箒から輝く【改稿版】
厚いレンズの眼鏡を外せば、空の青のなかに土色の虹彩が輝いている。ゆかりは、洗面所の鏡に映る自分の瞳に思わずため息をついた。小学校から帰ってきたゆかりが、鏡の前でため息をつくのはもはや日課になりつつある。ゆかりは鏡に映る自分の瞳が大嫌いだった。
近くで洗濯物をしまっていたゆかりのママは、そんなゆかりの様子に、その手を止めた。そして温かな手で、ゆかりの顔を包み込む。ママもゆかりと同じ分厚いメガネを掛けていて、ママの視線はメガネ越しにゆかりの視線と絡まった。
「あなたは私のもかわいい娘じゃない。魔女である証拠がそんなに嫌い?」
現代に魔女なんて存在しない。そう誰もが思うだろう。それでもそんな現代において、こっそりひっそり魔女は暮らしている。ゆかりもまたそんな魔女の血を受け継いだひとりだった。
けれどその証である瞳は、普段は厚いレンズの眼鏡で隠されている。それがゆかりが自分の瞳を嫌う理由の一つだった。
「この眼鏡のせいでおしゃれもできないし、クラスメイトにもからかわれるんだよ」
ゆかりももうすぐ中学生。おしゃれも楽しみたいし、新しい友達も欲しい。そんな中で、はっきり言ってダサい眼鏡はゆかりの求めるものからはかけ離れている。
いっそ、友達の前で魔法を使ったらなにか変わるだろうか。
そんなゆかりの思考を読むようにママの言葉が続く。
「ママも最初は嫌だったわよ。でもね、魔女の瞳は魅惑のアースアイ。人々を魅力するの。だから隠さなければならないわ。本当に愛すべき人の前以外ではね」
魔女の瞳は特殊だ。時に空の色を写し取り、様々な色に輝く。
人は大地の上に生きており、空の色に恋い焦がれる。だからこそ、魔女の瞳は人々を惹きつけて離さない。
母の言いたいことはゆかりだってわかっている。魔女の力の源であるこの瞳を晒すことは危険と隣り合わせだ。
昔、一度だけ眼鏡を外して遊んでいたとき、悪い人に誘拐されそうになったことすらあった。
アースアイを晒す相手は慎重に見極めなければならない。それ故に思うのだ。
「そんな人現れると思う?」
こんなにダサいわたしを好きになってくれる人がいるのだろうか。ゆかりは、それが気がかりでならなかった。そして返ってくるのはいつもの言葉。
「ええ、思うわ。だってママとパパとの出会いは運命だったんだもの」
パパとママの出会いは本当に運命的だったらしい。大学時代、雨宿りしていたママにパパが傘を貸してくれたことから始まったのだという。
パパの優しさに触れたママは、この人なら魔女である自分を受け入れてくれると思ったのだ。
そんな運命の相手に出会うにはどうしたらいいのだろう。
ゆかりにはその方法がまったくといっていいほどわからなかった。
***
そんな悩み多いゆかりにはストレス発散の方法がある。それは箒で空を飛ぶことだ。
「ねぇ、ママいいでしょ!」
ゆかりは、箒を片手にママに詰め寄った。小学校から帰宅したばかりであったが、今日は雨の日。普通の人は傘をさすから、空を見上げることはしない。箒で飛ぶ練習をするには、恰好の日である。
飛ぶ練習はそうした人目につかない雨の日か暗い夜に決まっている。晴れた日の夜に夜空を駆けるのもゆかりは好きだったが、雨に打たれながら飛ぶのも同じくらいゆかりは好きだった。
「もうすぐ雨もあがりそうじゃない。今日は止めておいたら?」
「でも、夜はママと一緒じゃないと許してくれないでしょ。そのくせいっつも忙しいって付き合ってくれないじゃない」
ゆかりのママは薬草の知識を活かして、総合病院で薬剤師をしている。もちろん当番制の夜勤もある。今日は夜勤の日だから、夜に練習に付き合ってもらうことはできないのだ。昼間ならゆかりひとりでも練習することが許されているので、それが尚更ゆかりの気持ちを急かしていた。
「仕方ないわね。少しだけよ」
ゆかりの熱意に負けたのか、ママは降参とでもいうように両手をあげた。ゆかりは喜びを全身で表すようにぴょんっと跳ねた。
「ママ、ありがと! 大好き!」
ママの胸にぎゅっと抱きついて、すぐに箒を抱えて家のベランダに駆けていく。
