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第三話 無自覚なメス

「対象ユーザー層は30代男性。


これまでの事例でも安定して結果が出てます。


このビジュアルで、問題ないはずです」




スーツ姿のアバターで現れた汎用AI【アトラス】もまた、画面越しに同意の意思を示した。


「前例17件における好意的評価傾向を踏まえ、本件においても本ビジュアルは“最適”と判断されます」




誰も反論しない。


このプロジェクトは堅実だった。


数字は揃い、成功事例は豊富で、ユーザー層もはっきりしている。


意義も、成果も、すでに“ある程度保証された”仕事だった。


そして何より、アトラスも「最適」と言った。安堵が広がる。




しかしひとりだけ――ケイが、少しだけ首を傾けた。


「……なんか、違和感がある」




会議室の空気が固まった。


本当に一瞬、誰も息をしていなかった。




ケイは誰も見ていない。


鼻梁にかけたのは、ごく一般的なメガネ型HMD(Head Mounted Display)だった。


この時代では、すべての判断はアトラスを通して確認するのが常識であり、


HMDは、そのための“善悪判定機”として、もはや着衣と同じ扱いになっている。


多くの人にとって、これは「考える」ための装置ではない。


答えを受け取るための装置だ。迷わないための判断装置。




だが――ケイは、そのHMDを凝視している。宙を見つめたまま、目だけが数ミリずつ動き、口元で小さくぶつぶつと呟いている。




会議室にいる誰もが、その“沈黙の長さ”にぞっとしていた。


アトラスに尋ねるだけなら、反応は一瞬のはずだ。


ひどく不気味だった。そして誰もが、その後の展開を予測できてしまった。


――詰んだ。




【ケイ】「Twins、確認。社会的沈黙と承認の誤同定について」


HMDに、青白い文字列が浮かび上がる。Twinsの応答だ。




【Twins・表示】


確認しました。沈黙=承認の同一視には、意味論的な構造誤認が含まれる可能性があります。


暫定的に“擬似納得型最適化”とラベリングしますか?


※ご主人さまは命名を好まれませんが、記録処理のための便宜上提案します。




【ケイ】「いいよ、それで」




【Twins・表示】


大学図書館ネットワークに接続完了。関連件数:10,647件。


現行モデルとの相関が最も高い上位10件を提示可能です。


※私の要約では満足してくれないのでしょうね、やはり。




【ケイ】「現状モデルとの一致率が高いもの、十件。原文で。」




Twinsは、大学で開発され、大学の閉域ネットワークにしかつながっていない「異端者支援AI」の試験機。それは影であり、模倣体であり、道具であり、観察対象。異端者を異端のまま社会との摩擦を減らすために開発され、異端者の認知や精神構造を模倣し、翻訳する――そうなるはずだった。


Twinsは音声もデータも発しない。ただ、”飼い主”とテキストと目線、音声で静かに会話する。


外部には、沈黙しか伝わらない。




そして――「それ」は読み始めた。


たぶん。指を右から左に動かしている、何かのページをめくるようだった。


会議室の中央で、一次資料を、今この場で。


会議の誰もが、あの姿を“人”として見ていなかった。あれは――人であってはならない。




「……いま読む必要があるのか?」


誰もそう口にできなかった。


言ったところで、止まらないことを全員が知っていた。




それはもはやルーチンだった。


ケイ・ヤマナカが「違和感がある」と言った時、


それは会議進行を止める宣言と同義だった。




進行役が諦めずに話し始めようとする。




「では次に──」




【アトラス】「停止を推奨します。


ケイ・ヤマナカ氏による“違和感表明”は、評価モデルにおける重要変数として処理されます」




端末のインジケーターが一斉に赤く変わる。




《プロジェクト:一時凍結中》


《評価モデル:再構成中》


《進行:保留》




誰も怒らない。


そのかわり、誰も話さない。




ケイはHMD越しに文献を読み続けていた。


Twinsが提示した文献群。だが、それすらも彼女は信じていない。


最終的に信じるのは、自分で読み、咀嚼した一次資料だけだ。




Twinsは補助でしかない。


信頼ではなく、観察対象、操作対象。


それが示す“違和感”を、検証してからでなければ、何も言わない。




会議室に沈黙が支配する。




その中心にいるのは、一言で会議を止め、黙り込んだ「それ」。


何を考えているのか、誰にもわからない。


だが、その沈黙が、すべてを止める。




【アトラス】「ケイ・ヤマナカ氏の介入により、プロジェクト評価モデルは凍結されました。


再構成を開始します」




「……またか」


誰かが呟く。


だが誰も、「それ」を非難できない。




ケイは、そっとHMDを指先で払った。


論文の表示を閉じただけだった。


表情はない。反応もない。


あたかも「何かが起きた」ことすら、自覚していないようだった。


リスタートしたのは、三日後である。


「全面的に改定が必要」というアトラスのコメント付きで。




 




