向かって仕事をしていた。空き席がいくつかあったのは営業に出ている社員の席なのだろう。
会議室で待たされる間に部屋の中を見ると、壁には健康飲料のポスターが貼ってあり、床の上にそのパッケージが置いてあった。きっとこれがこの会社の主力商品なのだろう。
程なく年配の男性が訪れ、『開発部長 七海浩太郎』と書かれた名刺を渡された。ああ、『なななウォーター』って名前は七海から来ているのだろうと梶原は思った。
七海部長は梶原の履歴書を受け取るとざっと目を通した後、話を切り出した。
「梶原さんの経歴と文章はざっと確認させてもらいました。とても良いと思いますよ」
人当たりの良さそうな話し方をする人だ。
「そこでまずは仕事の内容なのですが、求人票に記載していたように弊社では独自のAIを開発しています。詳しい話は企業秘密になるので出来ないのですが、沢山の文章が必要になるのですよ。そこで今回の募集になった訳なのですが、実は応募してくれた人は現在梶原さんを含めて5人いまして、弊社としてはどの方を採用すべきか検討中の所なんです」
「そうなんですか…」
「そこでテストも兼ねて、暫くは在宅で幾つか文章の作成をお願いしたいと思っています。もちろんその間の給料はお払いします」
「在宅と言うと、ここまで通わなくてもいいということなんですか?」
「そうなりますね。場合によっては複数の方と契約をして、採用させていただいても良いかと思っています」
「はあ」
間抜けな答え方をしてしまったが、在宅で済むなら願ったりかなったり。その間今のアルバイトも続けられるだろうし、これはラッキーというものだ。採用されなかったにしても、お金をもらって文章を書けるとは。
「それで具体的にはどんな事をすればいいんですか?」
「おお、では引き受けてくれると考えていいんですね」
「構わないと思います」
話の内容はこうだった。
今梶原が使っている小説投稿サイトに、『なななウォーター』から指示された内容の小説を作成して投稿する。必ず週に一回は投稿し、その際独自のキーワードを設定する。そのキーワードを設定することによって『なななウォーター』のAIが参照できるようになるのだそうだ。小説投稿サイトの方には既に話を通してあって、問題ないとの事だった。
しかしもう一つの条件が良く解らない。その間『なななウォーター』の商品をひと箱パソコンの横に置いておくこと。そしてその健康飲料を必ず一日一本飲んで、味についてのレポートをメールで送ると言うものだ。
そう言えば求人の内容に「商品モニター」という項目があった。体よくモニターを兼ねてもらおうという事なのだろう。
ということで、帰りがけに6本入りの『なななウォーター』のパッケージを渡された。しかし、今日はこの後シフトが入っているので、小説は明日から手を付ける事にしよう。