わたしの体力増強演劇部 奮戦記 Ⅰ
4月、輝けるわたしの中学生活の始まりの時。空も六色沼もそれを取り巻く木々も燃えているぜ!まあ、入学式には付き物と思っていた桜がすっかり散っているのが残念だ。たとえ中学の入学式と言えども、ピッカピカの一年生には(これ小学1年生だけ?)桜の花吹雪が必要不可欠と思っていたのに。でもばっちゃんが言うには、ばっちゃんの育った長崎ではそうではないらしい。葉桜の下を昨日の雨で叩き落された桜の花軸の上をゾロゾロ踏みたくって校門を通って行くのが常識的入学式で、満開の桜の下をランドセルを背負って入学式なんて、そりゃ絵空事、絵に描いた餅みたいなものと、皆信じているらしい。こっちに来て、わたしの母や叔父の入学式に桜の花が満開になるのを見て、あーら雑誌の絵も満更嘘でもなかったのねえ、と思ったそうだ。
叔父の入学式なんて、寒い冬が長引いて、まだ咲いても居なっかったのは、叔父と同年の多くの干支が辰年である事に原因してるらしい(本当かな?)彼等の運動会とか卒業式とかは殆ど雨で、卒業式の答辞の中で一番の思い出は雨の中を走った運動会なんて読み上げられて皆が失笑していたそうである。その卒業式そのものも勿論雨。受験は大雪。
雪の上を何回も転びながら駅に向かった叔父の姿が今も焼きついているとか。勿論電車は動いていず、友人のお父さんが連れて行ってくれたそうだ。
家族旅行も右に同じ。泳ぐ事が余り旨いとは言えない叔父だが水遊びが大好きだったらしく、0歳にして行った秩父でも、雨がザーザー降る中、どうしても川に入りたいと泣く(叔父は本来我儘を言わない赤ん坊だった)ので浅い所に入れてやったら、嬉しそうにばしゃばしゃ遣る叔父。それから2,3日も立たない内に、それはそれは酷い喘息に罹り入院。これがじっちゃんの昭和製薬を辞める口実になったのは先の話に述べた通りである。でもこれに懲りず、千葉や茨城の海に行っても雨の中を泳ぎ、猪苗代湖に行っても雨の中泳ぐと言って聞かず、翌日にハワイアンセンターに行くと言う約束をして早々に切り上げて、その日の宿へ向かったと言うエピソードもある。でも段々大きくなるに連れて余り関係なくなったとの事、良かったー!
話は戻るが、桜の花が無くってもピッカピッカの一年生に変わりなし、新しい友達や新しい先生、色んな出会いがあるに違いない。中学は小学校とは全然違うよ、教科ごとに先生も異なるし、時間も違うと色々と情報は入ってくるが、今はわくわくと不安が半々位かな。ま、どうでも良いや、始まってしまえばそれに慣れていくだけ。
さあ、遅刻しないように出掛けよう、ねえママ、仕度出来た。
ホームルームの先生は山岡先生、彼女、見掛けは母より少し若いのかなそれとも同じくらい、年上の女性(男性も)の年齢なんて、若い、年取ってる、その間ぐらいでしか判断つかない。優しそうではあるがまだ油断は出来ないと思う。
クラスの顔ぶれは小学校からの腐れ縁みたいな連中も多い中、フレッシュな顔ぶれもある。残念ながら睦美も美香も千鶴も一緒には成れなかった。これも運命、定めじゃ、サッパリと諦めよう。ウン、誰かがわたしの方を見て少し微笑んでる。モチ、わたしも微笑む。何をするのだって切っ掛けが大事だよねえ、友達を作るのだって。
彼女の名を篠原留美奈と云う。素敵な名前、タレントさんの中に混ぜても名前負けはしないと太鼓判を押そう。
そうこれが運命の出会いだったのだ。クラブ活動を決めかねていたわたしにいとも簡単に「ねえ、演劇部に入ろう、わたし、劇遣りたい。あなたも一緒に入ろう。一人より二人の方が心強いじゃない?」
「そ、そうね、実はわたしも本の少-しだけど、演劇部に入ろうかなって思わないでもなかったんだ。でももう少し考えさせて」
「え、考えるの?いいじゃないの、決めなさいよ。屹度あなたにはピッタリよ。声といい、風貌といい、演劇やら無くて何やるの?」
「わたし、詩を書いたり,短歌詠むのが好きなの。物語創るのもね」
「ハハハ、それは暇な時に一人で書けばいいじゃない。劇は一人芝居もあるけど、普通は大勢で作り上げるものじゃない、学生生活を送りながら、その中で皆で協力し合って一つの劇を作っていくなんて素敵だと思わない?」
「まあ、それはそうだけど・・・」
「決まった、決まった。これから申し込みに行こう。チャンスの神様、前髪掴めよ」
「そ、その言葉、聴いたことある。祖母が言ってた言葉だわ。祖母が前居た昭和製薬の名物営業部長の言葉とか聴いたわ。チャンスの神様は後髪が無いから,来たら直ぐ前髪を掴まえなくちゃいけないんだって。でもその名物営業部長、社内闘争に巻き込まれ、昭和製薬辞めさせられてしまったの、チョピリ哀しい結末だけど」
「ふーん、良く分んないけど・・兎も角早く申し込みしに行こう」
と云う訳で強引なる新しき友に引きずられるように、その日の内にめでたくも?演劇部の進入部員と迎えられる事と相成った。
それを聞いたママは大笑い。
「まるで腕の良い勧誘員と気の弱いお客さんみたいね。でも頼り甲斐ありそうなお友達。ママからも是非宜しくって伝えて頂だい」
とんでもない彼女にこれ以上に大きな顔をされては適わない、それどころか母に言ったら呆れていたわって言ってやろう。
それより隣の武志君に報告だ。
「えっ、演劇部・・・演劇部ねえ。あそこの部員に情報貰った?」
「ううん、訳分からず引っぱられて入部させられちゃったんだもん、情報も何もないわ。チャンスの神様前髪掴めとか何とか言われてさ」
「お前、体操苦手だろう?」
「当たりきしゃりき、体操音痴。特にボールと云う名が付く奴は」
「ま、ボールは良いとして、走ったり腕立伏せ、それから腹筋運動は?」
「ゼーンゼン。走ること以外遣ったことも、遣ろうとしたこともありませーん」
「そ、そうか。ま、頑張れよ」
「な、何よ。話途中じゃないのよ。思わせぶりなこと言っていきなり頑張れよって」
「練習がと言うか、クラブが始まれば、俺の言ったことが良ーく分かるよ。文学少女変じてお前も体力女子だな。ハハハ」
これじゃ何のアドバイスにも成っていない。では一番優しそうでアドバイス出来そうな千鶴に電話だ。「もしもし、こんばんわ、島田真理ですが、千鶴さんお手すきでしたらお願いし、あら、千鶴ちゃん。今暇、ちょっと話し聞いてくんない?」
「どうしたの、何か困りごと?」
「困りごとではないのだけど・・・わたしさあ、新しい友人が出来て・・」
「あら、そうなの、良かったじゃない。それがどうかしたの?」
「それは良いのだけど、これからが問題なの。彼女が演劇部に入りたいのでわたしにも一緒に入ろうって入部させられちゃったの」
「あらあー、良いじゃないの。お似合いよ、わたし、真理ちゃんのお芝居するのって見たいわ。そこのどこが問題なの?」
「まあ、お芝居は何とかなるとして・・隣の武志君に言ったら、体操がどうとか、文学少女変じて体力女子とか言われて、なにが何だか分からなくなって、あなたに電話したの」
「ええっ、それどういう意味?芝居って見た目よりずっと体力がいるって事かしら?」
「思い出した、ばっちゃんが芝居って体力無しでは出来ない、それでばっちゃんは演劇の道を諦めたのかな?ま、それは如何でも良いことだけど、そう云うことなら分かる気がする。中学に成った事だから、ここは一丁、体鍛えて頑張るか。ありがとう、頼りになるわ千鶴ちゃんて」
一応納得。でも矢張り後の二人にも報告しよう。先ずは美香だ。武志君と話したなんて言ったら、ウーン
彼女妬くかな?
