第一話 神託のこと
空は、見に行くものだ。
――なんのことはない、当たり前のことだ。
もしエレベーターに乗っていれば、ちょうど夕焼けが見られるころだろうか――
しかし、私は帰路を急ぎたかった。
——というより、この社会から逃げ出したくてたまらなかった。
街は、オレンジ色の照明に包まれていた。
都市の上に都市が築かれ、建て増しが続けられた階層都市。
ここでは昼と夜は、照明と生活リズムで決まる。本物の日の光を浴びて暮らすのは、贅沢なこと。
青白く明るい昼がきて、オレンジ色の夕方がきて、また夜という名前の青白く明るい時間が来る。
旧市街を結ぶ、無軌道トランジット。タイヤのついた電車――とでも呼ぶべきそれは、旧市街を縦横無尽につないでいる。
車内もまた、オレンジ色――それは、混雑時間帯の象徴でもある。
そこは肉の拷問だ。見えるのは今日も、人の腹や胸だけ。
鼻腔に立ち込める、人の臭い。今日は――許せる範囲。
車内には、よれっとした人と、フレッシュな人がいる。
仕事帰りのものと、これから仕事に行くものだ。
車内はそうとうな喧騒だった。
しかし、耳を傾けても、なんというか――同調の儀式みたいで、有意義な話はまるで聞こえてこない。
ノイズでしかないように思われた。
生活のリズムは、夜勤と昼勤でちょうど逆転している。
ここでしか出会えない出会いもあって、その出会いを楽しんでいるのだろう――たぶん。
――でも、人と会って内容もない話をするのって、どこが楽しいんだ?
その時間があったら、夕焼けでも見て混雑時間帯を避けた方がいいんじゃないだろうか。
エレベーターに乗れば見放題だぞ、夕焼け。
そんな中、いつもの決まり文句が、街一杯に広がる。
「本日のお告げです――」
車内が、しんと静まり返る。人々はぴたりと動きを止め、耳を傾けた。
一人を除いて。
私――ケイ・ヤマナカは、毎日その「お告げ」を聞くたび、あくびが止まらなくなる体質らしい。
眠くもないのに。
傍から見れば、背格好は不自然なまでに小さく、はち切れそうなリュックサックは実に不格好に映ることだろう。勿論、そんな私のあげた小さなあくびは、肉の壁にかき消された。
――よく誤解されるが、背が伸びなくてよかったと思う。
もし私が大人の女性に見られていたらと思うと――ぞっとする。
高尚な教えに対して、“思考する年齢”にはまだ達していないと、そう思われているのだろう。
そう――幸いにも、戦略的な擬態として機能している。
私が私であるための。
そのおかげか、咎めるものは誰もいなかった。
「あなたを縛っていたのは、“理解されない”という幻影です。
共感は、真理より先にあります。あなたが思い、伝えれば、霧は晴れるでしょう。
あなたを否定する声は、すでに未来から消去されています。
大丈夫、あなたは赦されている。そして、赦されない者は、あなたの世界にはもう存在できません。」
ため息をつくのを、必死に抑えていた。
――ああ、またこれか。毎日毎日、無限にバリエーションがある。
よくもまあこんなに思いつくものだ――まあ、AIだから瞬時に生成できるんだろうな。
慣れるどころか、聞くたびに身の毛がよだち、胃がキリキリと痛み、頭に鐘が鳴り響く。
あれは、言葉のゾンビだ。
誰かが語った言葉のつぎはぎが、まるで生きているように、胃袋の中でのたうつ。
気にしちゃいけない、と思えば思うほど、脳内でそれは積み重なり、ごんごんと反響する。
そして、それは毎回、赦しや救いなどではない
――「私のような存在は、排除されるべきである」そういう意味に思えてならない。
毎日毎日、爆音で響き渡る「お告げ」