外に出ると確かに雨は弱まって来ていて、グズグズしている時間はなさそうだ。透明な雨具を身に着けて、ゆかりは箒に跨った。周りに人の目がないことを確認して、ゆかりは心のなかで「飛んで、お願い」と箒に言葉をかける。
するとゆかりの足はゆっくりとベランダの床を離れ、箒は重力に逆らって、ゆかりを宙へと誘った。身体がまるで無重力のように軽くなり、雨粒はゆかりの周りできらきらと光って、ゆかりを応援してくれているようである。
空はゆかりにとって恰好の遊び場だ。地上ではできないことでも、空の上ならゆかりには簡単にできる。
例えば宙返り。箒の柄を上に向ければ、くるりっと一回転。
回った拍子に雨具のフードが落ちて、雨がゆかりの髪を濡らしましたが気にしない。
もっと高く。もっと高く。くるくると回転しながらゆかりは空の頂を目指した。箒はゆかりの言うことをきちんと聞いてくれる。これだから、箒で空を飛ぶことはやめられない。
飛行練習の時はメガネも掛けないので、雨粒の光がゆかりのアースアイに反射して、ゆかりの瞳は文字通り雨色に輝いている。
でも次の瞬間、地上を見下ろしたゆかりはぎょっとした。
ゆかりと同じ年くらいの少年が傘もささずに空を見上げている。目があったと思った瞬間、しまったと思い箒はバランスを崩して急降下した。
「危ない!」
叫んだのは、少年だった。足元のおぼつかないゆかりを支えるのうように少年の手が伸びてくる。反射的にその手をとれば、少年は抱きしめるように、ゆかりを支えてくれた。ゆかりが落っこちたのは、幸い人気のない公園だった。芝が敷かれた運動場があって、そこを囲むように遊具が備え付けられている。足元が芝で助かった。ぬかるみだったら、足を取られて少年もともに転んでいたかもしれない。
「ありがとう」
お礼を言えば、ゆかりは少年とばっちり目が合った。ゆかりが慌てて瞳を隠そうとするが、少年の照れたような言葉にその動作を止めた。
「きれいな瞳だね。まるで雨粒みたいだ」
その言葉にゆかりの胸がとくんっと鳴る。
「……ありがとう」
「君は魔女なの?」
お礼を言ったは良いが、続いて出た確信を付く言葉に、ゆかりは言葉が出てこない。そうだこの人に見られてしまったのだ。まさか人に見られるなんて、どうしよう。胸の高鳴りも忘れて、ゆかりはひどく混乱していた。
「魔女って本当に箒で空を飛ぶんだね。こんな時代に魔女なんていないと思ってた」
少年はひどく興奮しているようである。
「魔女ってなんのこと?」
「とぼけないでよ。今の今まで箒で空を飛んでいただろう? 手に持ってるびしょ濡れの箒はなんだい?」
ゆかりは賢明に話をそらそうと、箒を背中の後ろにおいやった。
「あなたこそ、傘もささずに人気のない公園で何をしていたの?」
「僕?」
少年にとって魔女が珍しいように、空を飛ぶゆかりに気づいた少年もゆかりにとっては珍しかった。よく見れば少年はランドセルも担いでいないし、3月の雨はまだまだ冷えるというのにコートも着ずにひどく薄着である。濡れた髪から雨粒がポタボタと落ちていたが、それなのに急ぎ足で帰ろうともせず、じっと空を見上げていたなんて。
「どうしてずぶ濡れのそんな格好でこんなところにいるの?」
再度ゆかりが問えば、少年から答えが返ってくる。
「だって、帰り道がわからないから。それに傘はほらっ……」
道がわからないとはどうしてだろう。少年の答えに、ゆかりは目を瞬かせたせる。それでも彼の指差す方向が気なって、そのままそちらに目を向けた。茂みの影に隠れて、小さなダンボール箱が置かれている。
さらにそのダンボール箱を上から覆うようにして、ビニール傘が一本置かれていた。
「何が入っているの?」
ゆかりがダンボール箱に近づこうとすると、少年は「静かに、そっとだよ」と言った。
その言葉を忠実に守って、ゆかりは静かにそっとダンボール箱のなかを覗き込んだ。なかでは小さな子猫が一匹、ニーニーと弱々しく鳴いていた。金色の目が特徴的な真っ黒なオス猫である。
「かわいい!」
昔から魔女の使い魔に黒猫はつきものである。しかしゆかりはまだその使い魔をもっていなかった。
「捨て猫なの?」