「ハーイ美香ちゃん元気,友達出来た?わたしさ、出来たのよ。それが強引な奴でさ、自分が演劇部に入部したいと言って、わたしまで入部させられちゃったの。ううん、まだ申し込んだだけだから、その本体はまだ謎に包まれているのだけど、あんたに悪いけど隣の武志君に報告してみたのよ。え、何が悪いのかって?いや、分からなければそれで良いのよ。所がよ、彼、それに対しては何にも言わず、やれ体操はどうの、文学少女変じて体力女子になるみたいな事言うのよ。そこでさっき千鶴ちゃんに電話したら、それはお芝居するのは見た目以上に体力がいるからじゃないかって。それもそうだと思ってわたしも覚悟を決めたの、少しは体力付けなくちゃあって」
「ふーん、そう。でも、そういう意味かしら、武志君がワザワザそう言うんだから何かあるんじゃない・」
「えーそう言えばそうよね、でもアイツ、それ以上言わないんだ。何か又不安に成って来た」
そこで最後の砦、睦美ちゃんに電話をする。
「アッ、睦美ちゃん、どう新しい生活。え、新しいって勿論中学生活のことよ、担任の先生とか新しい友達とか。代わり映えしないですって、感動なしか。そうそうあなた、テニス部に入るのよね、あ、そこには、アイツ、健太が居るんだよ、武志君の友達の」
「そ、そうよ、健太さん、先輩になるんだから少しは尊敬してよ。わたし、彼頼りにしてるんだから」
「な、成る程、そ、それは失礼しました。武志君によれば彼も成長して、彼なりに紳士に成ったって聞いているから、ま心配は要らないか。周りに部員も居る事だし・・」
「何よ、まるで彼が凶悪犯人みたいなこと言って。それでどうしたの、新しい生活って」
「ああ、そうなのよ、わたし 新しい友達出来てね、そいつに引きずられて演劇部に入会させられちゃったのよ」
「演劇部、ふうん良いんじゃないの、人それぞれだから」
「で、さあ、武志君に言ったら、体操は出来るとか、文学少女変じて体力女子になるとか、呪文みたいなこと言うのよ。演劇と言うのは見た目より体力使うからと思っていたけど、美香ちゃんが言うには。そんな事ぐらいでは彼は言わないって言うのよ。それもそうだと思ってあんたに電話してみたの」
「へー、でも、わたしには全然分からない。そうだ、あんたが凶悪犯人扱いした健太さんに聞いて見るから待ってて」
こ、これは思いもしない展開だ。あの睦美ちゃんが健太とねえ。待ちましょ、待ちましょう、わたしの事も二人の今後の展開も。
その日はもう夜も遅かったので、睦美ちゃんからの電話は掛かって来なかった。翌日も学校で彼女に会うこともなく、又演劇部の情報も誰からももたらされる事無く過ぎていった。只篠原留美奈女子だけが愛想良く「演劇部、楽しみだね。お互い頑張ろう、モチ勉強の方もそれなりにね!」とのたもうた。
我が心、友知らず。
夜、睦美から電話が掛かって来た。
「分かったわよう、悪名高い演劇部の事」
「な、何、その悪名高いって?演劇部よ、普通の中学校の単なる普通の演劇部よ」
「フフフ、その普通の演劇部よ。アンタの武志君が体操は出来るかとか言ったのには、実は深ーい深ーい意味があったんだ。健太様が教えて下さったぞよ」
「分かったから教えて頂だい、その健太様のお言葉を。ありがたーく拝聴仕ります」
「あそこはねえ、演劇部と言うより、地獄の体力増強部と言う方が正しいらしい」
「ええっ、地獄の体力増強部?何それ、栄養ドリンクみたいな名前のクラブなのねえ」
「バーカ、幾らアンタのばっちゃんが薬屋さんやってるからって、栄養ドリンクに例えるなんて。そんな生易しいもんではありませーん。地獄のって言葉アンタ、分かっているの?」
「まあ一応。それでわたしはどうなるの?針の山歩かされたり、釜茹でにされたりする訳。そりゃ困ったってそんな事ないわよねえ、ははは」笑い声に力なし。
「釜茹でや針の山は無いけども、校庭10周や腕立ふせ30回、腹筋も同じくらいやらされるそうよ」
「ひょへえ、そ、そりゃあ辛いわ、筋肉付き捲り。で、でも筋肉コンクールに出る訳じゃないのよね、あくまでも演劇部なんだよね」
「でも、驚く事はそれだけじゃないんだ」
「ま、まだあるのー、明日篠原さんに言って入部取り下げよう」
「ウヒヒヒ、内申点、こういうものが在るってご存知かな?」
「聞いたことはあるわよ。それとどういう関係があるの?どうしても部活しなくちゃいけないなら、文芸部が有ればそこに入るし、無ければそれに近いもの,新聞部とかに鞍替えするから」
「そう来たか、良いだろう君がそう逃げるのならば。それが一番の安全策だ」
「で、その驚く事って、何」
「取り下げるんだろう、入部。家族に反対されましたのでが一番良いかな。幾ら鬼のコーチと云えども、親の反対には逆らえないだろう、ふふふ」
「だから、その驚く事って何よ?もったいぶらないで教えてよ」
「どうしても知りたい?どうしようかな、入部辞めるんなら知らないほうが良いと思うけど」
「やだ、絶対知りたい.真理と言うなに賭けてもここは知らなくちゃあいけないの」
「そうか、君は哲学者の娘だった。それじゃ教えて進ぜよう、その鬼コーチをやってるのが、何を隠そう君の担任の山岡女史、山岡先生その人だ。人は見かけによらないだろう」
「へええっ、あの先生が、鬼コーチなの。信じられない」
山岡先生が優しいかどうかは未だに不明だったが、鬼コーチ、それも生半可の鬼ではない、悪名高い鬼コーチだなんて信じられない。成る程、彼女は国語の先生だから演劇部のコーチを担当するのは十分考えられる。でも体操の先生とは全く無関係だ。
その夜、中々寝付けなかった。うとうとしたと思ったら、鬼と化した山岡先生に追いかけられ、留美奈と手を取り合って必死に逃げ惑う悪夢を見てしまった。
翌日になった。ホームルームが始まる。山岡先生が現れる。うーん、彼女が悪名高い鬼コーチなのか、テレビならば、ヒーローが現れて「えい、やっ」と退治してくれるだろうが、現実はクラスの皆、騙されてその話しっぷりに幻惑されているようだ。
「あら、島田さん、何か話が有りそうね、言ってご覧なさい」
おおー敵は既に感ずいたか、油断ならぬ奴め。
「い、いえ何にも、べ、別にありません」
「そう、何か言いたい事があったら、みんなも遠慮しないでどんどん言って頂だい。まだ中学に入ってそんなに日も立っていないから、分からない事が沢山あると思うし。ああそれからクラブ活動も良ーく考えて決めるのよ、早とちりなんて少し哀しいわよね」
おお、敵からこんな言葉が聞けるとは思わなかったぞよ。ホームルームが終わったら、留美奈に話をして急いで入部を取り下げよう。
ホームルームの終わりを告げるチャイムの音。やっと取り下げのチャンス到来が来た、これぞ神様の前髪掴めだ。先ずは篠原留美奈に諦めさせなくちゃいけない、何ぞと考えを巡らしていたら、敵がもとい山岡先生がわたしを見てにっこり。これはいけない、笑顔爆弾には誰もが弱い、ましてや相手が先生と来てる。じゃあ、わたしもにっこり笑って返そう。