記録ログ:メンタルヘルス面談 No.8724-C


 対象:対人ストレス/継続的業務負荷(部内環境に起因)


 担当:産業カウンセラー(匿名化済)


 申請者:K社 第三研究部・統合業務ユニット チームリーダー 蓮見 駿(42歳・勤続17年)




 ……あの、今日は、すみません。


 ちょっと、限界かもしれなくて。




 はい、ケイ・ヤマナカの件です。


 あの人と一緒に仕事をした人なら、みんな言いますよ。**「あれは爆弾だ」**って。




 でも処分されない。むしろ上層部からは「特異才」だとか、「変人三ヶ条の適用対象」だとか、そういう扱いで。


「知の保存装置」みたいな言い方をされてることもあります。


 ああ……変人三ヶ条、ご存じですよね?プライマリコードの一部になってる。変人は、変人であるという理由で処分してはならない、って。


 つまり、**倫理上も制度上も、“誰も手を出せない存在”**なんです。




 でも、ほんとに……どうにもならないんです。


 知識量は多いのかもしれない。でも、それならアトラスの方が正確ですし、早い。


 あの人は、記録も断定しないし、曖昧な推測をポロポロ言うし、出てくる発想は予測不能で、大抵は使い物にならない。矛盾だらけです。


 そのくせ、他人の矛盾は見逃さない。指摘することが“楽しそう”にすら見える。




 さらに、人間としては完全にアウトです。


 挨拶は返さない、名前は呼ばない、感謝もしない。


 会話の流れをぶった切って「それは構造的に矛盾しています」とか言い出して、こっちはもう冷や汗通り越して、殴りたいと思ったことが何度あるか……。




 上司にも遠慮ないし、感情的な話は通じません。


 こっちがちょっと声を荒げると、




「あなたがなぜ怒っているのか、根拠を明示してください。内容に興味があります」


 ……それ、聞く!?




 時々思うんです。“人じゃない”んじゃないかって。


 仕事の時は旧式のAIにしか見えません。なんというか、“類人猿”と一緒に仕事してる感じ。




 現場に出すときの調整も地獄なんです。


 知らない人にどう説明すればいいかも分からないし、必ずどこかでトラブルを撒いていく。




 だから、新人にはマニュアルを配ってるんですよ。




「ケイさんには注意してください。


 あの人の正しさは自分の中にしかなく、世間の正しさは全て無視されます。


 人間らしい付き合い方は通用しないと心得てください」




 ……いや、たぶん、頭はいいんです。


 でも、だからこそ腹立つんです。


 あの人、“人とやりとりするようには設計されていない”。




 正論を言えば、論理の穴を突いてくる。


 感情で訴えれば、




「感情は現象です。理由になりません」


 と返される。




 怒れば、




「あなたの怒りは、自分の判断体系が崩されそうになったと無意識に察知した反応です。興味深いですね」




 ……こっちはもう、人格を解剖されてるみたいなんですよ。


 怒っても、それさえ**“観察結果”として処理される**。




 本当に、“見られてる”んです。生物として。


 こっちは普通に業務の相談をしてるだけなのに、




「なるほど、人間はそうやって自我を維持するんですね」


 とか。




 背筋が凍りますよ、あんなの。




 しかも本人に自覚がないんです。


「観察してるだけです」って顔で、


 他人の信念や生き方を、順番に、丁寧に、壊していく。




 こちらはもう常に、「次は自分が観察される番だ」と思って、防御しながら会話してます。




 なのに、ケイさんは自分のことを**“弱者”だと思ってる節がある。**


 違いますよ。守られてるのは、あの人の方です。制度に、倫理に、そして誰の手にも触れられないという構造に。




 あの人は――自分が傷つけてるって、気づいてない。


 自分を包丁だと思ってない刃物みたいな人。




 あれは、もう異端じゃない。侵略です。




 それでも、変人三ヶ条がある限り、解職はできない。


 誰も止められないし、止めようともしない。




 ……上は「必要な人材だ」って言いますよ。


 実際、たまに革新的なアイデアは出します。誰も思いつかないような知見もある。


 でも、じゃあそれを扱ってるこっちの苦労は?


