記憶のない少女
昔々、一人の魔女と、13人の弟子がおりました。
魔女は強大な魔力と膨大な魔導書を持っていました。
魔女は優しく、人々はそんな彼女を恐れると共に慕っていました。
しかし、魔女はある日弟子に裏切られてしまいました。
12人の魔法使いによって記憶を分割され、魔女は力と記憶をほとんど失いました。
そして、魔女は人知れずどこかへ消えていきました。
小さな丘に生えている木の下。そこで私は目覚めた。
丘の周りは木々で囲われており、その奥から赤い目が光って見えた。
「ここ…どこ?」
おかしいな。さっきまで———に。あれ?どこにいたんだっけ。
「君、どうしたのこんなところで?」
誰かの声がした。声の主は、13歳くらいの女の子。手にはバスケットを持っている。何かを採取していたんだろうか。
「どこから来たの?迷子?」
少女は私の手を掴み、「こっちにおいで」と、私を連れて行った。
彼女に連れられ辿り着いたのは、小さな町だった。
「あなた、見ない顔だけどどこから来たの?名前は?」
「私は……」
自分の名前を答えようとするが、言葉が出ない。
自分の名前が思い出せない。
「私は誰だっけ…?」
「名前、思い出せないの?」
少女が心配そうにこちらを伺う。こちらを覗くピンクの瞳から、どこか懐かしさを感じた。
「ごめん、思い出せない。頭にモヤがかかってるみたいで。」
「それ、記憶喪失ってやつだよ。私が連れてってあげるから、お医者さんに見てもらお。」
親切だなぁ、なんて呑気な事を手を引かれながら考えていた。
「ふーむ…」
町で唯一の医者だと言う目の前の男が、顎に手を当てて唸る。
「これは、医者ではなく協会の専門ですね。おそらく魔法が深く関わっているかと。」
医者曰く、何らかの魔法によって記憶の部分が抜け落ちているらしい。
「そうですか…」
医者の話を聞くと、少女は残念そうに俯いた。
「ごめんね、私の家貧乏だから。教会で見てもらうためのお金がないの。」
彼女はとても申し訳なさそうに言った。
「ううん、気にしないで。ここまでしてくれたんだもん。あとは自分で何とかするよ。」
夕陽に照らされた帰り道。二人で歩いていると、少女は私にこう提案した。
「ねぇ、もし良かったら私の家で暮らさない?しばらくの間で良いから。」
彼女の提案には、少し驚いた。どうしてここまで尽くしてくれるんだろう。ちらりと顔を覗くと、彼女は照れくさそうに笑って言った。
「何か、あなたのことを放っておかなくて。運命、みたいな。あの場所であなたに出会ったことが。」
「そっか、ありがとう」
彼女のそんな言葉に、胸の奥が暖かくなるのを感じた。
「…なるほど、記憶喪失か。それも魔法による。よし、良いだろう。君のことを歓迎するよ。」
少女の父は、私をあっさりと受け入れてくれた。
どうやら、今から夕食を始めるらしい。木製のテーブルには、パンとスープが並べられている。
「ちょっと待ってて。今あなたの分を用意するから。」
キッチンの奥から、母であろう女性の声が聞こえる。
食事の準備が全て終わると、丸テーブルを囲んで自己紹介が始まった。
「私はエマリー。あの丘には、良く薬草を採取しに行ってるの。」
「俺はダッガス。狩人を生業としてる。」
「私はアルマ。この子の母親よ。編み物を編むのが仕事かしらね。」
「えっと…私は、」
三人が話し終え、私の番になる。しかし、名前が思い出せないこともあって、つい口籠ってしまった。
「そっか、名前がないのか。」
ダッガスは腕を組み、唸る。
「なら、私たちが名前をつけても良い?」
アルマの提案は、私としても有り難かった。何だか、この家族の一員になれたようで。
四人で話し合った結果、私の名前はハーテリアになった。何だか妙にしっくりくる。まるで、私の名前が最初からこれだったかのような。