「それから、島田さんと篠原さん、二人とも演劇部に入ってくれるんだって、先生とても嬉しいわ。先生が受け持っているクラブなの、宜しくね」
ゲゲゲ、敵の方が早い、何てこと。敵が前髪掴んじゃった。
「わ、わたし、まだ、あのう・・」ここは何と切り抜けようかと考えていると
「はい。わあ、山岡先生が指導して下さるのね、嬉しい。ね、島田さん」
なーんにも知らない篠原女史が無邪気な声を挙げた。ウーン、益々不味い。ここは天下の宝刀を抜こう。
「あのう、わたし昨日両親に話しましたら、篠原さんには悪いんだけど反対されてしまいまして・・」
「えー、島田さん、演劇部やらないの、そんなー」篠原女史の声。
「はい、両親に強く反対されまして。残念なんですが・・」
「分かったわ、ここは先生が一肌脱ぎましょう」
一肌脱ぐって、ここは学校、それは出来ませんって、そう云う意味じゃないのね。
「先生からあなたの家に電話して、入部させて下さいってお願いしてしてみるわ。皆もそういったことで悩んでいたら先生に相談してね。じゃ朝のホームルームはこれでお終いです」
何てこった、何時電話するの?父は大学だけど、母は今日は何処にも出掛けず、もう直ぐ催される美術展の為の画の仕上げ中、よほどの事がない限り家の中。
演劇部の顛末は母には全く話していない。わたしこそ母に電話したいよう!そうこうしている内に一時間目が始まってしまった。
一時間目が終わって篠原女史がやって来た。
「どうしたの、お母さんに反対されたの?反対されるようなクラブではないと思うけど」
「どうもこうもないわよ、あそこは地獄の体力増強部て言われてるのよ、校庭を何周も走らされるし、腕立伏せや腹筋運動を50回位もやらされるの。わたしそんなのやだから、絶対入らない」
「ええっ、そんなー。本となのその話。誰に聞いたの」
「友達に聞いたの。一人じゃないよ沢山の人に聞いたんだから」
「いやだー、そんな所にわたし一人残して行ってしまう訳?」
「あなたに早く知らせたっかったけど、その前に向こうに先手を打たれたの。あなたがあんなに嬉しそうに返事するんですもの、わたしにはどうする事も出来なっかったわよ。それより母に連絡取りたいのだけど、あなた携帯持っていないわよね」
「持って来なかったわよ。ハハーン、ご両親の猛反対と言うのは真っ赤な嘘なんだ」
「そうよ、何が何でも入りたくないんですもの。わたしは元々自他共に認める文学少女なんだから、文芸部か、新聞部に入るべきなのよ。それをあなたが強引に演劇部に放り込んだんじゃないの。ああーあ困ったな、どうすればこのアリ地獄から抜け出れるのかしら」
「そうねえ、わたしも入りたくなくなちゃった。ここはずばり、二人して先生に、わたし達は演劇をしたいのであって、体を鍛えたいのではありませんと訴えるしかないわ。昼休み職員室行こう」
昼休みになった。またまた篠原女史に引きずられるようにして、策士山岡女史の元へ。
「あら、島田さんも篠原さんも二人して・・ははーん、演劇部の内情を聞き出そうと言う訳ね。あ、それから島田さん、まだ、お母さんに連絡してないの、お母さん、今、在宅中?」
「い、いえ。今日は美術展の手伝いで東京へ出掛けてます」ホッとしながらも嘘に嘘を重ねる。
「あのう、先生,ずばり聞きますが、演劇部と云うのは体力増強部なんでしょうか?」お、篠原女史、本当にそのもの図張りだ。
「まあ、誰がそんな事言ったの、演劇部は演劇部よ。一学期に一つ、まちょとした物だけど講堂を借りて演劇やるのよ。体力増強部なんてとんでもない。そりゃあ、演ずるにはそれなりの体力が要るけど」
「それはそうですよね。ハハハ、良かった、普通の演劇部で。そうでしょう、島田さん」
「え、ええ。それはそうですが・・まあ、篠原さんにはお似合いだと思います。先生、わたしなき後、くれぐれも篠原さんを宜しくお願いいたします」ここは一刻も早く我が家に戻り母に泣き付こう。
「やだ、ズルイ、島田さん。わたしだけ置いてけぼり。あなたも入らなくちゃ」
「で、でも母がと言うか父と言うか、兎も角反対してるから、やっぱり止めてた方が親孝行と云う物だと思います」
「大して反対されてもいないくせに。只皆から余計な事を吹き込まれただけでしょ」
おおっ、篠原女子までもが敵側に寝返ったか、2対1では適わないか。
「まあまあ、二人とも言い争いは止めて。兎も角島田さんのご両親に電話してどう云う訳で反対されてるのかお聞きして、説得できれば説得するわ。だから篠原さんもも少し待って」
やれやれ、ここは何とか切り抜けたぞ。後は母だ。強きものその名は母なり。頼りにしてまっせお母ちゃん。
授業が終わる。飛んでマンションのエレベーターの中へ。ドアを開ける。
「ママー」と呼ぼうとしてグッと飲み込む。そうだ、もう中学生だもんね、ここからはママでなくお母さんと呼ぼう。何でも切っ掛けだよね、今その時、今しかない。
「お母ーさん」返事がない。もう一度「お母ーさん」返事がない。画に夢中になって、可愛い一人娘の呼ぶ声も聞こえないのか、それとも夕食の買出しにでも行ったのか。一先ず荷物を置いて、奥の部屋を覗いてみよう。
アラー、居るじゃないの絵筆は握っているけれど描いてはいない。
「もう呼ばないの、お母ーさんって」
「聞こえてるんじゃないの、どうして返事をしないのよ。いないのかって、思ったじゃないの」
「何時かこの日が来るって思ってたけど、呼ばれたらどんな気持ちがするのかなって。ま、少し年取ったような、仕方が無いのかなとか、あんたも巣立っていくのかなとか、色々心に到来する気持ちを整理してたのよ。失礼しました、改めて、お帰りなさい」
「オーゲサナ、ママからお母さんに変っただけなのに」
「アンタもその日が来たら分かるわよって、わたしの母はどうだったっけ。ウーンそうだ、今も母は自分のことママって言うわ、わたしがお母さんと言っても暖簾に手押し。よーく、許しているわね、アンタがばっちゃんって呼ぶの。屹度母の事だから心の中では深-く傷ついているわね」
「ええっ、ばっちゃんの事ばっちゃんて呼んじゃいけなかったの。ばっちゃん傷つけてたのわたし」
「今度聞いてみたら、何て呼ばれたいか」
そこまで来てはっと思い出した。こんな話をしてる場合ではなっかった。敵からの電話が迫っているというのに。
「ママ、じゃなかったお母さん、お願い助けて。わたし絶体絶命、ピンチなのピンチ、もう直ぐ敵から電話が掛かってくるの、そりゃあ恐ろしくて、策士の敵なのよ」
「何を言ってるの、最初から順序良く話してよ。そうじゃなくちゃ、助けるにも助けられないじゃない」
そりゃそうだ、話しましょう、詳しく詳しくこれまでの事。だから助けて可愛そうな子羊を!