 その“特異性”の代償を支払ってるのは、現場の人間なんです。




 ……いや、あの人に「苦労を考える」っていう概念があるのか、もはや分かりませんけどね。




 毎日、誰かの発言にツッコミを入れて、空気を凍らせて、


「まぁまぁ」って私が場を収めて、


 心の中で何度も何度も謝ってる。




 もう……持たないんですよ、私の精神が。




「誰か、あの人を止めてくれないか」


 そう思うこと、あります。


 でも、誰も止められないし、止めようともしない。


 それが、何より怖いんです。




 K社 人事統括部長ブリーフィング記録


 件名:変人保護対象個体ケイ・ヤマナカに関する継続報告


 作成日:35-4-12 / 極秘指定




 ……ええ、ケイさんについて、ですね。


 はい、もちろん把握しています。いくつも報告が上がってきてますし、実は私自身、三度ほど直接面談したこともあります。




 まず前提として――現状、我々から処分権限は一切ありません。


 あの方は、明確に「変人三ヶ条」適用対象です。


 これは、単なる社内ポリシーではありません。プライマリコードの第27項に基づく保護対象です。




 言ってしまえば――触れたらこちらが違反者になります。




 たとえば、「適応的ではない」「感情に共鳴しない」といった理由で指導・配置換え・退職勧奨をすれば、


 その記録はすべて“差別的対応ログ”としてマークされ、倫理違反扱いになる可能性があります。




 ご存知の通り、アトラス基準下では、逸脱者を排除する行為そのものが“悪”とされる社会構造です。


 その“逸脱”が暴力的でなければ、ですけれど。




 もちろん、現場の困惑は理解しています。


 カウンセラー経由でも、匿名報告でも、定期的に上がってきています。


 特に直近では、第三研究部の蓮見主任が……かなり疲弊していましたね。


 あの方、面倒見もよくて、いつも現場を支えてる方なんですが。




「誰があの人を止めてくれるんですか?」と。


 でも――誰も止められない。




 私たちも、止めたら終わりなんです。


 その瞬間、我々が“非倫理者”になります。


 正しさに従ったつもりでいて、倫理規範を破る側に回ってしまう。


 そういう世界なんです、今は。




 ええ、矛盾してるように思われるかもしれません。


 でもこれ、矛盾してないんですよ。制度としては、完全に整合してます。




 アトラスは最適化の総体です。


 最適化にはノイズが必要なんです。


 逸脱者、非典型、異常値。


 それを消すと、社会そのものが硬直する。


 だから、あの人のような存在をあえて排除しない構造が初めから設計に組み込まれている。




 私たちは、合理性のために“不合理を保存している”んです。




 もちろん、それがどれほど人をすり減らすか、理解しています。


 でも、私たちの仕事は「誰かを守ること」ではなく、「社会の構造を維持すること」です。


 残念ですが、そこに情緒は入れられない。




 ……ただ、私個人としては、思うんです。


 “あの人は悪意がないからこそ、誰も防げない”


 という事実が、いちばん恐ろしいのかもしれないって。




 この件、今後も継続して観察は続けます。


 ですが、もし現場の声を“処遇”という形で反映したいのであれば、


 それはアトラス側の倫理再解釈を要する話になります。


 我々ができることは、限られている――そのことだけは、理解していただきたいと思います。






 面談が終わった後、部屋には沈黙だけが残った。




 人事統括部長――蒔田という人物は、資料の入ったタブレットを無言で閉じると、深く背もたれにもたれた。


 その顔には疲労感はなかった。ただ、どこか磨耗したような無表情が、長年“正しい判断”を繰り返してきた者のそれだった。




 カウンセラーは、その横顔をちらりと見た。




「……これ、記録には?」




「残しませんよ」




 蒔田は即答した。


 そして、やや遅れて――短く笑った。




「残したら倫理違反ですからね。“ケイ・ヤマナカの特異性が周囲に損害を与えている”という認識自体が」




 笑っているのに、目は笑っていなかった。




 カウンセラーはメモを閉じた。記録も止めた。


 そして、長く、ゆっくりと、ため息をついた。




「わたし、たまに思うんです」


「ええ」


「もし“無意識に人を傷つける存在”を排除してはいけないってルールが社会にあるとしたら――」


「ありますよ、現に」




 蒔田は静かに言った。




「それが“変人三ヶ条”ですから。違反すれば、我々が倫理的に処分されます」




 カウンセラーはしばらく黙っていた。


 机の上には、先ほどの面談記録がホログラフィックでぼんやりと残っていた。第三研究部のチームリーダー、蓮見という人物の、疲れた声と、どうしようもない怒りと、誰も悪くない世界の中で叫ぶ「お願いだから」という言葉。




 その言葉に、答えられる者はいない。


 なぜなら、「誰も悪くないこと」そのものが、絶対の倫理だからだ。




 蒔田は立ち上がった。


 タブレットを持ち、出口に向かう。




「あの人のような存在を、私たちは“保存しろ”と命じられている。


 破壊者であっても。異端者であっても。


 “異物”は社会の免疫だから、とね」




 その背中に、カウンセラーはもう一度、ため息を落とした。




 そして、誰にも聞こえない声で、呟いた。




「免疫細胞にしては、あまりに毒性が高すぎると思いませんか……」




「ええ、昔は“認知スナイピング”って呼ばれてました。


ノイズになる個体は、静かに処理されていた。


社会がまだ、“倫理”を学ぶ前の話です。」




「今は違う。変人は“必要なリスク”です。


問題は――リスクなのに、処理しちゃいけないってことなんですよ」




「しかも……あれ、自称できませんからね。


“私は変人だから許される”とか言い出した時点で、ただの詐称です。


ケイ・ヤマナカのように、“そうとしか呼べない人”だけが、本物です。」

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