それからしばらく、エマリーたちの家で過ごした。
「あ、集まった...。ようやく...」
あれから五年。エマリーと薬草を採取したり。ダッガスに弓や獣を捕えるための罠を教えてもらったり。アルマと暖を囲んで編み物をしたり。長いようで短い年月が経ち、ついに必要な金貨3枚を集めることができた。
「はい、これ」
「ほ、ほんとに良いの?」
エマリーが、私の目の前に金貨の入った袋を差し出す。「行ってきなよ」と促す彼女に、私は戸惑いながらも頷いた。
「...ありがとう」
「これは、【封印魔法】によるものですね。あなたの記憶の大半が、この魔法の効果で欠片となっています。あなた、魔力は持っていますか?もし持っていたら、魔力を用いて見つけ出すことが可能なはずです。」
煌びやかな協会の最奥。大きなステンドグラスを背に、神父は言った。【封印魔法】というのは、12人の魔女の一人が持つ魔法らしい。
「ですが、脳に干渉するとなると、膨大な魔力が必要なはずですが...。」
神父が何かブツブツと言っていたが、私は自分の記憶を取り戻せると知って、すぐにでも試したい気分だ。
表情に出ていたのか、神父は微笑み、
「そうですね、では魔力を出してみましょう。」
「では、私の真似をしてみてください。自分の手元に熱を込めるイメージです。」
協会に併設されている練習場に来ると、神父は両手を前に出した。
胸、腕、と続いて、手のひらに何かが集まるのが分かる。
「できそうですか?」
神父の問いにうなずき、私も同じように手を前に出した。
胸にある熱い何かを。前に、手のひらに押し出すように。その熱は、腕を伝って少しずつ手のひらへと近づいていく。手のひらに。手のひらに。目を瞑って、集中する。
「…っ!」
手のひらがほんのりと暖かい。これが魔力…。横を一瞥すると、神父は目を見開いていた。
「…初めてで出来ますか…」
どうやら相当すごいということを、神父の反応から感じ取った。
「次は、その手のひらを地面に当ててみてください。手のひらのそれを、薄く、広く地面に流していくイメージです。」
言われた通り、地面に手を置く。流し込む様に魔力を押し出す。魔力は小さい波のように地面を流れる。しかし、やがて何かにあたった。コツンと物音がしたことで、魔力の波は止まってしまう。
「何かありましたか?」
私の反応を見て、神父がそう訪ねた。何かに当たったことを話すと、それが自分に深く関わりのあるものだという。つまり、記憶の欠片のことだ。
「どの方角ですか?」
言われ、私は教会の裏に広がる鬱蒼と茂る森を指差す。
「ああ、あれは揺蕩いの森ですよ。もしあちらから反応があるのでしたら、諦めた方がよろしいかと。」
彼にそう言われたが、私は諦めることが出来ず森に向かって歩き出した。後ろから小さなため息と、「できるだけ早くして下さいね」と言う許諾の旨が聞こえた。
「そうだ、その前に…」
森の入り口は影を落としていて、昼間のはずなのに先が見通せないほどの暗闇だった。
地面には巨大な木々が伸ばす根が顔を覗かせており、私の足を何度も引っ掛けてくる。森の奥には紅点が複数光っており、今か今かと獲物を待ち望んでいる。
不安や恐怖はあるが、後には引けない。何せ先ほどまで歩いていた道は、数歩進むうちに闇に吸い込まれていくのだから。
「大丈夫ですか?」
先を行く神父が尋ねた。私は息を切らしていて、その質問に答える余裕は無く、彼提案の元、しばしの休憩を挟むことにした。
膝下くらいの高さの根に二人並んで座り、私はリュックから取り出した水筒に口をつける。この森に入る前、彼が用意してくれたものだ。【氷の魔法】によって一定の温度が保たれており、清涼な水がスルスルと喉を通っていく。
私が水を飲んでいる間、神父は落ちている枝をいくつか拾っていた。集めた枝を一箇所に落とすと、【火の魔法】を唱える。