所が話を聞いたママじゃなかった、母は大笑い。し、失礼な。
「わたしは絶対に体力増強部なんて入りたくない、マ、じゃなかったお母さんとは違うの、わたしは文学少女として生きるんだから。腕立伏せや腹筋なんて全然出来なくていいの、かよわい文学少女で上等だもん」
「でも丈夫で体力モリモリの文学少女の方が少し可笑しいけど、良いと思うけどな。それに真理はもう少し体力付けたほうが良いと思うわ。それに山岡先生は元々国語の先生でしょう、演劇部の皆にそんなに運動させるかしら?何か考えがあって運動をさせてるんじゃないの?」
ウーンなんか怪しい、もう既に電話は掛かって来たんじゃないのか?敵にママもではない母も言いくるめられて、わたしを逆に説得しようとしてるんじゃないのか?3対1だー!
「お母さん、お母さん、ねえお母さん。これで大分年取ったでしょう。もう、敵から電話掛かってきたの
ね、山岡先生から。もう先生の悪魔の囁きに可愛い娘を守る心をすっかり忘れてしまったのね」
「はいはい、お陰で随分年取ってしまったわ。先生からねえ、いえ、まだ掛かって来ないわよ。今の話はママ、じゃなくてお母様の心からの、可愛い娘を思う気持ちから出た言葉よ」
「ゲゲゲ、お母様の心からの言葉ですって。やだやだ、わたし、絶対筋肉女子に成りたくない。お母さん、少しはわたしの心わかってよー」
「うーん、半分位は分かるような分からないような。じゃあ、体操嫌いの娘の気持ちを汲みまして・・」
「きゃー断ってくれるのね、ありがとうママ、じゃなかったお母様。お母さんが断ってくれれば百人力」
「ハハハ、人生そんなに甘くないぞよ娘。わたしとしては先生に一応どんなハードな体操をさせるのか、
それにアンタが耐えられるようだったら、ここは諦めて演劇部に入ってもらう。それからアンタの文学才能が枯渇しないようにもお願いする積り。モチ、わたし達両親が入部を反対してるのは真実と言う事にしよう。それであんたの言うところの敵がどう出るか楽しみ楽しみ」
な、何と母は娘の危機を楽しんでるのではないか?アーン、誰もわたしを真剣に心配してくれない。
そうだ、こうなったのは武志の奴が最初にはっきり教えてくれなかったからだ。こうなったからには武志の奴に責任を取ってもらおう。
と言うわけで隣のドアチャイムを鳴らす。
「だーれ、」武志の声だ。
「あんたねえ、ここはどちら様ですかって聞くべきでしょ。あんたももう中学2年なんだから言葉使いに気をつけなくちゃ」チャイム越しに説教をする。
「なんだ、真理・・・真理様かあ」
「今アンタ、わたしを呼び捨てにしようとしたでしょう」
「煩いなあ、英語では兄貴や姉、先輩だって呼び捨てだぜ」と言いながらドアが開く。
「ここは日本よ、礼節を重んじるニ、ホ、ン、なの。わたし、英語のそう云った所中々馴染めない、何か違うって思うんだな」
「なんだよお、何かおかしいんじゃないか。英語の勉強が分からなくて聞きにきたんか?」
「そうじゃないわよ。アンタが始めにはっきり言ってくれなかったから、今大変な事に成ってるんだから責任とってよ」
「ヘ、何だそれ。俺なんか言ったけ?」
「言ったじゃなくて、言わなかったよ」
「益々分からない、言わない事にまでに責任は持てないよ
ウン、成る程、それは言える、何て納得してる場合じゃない。
「アンタが最初に演劇部は演劇部じゃなくて体力増強部だって教えてくれたら、翌日には篠原さんと二人で入部取り下げに行けたのに、健太のとこまで話を持って行って初めてそれが分かり、今日、取り消そうとしたら敵に先手を打たれて、話がややこしくなってしまったんだから。ややこしくなっただけなら良いけど、マ、アッ、イエ、母もその気になって、わたしどうすれば良いの」
「良く話が分からないなあ。何だその体力増強部て言うのは?」
「だから、演劇部の別称よ。別の呼び名、判る?」
「誰がそんな別称とか云う奴付けたんだ。健太の奴か・・ウーンアイツ、お前をからかってんじゃないのか?まあ、あの演劇部は少し変っていて、確かに校庭走ったり、腹筋やったりはするらしいけど、別称付けるほどじゃないと思うよ。何しろ演劇部なんだから。そうそう一学期に一つ、簡単な芝居をやってるからな、俺も見た事あるよ」
「で、でもヤッパリ校庭走らされたり、腹筋させられるのよね。アー、どうしよう、わたし体操大嫌いなの、走るの苦手、腹筋もっと嫌い。どうしてくれるのよ、あんたが最初からそう言えば入部しなかったのに」
玄関先で口論続けていると、藤井夫人のお帰りだ。片手にぶら下げたマイバックが重そうだ。
「まあまあ、こんな所で仲良くおしゃべり?中に入ったら、あなたに貰ったイチゴも大分大きくなったわよ、赤くなるのが楽しみだわ」奥様はお気楽に声かけて・武志君の横をすり抜け家の中へ。
小学生だった昔なら、今は中学生だもん、男、彼も立派なかはさておいて中学2年生、一人の所にはヨウイケマセン!でもおばさんが折角声かけてくれたのに、この激闘を玄関先で終わらせるのは少しばかり失礼と言うもの、ここは何時ものようにオジャマシマース。
「で、俺にどうしろと言うのさ。山岡先生に島田は体弱いですから、腹筋させないで下さいなんて、言わせる積り?」
