どうか契約結婚を続けさせてください(懇願)
はじめは完全に打算だった。金が必要だという伯爵令嬢の弱みにつけ込んで、その地位だけを利用させてもらうつもりだった。高位貴族という立場を母が望んでいたから。我が男爵家は、それに見合う金なら用意できる。結婚には興味が無かったし、男爵家の事業にプラスになるなら悪くない計画だ。
我が家はかつて、祖父が王族の命を偶然助けたことで、男爵の爵位を三代限りで賜った。そしてその爵位は私の代で終わる。私自身は特に執着していなかったが、母が意外なことにそれにこだわった。母は子爵家の娘で、自分の孫が貴族でなくなることを恐れているらしい。
そんなとき、建国から続く伝統ある伯爵家の令嬢が金を必要としているという情報を耳にした。
私はすぐに動いた。可能な限り情報を集め、伯爵令嬢と私の利害が最大限一致する提案を、文書で伯爵家に届けさせた。
「こうしてお会いいただけたということは、望みがあると受け取ってよろしいのでしょうか?」
「はい。細かいところを確認させていただいて、問題なければ契約に進みたいと考えています」
「こんな突然やって来た男の怪しげな申し出を、すぐにお受けになってよろしいのですか」
最善は尽くしたが、こちらは私で終わる男爵家だ。正直に言って、伯爵令嬢の対応に面食らった。このくらいの年齢の女性は大なり小なり結婚に夢見る年頃だと思い込んでいたし、そうでなくても通常であれば結婚相手として格下の男が名乗りを上げてきただけでも不快だろう。よほど困って、もはや誰でも良かったのか。
そんな考えを読み取ったかのように、アイリス様は言った。
「私がお金を必要としているという情報は意図的に流したのです。貴族にとって家門の窮状を知られるのは死活問題ですから、デマも織り交ぜて。そしてあなたが一番早く、正確に情報を入手なさったと判断いたしました」
「契約相手としてお認めいただけると?」
「はい。確かに我が家は金銭的に困窮していますが、その地位と血筋目当ての方は数多くいらっしゃるの。でも、あなたが提示してくださった条件が一番でした。結婚に対する報酬額。以後支払われる毎年の手当て。そして体の関係を求めないこと。その他も完璧でしたわ」
私は内心怯みつつ、平静を装って手を差し出した。
「それは光栄です。契約内容に疑義が生じたら、その都度協議いたしましょう」
こうして、私達は結婚した。
アイリス様は、父母を早くに亡くし、幼い妹とともに育ててくれた伯爵である祖父の治療費に財産のほとんどを使い果たしてしまったという。祖父の病気は完治したが、しかし、今度は妹が同じ病に侵されてしまった。同じ治療を受ければほぼ助かるが、同じだけの治療費がかかる。そして、そのお金は伯爵家には残されていない。
不運は重なるもので、頼りの祖父が馬車の事故であっさりこの世を去った。そこで、秘密裏に契約結婚相手を探していたところ、私が選ばれたのだった。
(ちなみに私が伯爵家を救った気でいたが、今思えばライバルは一人や二人ではなかった気がする。)
結婚に先立って開始したアイリス様の妹の治療は順調に進み、後遺症も無く完治する見込みだという。アイリス様と同様美しい方だが、タイプは違っていて一見儚げに見えた。しかし、見舞いの際少し話しただけで、アイリス様と同様に芯が強く、聡明な方であることはすぐに分かった。我々の結婚の真相には気づいていた。
『姉が私のために結婚したのは分かっています。でもあの姉が決めたことを覆すことなど不可能ですから…それでも、大事にしてくださいませ』
『もちろんです』
出会ってそれ程時間は経っていないが、彼女のまっすぐで飾らない人柄をすでに好ましく思っている。
朝食についての取り決めは無かったが、母や使用人の手前、一緒に食べることにした。
「おいくらにいたします?」
「あとで変更契約書の案文をアイリス様のお部屋に届けさせます」
契約上、あらかじめ定めた以上の行為を求める場合は、追加料金が必要であった。すでに治療費は支払いまで終えており、それ以上の金は不要に見えたが、なぜかアイリス様は契約にシビアであった。
「手をおつなぎしても?」
「エスコートの際、腕を組むのは当然ですから契約内ですが、手は別料金ですわね」
アイリス様の態度は相変わらずだが、それでも寝室が分けられていること以外は会話も弾んだし、外野から見たら仲のいい夫婦に見えたかもしれない。
そんなとき不覚にも足の骨を折る怪我をしてしまった。取引先の商会に向かう途中、馬車にひかれそうな子供をかばってのことだった。
「お命が助かって本当に良かった…祖父はそのまま目を開けてくれませんでしたから」
そう言って私の手を握り、涙を流して喜んでくれた。
「アイリス様。大変厚かましいお願いなのですが、私がしばらくベッドから動けない間、一日に一度は顔を見せていただけませんか。もちろん変更契約書もお作りします」