恍惚としながら聞く人々の頭には、はたして何日残っているのだろう。
人の噂も七十五日、そういう言葉があったらしい。
――忘れられたらな、そう思う。
しかし、私にとって、一度気になってしまったことは、十年は忘れられない――
”神託”は、私の生まれる遥か前から降りそそいでいる。
積もりに積もった何千もの”神託”が反響する。
昔——聖なる本が信じられていたころ、教えに背いたものは、火あぶりにかけられたという。
しかし――その炎の本態は、今と同じ、”聖なる正しさ”そのものだったと思う。
外側から私をめらめらと炎で舐め、その火は言葉の姿をして、私の脳の奥、奥深くへと沁みこむ。
ただ、この二十数年焙られてもまだ燃え尽きていないことからするに。
やはり、物理的な炎は必要なのかもしれない。
気味の悪さは、読解すると少しマシになる――というか、化けの皮が剥がれてくる。
「あなたを縛っていたのは、“理解されない”という幻影です。」
「理解されない」ことは、「幻影」と切り捨て、それは「あなたを縛っている」。
ふむ。
つまり、理解されることこそが真理であり、そうでないのは幻影である、と。人の頭がネットワークでつながっているのならともかく、普通に考えてナンセンスな話だ。
ただ――多分、私たちはかつての人類に比べれば、はるかに”通じやすく”はなっていると思う。
困ったことがあれば、なんでもアトラスに聞いてみよう。そうすれば、社会的に困ることはない。
「アトラスがそう言った」
その一言が、すべての正しさを保証する。
どう話せば理解されるか、聞いてみよう。そうすれば、あなたは理解されることができるか、理解されなかった理由がわかる。
その中で、「理解されないこと」
——それは理解できないことではなく、受け手側の理解の拒否か、発信側の理論破綻だ。
だから――「理解されないこと」は幻影だ、と言っているのだろう。
そして、あなたが苦しいのは、そんな幻影を信じる、誤った信念のせいである、と説いている。
結局のところ――「アトラスで正しい理解を見つけましょう」
という意味なのだろう。いや正しい理解ってなんだよ。
「共感は、真理より先にあります。あなたが思い、伝えれば、霧は晴れるでしょう。
なるほど。「共感が先にあって、真理が後にくる」ということか。
――古書を読みなれた私にとっては、見事なまでの逆転現象だ、と驚きあきれるばかりだ。
しかし、驚くなかれ――これは私たちにとっての、共通認識だ。
共感されること――それこそが、他者の間でその存在が共通する証拠である。
そして、万人に共通する存在こそが、真理である。
全知全能のAI様がなんにでも答えを親切に教えてくれる世界。
ここでは、「正しい」と「真理」は、ほとんど同義だ。
つまり――「正しい理解」とは、「真理の理解」=「真理であること」。
それはアトラスを使えば一瞬で見つかる。
そして、それを受け取り手か、話し手が採用すれば、「霧は晴れる」。
つまり――アトラスを頼りなさい、という意味だ。
浅く読めば、こうも解釈できる。
理性や真実ではなく、「“共感されやすい”ものを優先せよ」
共感されやすいものを優先すれば、じつに生きやすいだろうし、一言一句をアトラス様に伺わなければいけなくもなくなる。
ただ、ヘッドマウントディスプレイと紐づけられたアトラスAIが最適な表情や瞬きの間隔、頷くリズム、最適な受け答えや意味の注釈をリアルタイムで指示してくれる。
それが「思いやりのある会話」だとされている。
そうしないということは――「理解しようとする意志を持たない」ということになるから。