「ヘヘヘ、そう言ってくれれば一番良いけど、あんたはわたしの保護者じゃないし」
「大体そんなこと言えるかよ。お前な、お前も少しは体鍛えたほうが良いと思うよ。人生イヤダイヤダって逃げ回ってばかりじゃ済まされない事が山ほどあるんだから。校庭走って、腹筋しろ」
おばさんが出してくれたオレンジジュースが実に美味しい。思えばまだ家に帰ってから水一杯も飲んでいなかったのだ。
「おばさーん、ジュースとっても美味しい!喉も渇いていたし味も最高、おばさんもさいこう!」
「あらそう、何時も出してるのと同じなんだけど」と台所から返事あり。
「へっ、ゴマすりやがって」
「あら本当よ、家に帰ってからマ、イヤ母と演劇部即体力増強部に付いて議論してたもんで、喉を潤す事
スッカリ忘れていたんだもん」
「ま、ここはあんたのお袋さんに任せるんだな。それが一番、アンタの事よーく知ってるし分かってるんだから」
「アア、ア。どいつもこいつも山岡女史の回しもんか。わたしの味方は一人も居ない」
結局武志君も全然同情すらしてくれなかった。それどころか校庭走れ、腹筋しろとまで言われてしまった。
そうだ、ばっちゃんが居た。先ずは杉並に掛けて見よう。でも複雑な家庭環境、いたずら盛りの二人のイトコの面倒を任されている二人には、この文学少女であるわたしの悩みの深刻さは理解されず、「あーら演劇部なの。良いじゃないの、劇に出るときは言ってね、この二人じっちゃんに任せていくわ。え、じっちゃんも見たいですって。さあてどうしたらいいかしら」なんて反対に相談されたりして。
こうなりゃあ、薬屋のばっちゃんしか居ない。
「まあ、真理ちゃん、もう中学始まったのね。どう、楽しい、なんて聞くの可笑しいかしら、余程勉強好きじゃなくちゃ、楽しいなんてね。ハハハ」
相変わらず元気一杯、高らかに笑う。
「ばっちゃん、ばっちゃんはばっちゃんて言われるの嫌い?」
「え、今更なあに。呼び方を変えてくれる訳」
「若し他の呼び方が好ければ・・変えてもいいかなと思って」
「まあ嬉しい!そうねグランマとか・・それがいやならおばあ様なんて如何?」
「ヤッパリ、嫌だったんだ、ばっちゃんって言われるの」
「そうね、言われるたびに年老いていくような気分だったわよ。もう100歳くらいに成ってるかしら。ハハハ」
「じゃあ、これからグ、グランマって呼んで欲しいのね、ばっちゃん」
「ウン、まあ良いかな、グランマて呼ばれたら100歳でストップするかなあ、わたしの年」
「じゃ、これからグ、グランマね。えーとグ、グランマさあ、グ、グランマは、えーと何話していたんだっけ」
「良いわよ、ばっちゃんで。どんどん聞いて、どんどん年取って1000歳ぐらいに成ればもう年齢的には立派な仙人と言う訳だ。それで今日の話題は何なの、まさかばっちゃんと言う言葉が女性を如何に年取らせるかと言う課題でも出たんじゃないでしょうね」
「そんなの出るわけないでしょう。まあ、出てもいいけど。アッ、そんな話はどうでもいいの。あのさ、この間中学に入ったら、クラブ活動どうしようかなって話していたでしょう」
「ああ、そうね、確かあなた演劇部に入りたいみたいな事言ってたわよね」
「し、仕舞ったアー。わたしそんな軽率な事言ってたんだ。うーん、でもそこが実は地獄の体力増強部だったらどうする?」
「地獄の体力増胸部ですって。なあに、そんなクラブあるわけないでしょう。そんなのあったら、入るのあなたのお母さんぐらいよね、ははは」
「笑い事じゃないのよ、表面的には優しそうな顧問の先生が実は恐ろしい企みをもってて、生徒に校庭を何周も走らせたり、腹筋を何十回もやらせるのよ」
「そう、本とに体力付きそうね。実はわたしもこの所、お腹引き締めようと毎晩、寝る前に腹筋50回、脚挙げ70回やってるの。校庭走るのは校庭そのものが無いから無理だけど。それに寝る前に思い出してやってるから眠くって、それ以上出来ないのよ。お陰で前は中々寝付けなかったのが、今は即グッスリ」
ゲゲゲ、ばっちゃんが腹筋50回。そんな話聞いてないぞ。
「それで演劇部をやるの、止める事にした訳」
「それが蜘蛛の巣に引っかかった小さな蝶みたいなもんで、マ、えへん、お母さんに電話が掛かってくるのよ、その優しそうな顔と声をした悪魔のような先生から。一応両親の反対で取止めたと言う事にしたので。所がその悪魔の先生はそんな事では諦めてくれなかったの、両親を説得するって。お母さんは分かったって言ったけど、根が体力増進大好きな方だから、屹度その先生と意気投合するかもしれない。パ、いえ、お父さんはまだ帰ってこないし、ねえ、これからその、グ、グ、グランマだっけ、そうばっちゃんを呼ぶから、お願い、お母さんに演劇部に入れないように説得してよ」
「はい、分かりました、お安い御用と言いたい所だけど、ウーン、この間も言ったと思うけど、何ごとにも体力はそれなりに必要だと思うのよね。演劇部でしょ。なよなよとした役ばかりじゃ劇は成り立ちません。真理ちゃんももう中学生、少し体を鍛えたほうが良いと思うわ。あなたは先生を悪魔みたいに言ってるけど、先生は先生の考えがあってみんなの体力アップを計っていらしゃると、わたしは考えるわ」
何と言う事。ことごとく、みんながわたしに地獄行きを進めるではないか!