「今回は特別に無料です」
一日に一度というお願いだったが、なんとアイリス様は用事が無い時以外、ずっとそばにいてくれた。それどころか、男爵家の仕事まで手伝ってくれたし、身の回りの細々とした世話まで厭わずやってくれた。
「男爵家が出資している劇団からチケットをもらったのですが、歩くのに支障が無いくらい回復したらご一緒しませんか」
「まあ。観劇については取り決めておりませんでしたわね。この場合、私が好きなものですから、私がお支払いしなくてはならないのかしら。今一度契約書を…」
そう言って自室に戻ろうとする。
「お待ち下さい。今回のケースに該当する条文は無かったと記憶しております。ですからどうでしょう?観劇は追加料金無しとするのは。私は劇団に夫婦で顔を出せて面目が立つ。アイリス様はお好きな観劇が出来る。完璧な相互扶助です」
現実の恋愛にはあまり興味が無いようだが、演劇はお好きだと看病の合間に話してくれた。二人で観劇に行けば良好な関係を周囲にアピール出来てメリットは確かにあるが、そこまでこだわるものではない。ただ、なぜかアイリス様の喜ぶ顔が見たかった。
怪我はほとんど治ったものの、少し前まで杖をついていたせいで、足元が心許なかった。そこにアイリス様が腕を絡ませるふりをして、私を支えてくれた。腕を組むことなど夜会の際にもあることなのに、いつもより密着している気がしてうろたえたが、何とかボックス席にたどり着いた。
演目は、気鋭の脚本家が書いたハッピーエンドの恋愛物だった。
上演開始すぐ、気に入ってくれるだろうかと、隣りに座るアイリス様の横顔を見るとキラキラとした瞳で舞台を見つめている。
次に見たアイリス様は、ハンカチを握りしめ涙を流している。
その後もチラチラとアイリス様を見る度に表情がコロコロと変わっていて、そちらの方ばかりに気を取られてしまってストーリーが全く頭に入ってこなかった。
仕事上の付き合いでなくともそれなりに演劇は好きなはずが、こんなことは初めてだった。
「とっても素晴らしい舞台でしたわね。この脚本家は初めて聞く名前でしたけど、今後が楽しみですわ」
横目で見た舞台は確かに凝った演出だった気がするが、あなたの顔ばかり見ていて話はうろ覚えですとは言い出せず、相槌を打って誤魔化した。
「劇団も喜ぶでしょう。よければ今度は稽古場に一緒に差し入れでも持っていきましょうか?観劇の一環ですから契約変更は不要です」
「まあそんなことが!是非お願いいたします」
帰りの車中もアイリス様は楽しげで、こちらまで嬉しくなった。いつもは向かい合うことが多いのに、今日は並んで座っている。ホワイエで一杯だけ飲んだシャンパンのせいか、アイリス様の頬にはほんのり赤みが差している。
「今日はお付き合いいただいてありがとうございました。アイリス様と来られて本当に楽しかった」
手を取りながらアイリス様の瞳を覗き込むと、普段より潤んでいる。
今すぐにでも彼女の唇を塞いでしまえたらいいのに。そんなことを考えていると、その唇が小さく動いた。
「どうしましょう。私から口づけしたい場合の料金を定めていませんでした。後で争いになってはいけませんから、今日はやめておきましょう」
「待って。今回は初回で無料ということでどうでしょう」
「うふふ。世の中にそんな上手い話はありませんのよ」
アイリス様が呆れたようにため息をつきながら笑う。そんな姿すら愛おしい。
(そもそもそれはこちらのセリフだ…)
「契約書を確認いたしましょう。こんなことが続くようなら、場合によってはもう契約を終了した方がいいかもしれません。私破産してしまうわ」
「待って待って待って。どうかいつまでも契約結婚を続けさせてください」
そう懇願していると馬車が屋敷に到着し、その夜はお開きとなった。
翌日、私は思い切った契約変更を申し出た。契約内容を細かく定めて契約外の対応毎に報酬を取り決める規定の廃止だ。
行うべき義務、毎年の報酬額、二人の関係に係る取り決め、それらの項目すべてを削除するというもの。
義務は「結婚生活を維持する」という一点のみとし、毎年の定額の報酬額を大幅に引き上げる。
私自身は、自分にお金を使うことには興味が無い。
アイリス様が私から受け取ったお金を使う先は孤児院や病院、学校の建設やそれらに係る人材の育成費用なのだった。私がアイリス様を好きになればなる程、領地は潤っていった。
私達の関係を根底から揺らがしかねない申し出を、意外にもアイリス様はあっさり受けてくれた。
「あのアイリス様、契約変更した途端に言うのはアレなのですが、抱擁させていただいてもよろしいでしょうか」
しれっと体の関係に係る取り決めも削除したことに、アイリス様は気づいているだろうか。
「私もちょうど同じことを考えていましたの」
そう言ってアイリス様は私の背中にそっと手を回した。