「たぶんね。僕が見つけのはついさっきだけど、家はマンションだから飼えないし。雨と寒さでだいぶ弱ってるようだったから」
だからこの子猫に傘を譲り渡したのだろう。少年の優しさが伝わってくるようだった。ママとパパの出会いを思い出して、ママもこんな気持ちだったのかとゆかりは思った。
「なら、わたしの家で飼ってもいいかな?」
「君の家で? 魔女の相棒はやっぱり黒猫なの?」
「ママの使い魔は、三毛猫だけどね。わたしは黒猫に憧れてたんだ」
「やっぱり、君は魔女なんだね」
「あっ!」
会話の流れで魔女であることを肯定してしまった事実に気がついて、ゆかりは思わず声を上げた。
「嬉しいな。最初にできた友達が魔女だなんて」
そんなゆかりと打って変わって、少年はすごく嬉しそうである。
「最初にってどういうこと?」
「実は僕、引っ越して来たばかりなんだ」
「だから、帰り道がわからないって言ってたの?」
「うん。空の上からならわかるかな、と思って空を見上げたら君が飛んでいたんだよ。魔女のいる街に越してきたなんて光栄だな」
「お願い! 今日のことは黙っておいて」
パンッと顔の前で掌を打ち鳴らして、ゆかりは上目遣いに少年を見た。アースアイの魅了の力があればいちころだろう。けれど予想に反して少年は疑問を口にした。
「どうして?」
「どうしてって、むやみに正体を明かさない。それが魔女の掟だからよ」
むやみやたらに魔女であることを明かさないように、ママからよく言い聞かされている。ましてやアースアイを見られてしまったのだ。これ以上ママに怒られるような事態は避けたかった。
「それじゃあ、秘密を守る代わりに僕の家を探すの手伝ってくれる?」
「あなたの家を?」
「そう。言ったじゃないか、空からならわかるかな、って。もしかして、箒に人を乗せるのも掟で禁じられてるの?」
禁じられてはいないが、ゆかりもヒトを乗せて飛ぶのは初めてだ。箒のバランスをとるのは難しい。うん、と答えていいのかわからずゆかりは困惑した。
「ダメ、なの?」
いつの間にか猫を抱き上げて、手で温めてやりながら、少年は上目遣いにゆかりの顔を覗き込んだ。子猫の視線と相成って、それはひどくゆかりの心を揺らす。
「もう!」
なるようになれ!と、心のなかで叫んで、ゆかりは箒にまたがった。
「乗って!」とゆかりの言葉に、少年の顔がほころぶ。ゆかりの胸が再度鳴ったのは秘密である。少年は子猫を抱えたまま「ありがとう!」と言った。
箒の後ろに少年がまたがったのを確認して、ゆかりは少年にしっかり掴まるように促した。少年の腕が腰に回されて、ゆかりに後ろから抱きつき形になる。少年の服の合間から顔を出した子猫が出発を促すようにニーと鳴いた。ゆかりは頬に熱を帯びるのを感じながら、飛んでと箒に語りかけた。
すると箒にとっては重たかったのか、ざわりの毛先がざわつき、しなるようにゆっくりと上昇を始めた。
「本当に飛んでるや」
興奮した少年の声が飛ぶ。ゆかりはなんだか嬉しくなって、箒の柄を上に向けた。どんどん高度が上がって、人々の差す傘が点々とモザイクのようである。
けれど周りの空気が薄くなってきたことを感じて、ゆかりは箒を止めた。
「家は見つかった?」
「うん。あのマンションだよ」
少年の指差す方向をみれば、茶色のマンションが目に入る。同時にいつの間にか雨雲も薄くなり、晴れ間がのぞき始めている。そのことに気づいてゆかりは慌てて箒の柄を地上へ向けた。少年が身体に回した腕に力が入るのを感じる。これ以上人に見られては、ママがもうひとりで飛ぶことを許してくれないだろう。
次第に頬を打つ雨はなくなり、雨の後の澄んだ空気がゆかりの頬を撫でた。
箒についた雨粒がきらきらと軌跡を描き、ゆかりの後を追う。その軌跡が出てきたお日様の光を浴びて七色に輝いている。
ゆかりは慌てて少年のマンション近くの公園に降り立った。見上げた空にはゆかりが飛んできた軌跡に沿って大きな虹が掛かっている。
「わぁ、魔法みたいだね」
後ろにいた少年が思わずつぶやきをもらした。
飛行機雲のように、雨上がりに魔女が飛んだ軌跡には虹がかかっている。虹をかけるその魔法をゆかりはこの日初めて知ったのだった。