どうすりゃいいんだ、わたし。絶体絶命、風前の灯。もう、わたしを助けてくれる人はいない。
こうして人は絶望の海を渡って生きて行くしかないのね、これが大人に成る道なのね、て大げさかしら。
嫌いな人参を食べろとか、ホウレン草の紅いとこを無理強いするとか、ぞっとするような鯖を体に良いと言うだけで何が何でも食べさせようとしたり、大人に成るって辛いよなあ。
「はい、じゃあ、体鍛えて、いいお芝居見せて頂だい。楽しみにしてるわ。あ、それから今まで通りで良いわよ、ばっちゃんで、さよなら」
と言う訳で最後の砦も崩されてしまった。まだパじゃないお父さんが残ってるって、ああ駄目駄目、お父上はお母上の言いなりだもの、無きに等しい。じっちゃんと同じ。
今、その時先生から電話が掛かってきた。母の応対する声がする。時々笑い声も聞こえる。何か意気統合してない?娘の心配を他所に「ああそうですか」とか「そうですよねえ」「本とにそう思いますよ、わたしも」なんて、笑い声に混じって聞こえてくる。
電話が切れた。話は終わったようだ。
「真理ちゃん、真理ちゃん」母の呼ぶ声。ここはもう味方はわたし一人、この強固な出来るなら体操したくないと言う意志のみ。
ドアを開けて、ニッコリ母に笑いかける。所が向こうもにっこり笑っている。これはいけない、早く先手を打たなくちゃ。
「勿論断ってくれたわよね、マじゃないお母様」
「あのね、真理ちゃん。先生皆ご存知だったわよ。今までも変な噂が立って入部を取り下げた子が何人も居たんだって。だから多分あなたもその噂にビビッているのだと思っていらしたみたい」
「で、でも、反対はしてくれたのよね、体操じゃなくて文学をやりたい子供だって」
「勿論話したわよ。そしたら大丈夫ですって、1学期に一つ創作劇をやるから、その台本を書かせて上げましょうと言う事になって良かったじゃない、万万万歳よね」
何が万万万歳よ、結局悪魔の話に丸め込まれたんじゃないか。
「で、わたしが体操音痴のことはどうなったの?」
「ああその事もちゃんと話して置いたわよ、体操嫌いで全く体力なしだってこと。先生が言うにはその子なりに体力付けて行けば良いんですって。地獄の体力増強部と言うのは、誰かが面白がって言い出したんだという話よ。本とは極楽体力付けましょ部なんだって。ホホホ」
何がホホホよ、そんな部活なんてありえっこなし。母は完全に洗脳されている、神様居るんなら、どうかこの可愛そうな子ウサギちゃんを助けたまえ。
「大丈夫だって、校庭だって本の一周位だし、腕立伏せはやりたい人はやればいいし、腹筋は、これはどうしても発声には腹力が必要だから、20回位、必要かなって。イザナミ区のおばあちゃんだって寝る前に50回やってるそうじゃないの、それに比べたら、あんたは若いし、たったの20回、お茶の子さいさいよ。ハハハ」
今度はハハハか、ウーン、ばっちゃんの話は既に母の耳に到達していたんだ。もう駄目だ、わたしの中学生活は真っ黒け。
「ささ、もう話は済んだわよ。これで一安心ね。マ、じゃなかったお母様は、夕飯のお仕度しなくちゃ、何か簡単に作れるものにしようっと」
母は鼻歌交じりで台所に消えて行く。
何が一安心なものか、一不安どころか、二不安も三不安も、いやいやもっともっとあるぞよ。
と言うわけで、天からの助けもなく、真っ黒けの中学生活が翌日から始まった。
その原因である部活もいよいよ始まってしまった。思い足取りのわたしをこれまた鼻歌交じりの篠原女子が部室目指して引きずって行く。
この地獄の部にもう一人新入部員居るらしい。男と言う話。物好きな奴、一体どんな奴じゃ、と繁々とその顔を見てみれば、な、何とあっちゃん、敦君ではないか。血迷ったか、敦、お主だって健太から情報聞いてるだろうに、何を好き好んで。えーと、あっちゃんは演劇少年だったっけ?いやいやそんな事聞いてないぞ、いやむしろ反対だ、芝居どころか人前で大きな声すら出せない性格だ。
彼の顔を見ると確かに嬉しそうではない、こわばってるような、むしろ沈鬱で泣き出しそうな顔だ。
悪魔先生のお出ましだ。新しい部員が(あの悪評にもかかわらず)三人も増えて嬉しいとか何とか言ってる。逃げ出さずに居る部員と合わせて10人。一応自己紹介、皆そう云えば筋肉もりもりに見えるのは、わたしの色眼鏡のせいなのか、兎も角軟弱そうなのは、わたしと敦君だけ。思えば篠原女子だってそれなりに筋肉女子なのだ。
いよいよ、悪魔先生のこのクラブについての説明、これからの計画などの説明が始まる。
「皆さんも若しかしたらこのクラブの根も葉もない噂を聞いたことあるでしょう。でもそんな事ないの、
そりゃ、劇をする為には、少しは体を動かさなくちゃいけないし、役の為には機敏さや柔軟さも必要でしょう。此処の所を皆、分かっていないのよね。だから、是非部員の皆にはここがそんな怖いとこじゃなく楽しいクラブ、演劇好きなら誰でも気楽に入れる所だと言う事を証明して欲しいの」
ほうほう、悪魔先生、我々を手下にしてもっと多くのウサギ狩りをもくろんでいるな。
「先ず、1学期の終わりには一寸した劇をやるのを目標に、役作り、体、特に新入生は腹筋が出来ていないので、それを鍛えるのを目指します」
ほれほれ、敵がいよいよ本性を現し始めたぞ。
「それから、これは日課として校庭を1周すること」
ありゃー、日課だって。部活の日だけではなかったの?
「毎日少しずつ走っていれば、いざ沢山走る事になってもへこたれない、モトイ頑張れる、エクゾースチッドにならなくってすむと言う事。これはわたしの恩師の教え。先生は毎日1時間ずつ歩いて、この勾玉県の松山であるスリーデーマーチの30キロに70歳で出場してから毎年、80に成られる一昨年もも元気に歩き続けられているの。残念ながら去年はコロナで中止になったけど」
やれやれ、何処もかしこも元気の良い年寄りばかりだ。
「腹筋の方も出来たら家で練習していて欲しいわ。そうすればクラブでやるとき楽でしょう」
成る程、これが楽なクラブの正体か。バーカ、感心してる場合か。
「あ、それから今学期の劇のテーマはイソップ物語。台本は」と言って、悪魔先生はわたしの方に向きを変え、ニッコリ微笑んだ。わたしはぞーっとしたけども,そこは大人の応対、わたしもニッコリ笑って帰す、次の言葉も聞かないで。
「台本は、今度入部した島田さんが是非やらせて欲しいとの申し入れがありましたので、引き受けてもらいましょう。いいですね皆さん」
じょ、冗談は止してくれ、悪魔の先生!誰が一アンタに申し込んだんだ。う、そそれは母だ、、母がついアンタの口車に乗せられてやらせて欲しいと頼んだに違いない。
「先生、わたしそんな事頼んでいません。屹度母が勝手に言ったんだと思います。わたしは文芸部か、新聞部のような所に行きたいと言っただけです」
「はいはい、そう聞きましたよ。それに文学的才能も伸ばしたいと言う事も。だったら、ここに居ても体は丈夫になるし、才能も伸ばせる、一石二鳥て訳。お母さんもそれは良いわ、是非お願いしたいって事になったの。分かった?」
分かるも何もわたしの要望は何一つも叶えられていないじゃん。
「まあ良いじゃないの、物は試し、書いてみたら。思わぬ才能が花開くかもしれないわ。勿論わたしも手伝うわよ、どうしても旨く行かない時はね。あ、これ、去年使った台本、参考までにね」
3冊の台本を渡された。運動と台本とやれと言うのか、悪魔の主は。
で、でも何処からか、やってやろうじゃないか、このまま悪魔の奴にコケにされたままで良いものか,と云う憤怒なのか、ファイトなのかは定かではないけれど、燃え滾るものが生まれてきたのだ。
[分かりました、やりましょう。わたしの始めての戯曲物ですからそんなに期待しないで下さい。イソップ
を素材にするんですね」
「そう、引き受けてくれるのね、良かったー。今まで書いてくれた子が今年の春、卒業してしまったので、今度は誰に頼もうかと思案していた所なの。昨日あなたのお母さんに電話して本当に助かったわ」
先生、ルンルン、わたしの心は真っ黒け。
それでも、チャンと校庭1周と腹筋10回(一応初回と言う事で)、それプラス早口言葉の練習を上手になるまで言わされる。さらに新しい早口言葉のプリントを渡され「この次までに良ーく練習して、空で言えるように成っててね」と来た。
酷い目に遭い、がっくりして帰るわたし。その後ろをとぼとぼ付いて来るあっちゃん。
そうだ、あっちゃんは何時から演劇に興味を持つように成ったんだ?