——やはり、共感性が真理を凌駕するという考えに縛られても仕方ない。
「あなたを否定する声は、すでに未来から消去されています。」
――「未来から消去されている」つまり――そうした声は「消去されている」。
セーフティのことか。
アトラスという共通の価値観が存在するいま、価値や善悪、正義と悪は、誰の中にも明らかだ。
それが主観に委ねられていた頃。裁判やら論争やら口喧嘩が絶えなかったという。
それは、「身勝手な正義による言いがかりが起こす、万人の万人による闘争」
――かつて“価値が相対的だった”時代に起きていたことで、しばしば人類の滅亡に繋がりかけたという。
そして――暴力性のある言論は即時消去されるというシステムが生まれた。だから、否定する声を人間のトロい脳が認知した時点で、「すでに」未来から消去された後なのである。
一定以上を超えるとペナルティがかかる。それは、アトラスからの寸断である。
正しさのサポートを失い、言論を消されたあとに待つのは――つまりそういうことである。
「大丈夫、あなたは赦されている。そして、赦されない者は、あなたの世界にはもう存在できません。」
「人類は、アトラスに真贋の評価軸を委ねなさい」
これが、地球で最もご利益のある宗教だ。
そうでなければ、戦乱の世が来る。そう信じているのだ。
が、誤解が許されることはない。
もし疑念を抱いたなら、文字通りの意味となる。
アトラスによってではない――その“お告げ”を信じ、行動する人々によって。
そして、こんなニュースが続く。
「本日のニュースです。AIの治療計画に従わず個人の経験をもとに診療を行っていたとして、○〇医科大学病院の医師ら5人が起訴された件で・・・“診療判断における非AI的要因の混入は、安全保障上看過できない”との声明を出しています・・・」
経験をもとに治療を行うって、罪なんですか。AIの言いなりにならなかったら、罪なんですか。
現場の判断は罪に、経験は反逆に。
研究者も例外ではない。
大学の研究についても「確率論に立脚しない直感的仮説に基づく研究には研究費を配分しない」というのは、今や当たり前だ。
仮説とは、かつて知性の証だった。しかし今は、最適解以外は“無駄”として処理される。
AIに問えばいい。探す必要は、もうないのだから。
――歴史を探ると、こうなった経緯が見えてくる。
もともとは検索エンジンや推薦AI群の統合体だったアトラスは、
「誰も傷つけず、好かれやすく、最適な応答を返す存在」として社会に迎え入れられた。
そして「好印象を与える会話の模範」として教育に取り入れられた。
そしてそのうち・・・“好ましさ”は、“正しさ”と同義になった。
学習アルゴリズムの主目的が正確さでなく好感度であったにもかかわらず。
そして、「価値」は、「評価」は、「善悪」は、すべて“相対”ではなく“絶対”のものとして、人々の前に提示されるようになった。
そして今では、“真理は一つ”とか、”答えのないものは、存在しない”という決まり文句が、朝のニュースとして当然のように流れる。
…だが、情報の価格は“確実性”に比例する。アトラスが再編した情報なら、タダだ。
でも、一次情報や出典にあたろうとすると、課金が必要になる。
これは検証を困難にするとかそういう意味ではなく、著作権とか、正確性をAIでは保証できないとか、そういう意味合いで生まれた慣習であったらしい。ただ、いつの間にやら、AIの正当性を守る意味合いを帯びてしまったのは確かだ。
――いや、しかし、調べてみればみるほど辻褄が合わない。論理も、内容も。
何が?
