第二話「古書堂のこと」
しかし、私は幸運にも、その制約をかなり回避して育つことができた。
神保町。
かつて人類に勢いがあったころに建てられた超高層建築物は、増築を重ねて頑強さを増し、死してなお、まるでサンゴ礁のように人々の住処となっている。
もし窓があれば、それらを取り壊し、新しく開発された、日当たりが良くて見た目だけ綺麗で薄っぺらな、”高級な”新市街ができ、壊され、また作られるのをずっと眺めることができただろう。
数世紀にわたって。
しかしこの店に窓はない。
耐火扉に囲まれ、所狭しと本が詰まった書房は、どちらかというと店というより倉庫だ。
そこは、古書の街だ。
「紙は最後に残る情報媒体」
歴代の偏屈爺が店を継いでも、店主たちのモットーは変わらない。
積みあがり、変色した本が作る、黄ばんだ世界。
乾いた紙と防虫剤の混じったにおいが目を刺す。
天井まで積もった科学書はたいてい、法外な値だし、実際の本を売ることはほとんどない。
売るのは在庫の重複分だけだ。
この店は何世紀も前の本を収集し、スキャンし、データを主に販売している。
購入者には、真正性の保証されたファイルとその来歴も添えられる。
情報そのものよりも、そっちに価値がある。
ところで、公共の福祉のため、かつては図書館なるものが国家予算で運営されていたという。
しかし、情報がほとんどタダ同然に扱われるようになった時期、それも失われたらしい。
そして――ここもまた、図書館の成れの果てらしい。
国立国会図書館の収蔵図書というラベルが張られたままの蔵書はしばしば見かける。様々な図書館のラベルがあることからして、各地の図書館からかき集められた、のだろう。
客は様々だ――そして、皆、物質もない不完全なデータに、法外な値段を払っていく。
最も大口の商売相手は――あの「アトラス」を運営している様々なAI会社群だ。
会社群、と書いた。これは各社が異なる生成系統をもつ教師AIをもち、アトラスに対して独立に教育を試みることで、多様性をもたせる…というシステムを採用しているためだ。
このシステムのおかげで大変繁盛している。
彼らはまとめて、法外な額でデータを買っていく。
綴じ糸が腐り、背が抜けかけた分厚い紙束の。
そして、各社ごとに別会計だから、同じデータが何度も売れる。
彼らとて現状は真剣な問題で、かつ誰よりも懐に余裕がある。
そう――私もまた、情報高騰に生かされている。
稀に、本物の本が売れることもある。
しばしば出版社がやってきて、スキャンデータを買って復刻版を刷る。
そして復刻版が完成すると、その確認用に一冊が納入される。
元の古書は倉庫に戻されるか、場合によっては市場に出されることもある。
もっとも、それはほとんどが別の出版社や学会、あるいはコレクターの手に渡る。
値段は当然、途方もない。
人類の長すぎた衰退のせいで「情報」の多くはいまや「遺物」だ。
生き延び、漂着し、保存され、たまたま今ここにある文化の断片。
しかし、そうした”情報の生き残り”の救出作業は遅々として進んでいない。
本の管理は未だ手作業な面も多く(管理機材が高騰していて人間のほうが安いのだ。ロボットというものは過去の遺物になりつつあるが、これはまた話そう――)、店主たちは偏屈だ。本当にスキャンした内容が正しいのかは、AIには判断できない――それが彼らの言い分だった。
たしかに、一理ある――何百ページにもわたる文書ファイルをプリントアウトしたはずが、プリントアウトされたものは30ページからなる自動生成要約になっていた、というのは日常風景だ。
だから”偏屈”爺たちは、全文目視で確認すると譲らない。まあ、私もそうだ。
スキャンが終わるのはいったい、いつの日になるのやら。
そんな店だからこそ、奇妙な噂も生まれる。
それはこんな噂だ。
夜中になると小学生くらいの男の子がいて、夜な夜なスキャン作業を行ったり、在庫を読み耽ったりいるのだという。夜になると店に現れ、朝になると消えていく”彼”は、いつしか自然と、座敷わらしとあだ名されるようになっていた。毛布にくるまって書庫の間の床で寝ているところを見た人もいるらしい。
いつぞやの店主の亡霊ではとまでいわれていた。
その正体はそう・・・
仕事帰りの、私です。
防犯を兼ねた、夜間の店主代行業務。昼間は会社員、夜間は自宅警備員。
高額な本が多いけれど、24時間警備にはちょっと、だそうです。
在庫が増えてきて、店主ももうちょっと広いところで寝たいらしいんですよね。
だってここ、暖房きかないし、電気もろくに通ってないし。
小柄なのも悪いばかりじゃないんです。
自宅警備だけじゃなくてちょっとバイト程度の仕事も。
いい代償と、悪い代償があります。
1つはいいこと、本は読み放題。
もう一つは悪いこと。
営業時間外に火事が来たら、耐火扉が閉まって消火ガスがまかれ、私は死にます。
……まあ、それはそれとして、今日の新着棚には、19世紀の地質学会誌がまとめて入りました。
こんなに生き残っていたとは、スキャンした私でも驚きです。
そう、ここが私が帰る場所。
書店の裏手には、客の出入りしない通路があります。
そしてそこには、店主・・・私の叔父の家があります。
叔父は昼間は書店の奥からほとんど出てこない人です。
そして、夜は10時間は寝ないと気が済まない人です。
私は幼いころ、ここに預けられました。
たぶん、両親には何かを求められていたのでしょう、しかしいまでは知る由もありません。
そして、とうに成人した今でも住み着いています。
私がこう育ったのは、ここのせいだったのでしょうか、それとも元からだったのでしょうか。
座敷わらし。たしかに、そんなものなのかもしれません。
人の姿をして、人と同じように話せても。
いつも「住んでいる世界が違う」ようなレイヤーの違和感があります。
それは――私が人やAIとではなく、本とともに育ったからかもしれません。
でも、小学生でも男の子でも妖怪でもないことは、弁明させていただこう。
不自由は多い。でもここには、問いが許されています。
そう、ここは地上で一番、自由な場所です。