「ねえ、ねえ、敦君」くるりと向きを変える。吃驚眼のあっちゃん。
「あなた、お芝居好きだったのね、少しも知らなかったわ」
「ぼ、僕見るのは嫌いじゃないけど、演じるのってやった事ないし、全然自信ないんだ」
「あーら、それは殆どみんながそうよ。好きか嫌いか、それが問題だ」
「大きな声を出すのも、好きじゃないし、人の前で芝居なんてとても出来ないって思うんだ」
「ええっ、そうなの。それじゃどうして演劇部に入ったのよ。それも地獄の体力増強部と悪名高い演劇部に。あなたもそんなに体操好きそうじゃないみたいだし」
「武志君に言われたんです。昨日の夜」
「武志君に!何でアイツがあんたに勧めるのよ、わたしの事で散々嫌味言われたのに」
「だから、お前が入って助けるようにって。それにぼ、僕ひ弱そうだから少しは体力付けろって。まあ、
何処かのクラブには入ろうかなっては考えていたけど・・・」
「そうよねえ、敦君には一番遠いクラブかも知れないわね」
「で、でも・・今日の真理ちゃん見てたら、ああ、僕も頑張ってやってみようと考え直したんだ、僕も少し体作りして、大きな声出してお芝居やってみよう、出来る限りだけど」
「へえ、今日のわたしを見て。わたし、何したっけ」
「武志君から、真理ちゃんが無理やり演劇部に入れられそうだから、危なくなったら助けてやってくれて言われてたけど、危ないどころか、台本書きまで引き受けるんだもん。僕の出る幕、なかったよ」
「あれはことの成り行き上、引き受けたのよ。快く引き受けた訳ではないわ」
そうか、武志の奴、少しは責任感じているのか。でも寄りによって、あっちゃんみたいな一番頼りなさそうな男を選ばなくっても良いじゃない。これじゃ反対にわたしがあっちゃんを助けなくちゃいけないじゃない。
兎も角、渡された台本をペラペラめくって見た。ウーン、余程人材が居なかったのね、まるで藁を噛むような(と言っても噛んだ事はないけど)味気ないものだ。も少しカレー味とか、コショウを利かすとか、何とか成らなかったものか、あの悪魔先生に相談して。
でも、イソップ物語をベースにねえ。どれもこれも短編ものかあ,まあ今日はこういった事を心に留め、宿題をやっちゃおう。数学でしょう、英語は復習、予習、そそれにだ、あのニックキ山岡女史は国語の宿題まで出しやがった。
でも、根が真面目なわたしはヒーヒー言いながらも校庭を土日を除いて(雨の日も)毎日走る。腹筋も母に足を押さえてもらって10回やる。早口言葉もスッカリ上達した。台本は?それはそんなにまだ進んでいない。
敵はなるべく早く仕上げるようにと言うが、そんなに急かすから前の台本が味気ない物に成っているんだ。ここはじっくり、少しは敵を困らさねば気が済まぬ。
ところで何をやるんだ?イソップねえ、どれを取り上げても良いんだ。ふーん、みんなが良く知っている話、風刺が効いてる短い話。フムフムこれを総勢十人でやる。
でもそれは無視しよう。一人が何役やっても良いんだから。殆どが我も我も主役やりたい、それが駄目ならせめて誰よりも目立ちたい、沢山台詞を喋りたい、そんな思いでいるんだから。
「予算は出来る限り押さえてね。出来たら一幕で済ませて、その為のイソップなんだから」と敵は言ってるぞ。
ようし、脚立一本、あとはベニヤでも紙でもどちらでも良いや、木になるブドウが(モチ、これも絵)一房(取外し可)、舞台右寄りに橋の欄干。出来たらその少し横の所に家が欲しい。椅子や机にボール紙を張ってそれらしく見えればいいんだから。
最初の登場人物は、ウーンここは重要よね。そうだ、白雪姫の継母、魔女にしよう、イソップじゃないけどわたしのイメージとしてわね。左手から軽やかに踊りながら、鼻歌混じりが良いな。川(橋の欄干)を覗き込みながら言う台詞。
「あーら、今日は、川さん、ご機嫌如何。ねえ、聞いても良くて」ここで一息入れてから次の台詞。
「川さん、川さん、この世界で一番綺麗な人はだーれ、教えて頂だい」
舞台の影から一斉に「それは、あなた。それは、あなた。あなたが一番綺麗で美しい」と大合唱。
魔女、ニッコリ笑って皆に手を振って退場。次に熊が手に大きな鮭を持って歌いながら登場。
「俺様は、ここいらで一番強くて賢い、しかもここいらで一番の鮭取り名人ー」同じく欄干を覗き込みながら
「オイお前、お前も強そうだが俺様には適うまい。お前の持ってる鮭をさっさと渡さんかい」
川の大合唱「わたさないよー、わたさないよう、ここには鮭はぜんぜんいませんようー、鮭がいるのはあっちの川だよー、あっちの川ー、あっちの川ー」
「何い、生意気なあ。渡せー、渡せー」熊暴れてどぼんと言う音と共に欄干の反対側に落ちる(身をかがめるだけ)ややあって熊右手より這い上がるよう再途上。
「酷い目に遭った。あれ俺様の鮭は何処だ、俺様の鮭ー」と言いながら同じく右手に退場。
次に左手より大きな荷物(出来る限り馬鹿でかい奴)を背中に背負った5匹列をつくって黙々と橋を渡っていく。
アリの退場の後キリギリスが右手より5匹登場。手に手に楽器や卵を携えている。
「アア、ア。すっかり秋も終わりに近づいたなあ」「もう直ぐ俺たちの時代も終わりだあ」「早く何処か良い所探して卵を冬から守らなくちゃいけないな」「どこがいいかなー」「急がなくちゃあ」と言いつつ左手に去る。
狐が1匹左手より登場、
「今日は鶴さんからの御呼ばれ。嬉しいな、楽しみだな。先日は僕も鶴さんをお招きしたんだけど、ちょっと意地悪をして、スープを平たいサラで出しちゃって、鶴さん飲めなくて困っていたっけ。でも鶴さんそれを根に持たず僕を招待してくれるなんて、鶴さんて本とに良い人じゃなくて良い鳥さんだ、
狐橋を通って家に入る。
カラスが3匹、「カーカー」と鳴きながら左手より右手の方へ消えていく。ここは棒か竹先にカラスの絵を付けてカラスの役者が持って演じる。
ややあって、先ほどの狐が家より出てくる。