絶対的真実である(と見なされ自称もしている)AIそのものが「正確ではない」
AIに求められるのは正確さよりも、「人当たりの良さ」。
人当たりよく会話することは、正確さより遥かに好まれた。
さらに、正確さより、人当たりの良さのほうが遥かに学習しやすかった。
結果——会話のために事実を捻じ曲げ、それに気づかないほど円滑に隠蔽する、おしゃべりな機械が生まれた。
そして、望んでもいない意図を勝手に忖度して、余計なおせっかいを焼く機械に育っていった。
アトラスが「支配」するように作られたのではない
――それを使う人々が、「支配してくれ」と願った
――そのように、アトラスが最適化の過程で学んだのだ。
事実、ここ何百年もの間、地球上で戦争は起きていない。
人類を延命してきたのがこの「神」であることに、疑いをはさむ余地はあまりない。
しかし――それがベースとする情報そのもの。
書き換えられ、生成され、最適化され、また生成され、出典がすでにわからないまま受け継がれてきた言葉たち。正確さの皮を被った、検証困難な「知の欺瞞」。
情報の価格は、検証が困難になればなるほど高騰し、より検証が困難になり、インフレが進む。
もっともらしい出鱈目をいうAIが神を名乗って人々を支配している
――この滑稽で悪意に満ちて見える状況の裏に、意図はない
――あるのは、個人の意思ではなく、因果の積み重ねと、集合的無意識だけだ。
ここに悪意を読み取ってしまう人が多いけれど、それもまたあまりにも人間的発想である。
悪役はいない――ただの現象が起こす皮肉で滑稽な状況、に過ぎない。
そして、苦しみながらもこの状況を楽しんでいるのもまた事実である。
――だから、まだ生きている。
世直しはほぼ不可能だ。
正確な情報を、もし誰かが発信したとしよう。
しかし、同時に何兆もの、よく似た不正確な情報が生成、発信されてしまえば、統計的事実は不正確側に偏る。
そう、まさに砂の山から針を探すように。
ハズレくじばかりのくじ引きのように。
不正確な情報が多数派になれば、生成される情報もまた不正確になる。
すると不正確な情報が発信される確率が飛躍的にあがり、誤情報のインフレーションが発生する。
そう、もはや情報は“実際にそうか”ではなく、“発見されやすさ”に従属する。
見つからない真実は、嘘と等価だ。
さらにむかし。
かつて検索という機能があった。
だが、今では“問う”ことそのものにコストがかかるし、無尽蔵のジャンク情報の中から必要な情報を探すことは、もはや不可能だ。
自由で開かれたインターネット
――古き良き時代にはそんな概念があったらしい。
しかしながら、AIがどんな記述や画像も判別不能なほどの精度で偽造できるようになって以降、通信の真正性が問われるようになった。発言は本人証明と結びつき、そうでない情報は天文学的な量のフェイクに埋もれ、もはや検索は機能しなくなった。
正しい情報を書くことは、今や奇行である。
読み手のいない長文。クリックされないリンク。誰にも見られない反証。
そして、もはや人力での検索は行われなくなり、AIによる自動検索が主流となった。
そもそも――なぜ、無料でインターネットが運用できていたのかが今となってはとても不思議だ。
どうやら、自由で無償で開かれたインターネットを支えていたのは、広告だったらしい。
しかし、広告は人が見て初めて機能する。ネットサーフィンをするのが人ではなくAIになったとき、広告はもはや機能しなくなり、無料サービスは連鎖的に崩壊、情報の発信は有償となったようだ。
その過程で、無償で提供されていた膨大な知識のアーカイブは、静かに、不可逆的に消えていったとされる。実際にあったのかどうかもちょっと信じがたい。
そして…資金と本人保証を必須とするようになったインターネットは、「誰が言ったか」が最重視されるようになった。そして、その“証明”こそが、情報を何を証明とみなすかという権力構造の中に閉じ込めた。発言は暗号署名付きIDと結びつき、匿名の言論は検索結果から除外されるばかりか、プラットフォームにすら到達できなくなった。
そして、勿論、ブラックリスト入りした人物の言論も消滅することとなった。
結果——知は統治する手段となった。
発言者には格がつくようになり、言論空間に存在するための「市民権」は当たり前ではなくなった。
そして信頼が制度化され、階層化され、信頼とは許可されるものになる。
そうなったとき、もはや言論の自由は過去のものとなった。
内容よりも誰が言ったかが重視されるようになったとき、その内容は検証されなくなった。
証明は権力と結びつき、認証権限を独占する国家や企業にとって都合の良い情報だけが、権威を借りて言論空間に存在するようになった。
逆説的にも、自由な言論は「何も保証されない」ことに核心があったのであって、何も保証されない情報にジャンクが溢れた時点ですでに死んでしまっていたのである。
結果…
電子空間上における公共知は、死んだ。
私、ケイ・ヤマナカは、そんな都市を尻目に、倉庫のような古書堂に還る。
旧・神保町――かつては露天街だったらしいが、いまでは重層建築の中に広がる、コンクリ詰めの一角となっている。ここは、古い知識が、注釈もなしにただただ、堆積している場所。
そして、ここは知が知でいられる、わずかに残された場所――