ボッ。と音を立てて枝の先に火がついた。小さな火に横から薪が加わる。火を覆うようにしてできた三角錐は、ゆらゆらと揺れる温もりを支えている。
「これが、魔法…」
記憶があった頃は見たり使っていたのかもしれないが、今の私にはとても目新しいものに思えて仕方がなかった。
私が物欲しそうに焚き火を眺めていたからだろう。
「良かったら、教えましょうか?」
【火の魔法】。覚えるのに時間がかかると思っていたが、随分あっさりと扱えるようになった。最初こそ火は小さかったものの。回数を重ねるごとに火の大きさは増していく。神父に褒められたが、同時に制御の方法も教わった。調子に乗って火を大きくしすぎ、危うく周りに引火するところだったから。
「ふぅ……」
一通り教えてもらい、気付くと、時刻は空がオレンジに染まるほど経っていた。焚き火をぼんやりと眺めていた彼も、それに気がついたのか上を見上げる。
「いけません、もうこんな時間ですか」
彼が、取り出した荷物を肩掛けカバンに戻し始めたので、私も片付けを済ませることにした。
最後に焚き火を水で消火し、来た道を戻ろうとすると、カサカサと後ろの丸い低木が揺れた。
「…っ!」
神父が咄嗟に振り返り、音の出た方をじっと睨んだ。まさか、魔物だろうか。緊張感の走る中、黒い影がその姿を見せるべく飛び出す。身構えた私たちの前に現れたのは、小柄な体躯に長い耳と額に一角を持つ角兎だった。
「なんだ、兎か」
私は警戒していたのが馬鹿らしくなった。こちらを凝視している兎に、しゃがんで手を近づける。
「ほら、おいで。怖くないよ」
だが、近づけられた手を見て、兎は勢いよくスタンピングを始めた。クー、クー、と高い声で鳴き、地団駄を踏むごとに体が膨らんでいく。
スタンピングが止み、巨大化も止まる頃には、先ほどまで見下ろしていたのが嘘のように大きくなっていた。体調は2mほどだろうか。鳴き声も、低く唸るようなものへと変貌を遂げている。
「逃げてください!」
神父の声が聞こえる。動揺で考え事のできなかった頭が、すーっと冷静になったような気がした。私と神父は、一本道を兎によって分断されている。神父は入り口に近い方だが、私は森の奥へと続く道しか残されていない。
兎と対面したままじりじりと後退りをする。ここで捕まれば殺されてしまうかもしれない。私はすぐさま森の奥へ走った。後ろから大きな足音が続くのが聞こえる。
木の根、飛び出た小枝、小さな窪み、舗装などされていない自然の道を、それでも道と呼べるのは、潰れた草花がそれを示しているからだろう。後ろに続く巨大兎は、大きな体をあちこちにぶつけ、悪戦苦闘している。おかげで私たちは徐々に距離を開くことができた。
「このままいけば、逃げれる」
兎を撒けば、後は来た道を戻るのみだ。気付けばもう追っ手の姿は闇の中。どこか隠れられる場所で身を潜めよう。しばらくすれば、向こうも諦めるはずだ。
どこか休める場所でもないものかと森をさらに進んでいくと、開けた場所に小さな一軒家が目に入る。今にも外れそうな扉とところどころ割れた窓は、だが、隠れるには十分な代物だった。
「お、お邪魔します…」
居住者などいないと思いながらも、断りを入れてドアを開ける。耳を引っ掻くような不快な音と共に中の全容が明らかとなった。
意外にも小綺麗な床と壁、ウッドテーブルと背の高い椅子、果ては小さなランプに火まで灯して出迎えてくれた。
「あれ、お客さんかなぁ?」
どうやらもう一人出迎えにきてくれるようだ。階段を降りる軽い足音が、それを告げる。まずい、隠れなきゃ。辺りを見まわし、身を隠す場所を探す。だが、生憎のシンプルな内装はそれを許さず。
「あ、女の子だぁ。どしたのこんなところで」
家の主との対面を余儀なくされた。