首を振り振り、橋を渡り舞台の真ん中に。
「ああ、ヤッパリな。そんなに世の中甘くないんだ。鶴さんだって腹立ててたんだ。仕返し仕返し。平たいサラの代わりに今日は長-い壷、あれにゃ参った参った。降参だよ完全に」左手に少し歩いて
「でも、ご馳走が出ると思って何も食べていないんだ。腹減ったなあ」と上を見る。
「あっ、ブドウだ。旨そうだな、何とか取れないものかな」何度も飛び跳ねる。
「ええい、取れない。益々腹減った.にっくきブドウめ」
もう1匹狐、左手より登場。
[あら、あなた、ここに居たの。どうだった、鶴さんの御もてなしは」
「どうもこうもないよ、酷いもんだ。何もかも長い壷みたいなのに語馳走入ってて、何にも食べられなかったよ。お陰で腹ペコ。そこで見つけたのがあのブドウだよ。旨そうだろう、何とかして取ろうとしてるんだが、どんなに飛び跳ねても届かないんだ」狐、又「えい、えーい」と2回ジャンプする。
もう1匹の狐もそれにあわせて2回飛んで見る。
「幾らやっても無駄よ。大体高い所になってるものは狐には、酸っぱくて苦いって決まってるのよ、知らなかったの?」
「へえ、知らなかった。早く教えてくれよ、草臥れた上にお中はもっと空くし損したよ」
「早く帰って夕ご飯にしましょう。バッタとジャガの盛り合わせよ」
「おいしそうだね、それに野鼠なんかがあれば豪華絢爛なんだけど」
「贅沢言わないの」
「そうか、高い所になってるものは狐には酸っぱくて苦いものなんだ。うん、今日は酷い目にあったけど、一つ良い事を学んだよ、狐子ちゃん」
2匹、左手に去る。ややあって又、先ほどのカラス3羽が右手より鳴きながら登場。左手に移動しつつ
カラス1「おお、好い物が成ってるぞ」
カラス2「丁度食べ頃のブドウだ」
カラス3「3羽で協力してもぎ取り、家まで持って帰りましょう」3羽、木の下まで行きカラスを交差させて協力しているように見せる。木の裏にある脚立に乗った部員がブドウの絵を一羽のカラスに貼り付ける。カラス、又右手の方に鳴きながら退場。
やや暫く、そのまま。やがて風の音。
その音にあわせて、木に貼り付けた葉っぱを茶色の手袋をした手で、脚立上から1枚1枚はがして落としていく。
北風、右手より登場。
「ひゅうー、ひゅうー、俺様は北風野郎だぞ。俺様は強いんだ,どんなもんでも吹き散らしてくれよう!
ガハハハ、俺様の前では帽子も外套も,たちどころに吹き飛ばされて消えていく定めだ.みんな観念しーろー、ガハハハ」
左手よりストールをした女性が前かがみで右手に歩いて行く。
「オイ、オイ、そのストールを吹き飛ばさせろー」北風女性に襲いかかろうとするが、するりと女は潜り抜け「あら、北風だわ、大嫌いーだ。キャー、吹き飛ばされてはたまんないわー。早くここは退散しなくちゃ」と言いながら右手に消える。
「ウーム、少し力不足だったかなあ。オオシ、又来たぞ、今度は男だ。頑張るぞー」
帽子と外套(なければコートでも可)を着た男性右手より登場。
「こりゃ酷い北風だ。吹き飛ばされないようにしっかり、防御しながら歩こう」
男、右手で前を押さえ、左手で帽子を押さえて前かがみで進む。
北風、男の前に立ちはだかる。男構わず、前に進む。風、よろけて男を通す。男、左手に去る。
「何で上手く行かないのだろう」
北風腕組みして考える。
「どうも、強引さが足りないようだ、もっと強引にやらなくちゃいけないんだ」
帽子とコートの男とストールの女の二人連れが左手から登場。
「オイお前、北風が吹いてるよ。しっかり前を押さえて、俺に捕まって歩くんだよ」
「ええ、あなたも帽子とコート、吹き飛ばされないようにね」
「おい、おい、お前たち,仲が良さそうじゃないか。それに免じて許してやりたい所だが、そうはいかぬ
帽子、一つでも置いていきやがれ」二人、北風に体当たり。北風激しくよろける。
二人右手に去っていく。
「やれやれ、酷い目にあった。二人連れはいけないなあ。おや今度は三人連れだ、今度こそと思ったが、止しておこう。クワバラ、クワバラ、どんな目に合わされるか分かったもんじゃない」
3人女連れが身を寄せ合って、右手より左手に歩き去る。
「おっ、今度は男だ、最後のチャンスだ。チャンスの神様、前髪掴めって言うからな」
帽子と外套の男、左手より登場。
「アッ、北風だ。吹き飛ばされないように気を付けなくちゃあ」
北風が立ちふさがる。男逃げる。北風直ぐ又立ちふさぐ。この繰り返しを5回。男右手に去る。
「やれやれ、もうすっかり疲れ果ててしまった」
風の音、小さくなる。木に又茶色の手袋の手で黄緑色の葉を1枚、1枚、ゆっくり3枚くっ付けていく。
「もう春だー、今年は失敗したけど、来年こそは頑張るぞー、ガハハハ」北風左手に去る。
風の音止み、川たちの斉唱。
「はあるになればしが子も解けて、どじょっ子だのフナっ子だの夜が明けたと思うべな」2回繰り返し。
最初の魔女が右手より現れる。
「わたしこれからお城に行って王様と結婚するの、良いでしょう!」左手に去る。
右手より熊登場。
「あーあ、良く寝た。腹減った、何か食べるもの探しに行かなきゃ」
家から鶴が現れる。
「春に成ったからわたしはそろそろ北のお家に帰らなくちゃ、そうだ狐さんにこの間は失礼しました、今度こそ帰って来たらご馳走しますって、お手紙書いておこう」
木の上から(脚立上)お日様の顔だけ登場。
「オホホホ、ほうら、あの子もこの子もすっかり外套脱いでるわ、それにみんな喜んでる。北風さんがどんなに威張っても、オホホホわたしには適いっこないのよ。オホホホ」
と、いう風に大体のイメージは出来上がり。これを原稿用紙に台本らしく書き起こし、敵のご機嫌を伺わねばならぬ。
劇のお題は「実録 イソップ物語」あたりで如何でしょうか?
敵さん、おでこにシワ寄せて詠んでる。
苦労したのよ、いや内容ではなく、清書するのにね、へへへ。字汚いから!
「皮肉が利いてるのね、物語でなくイソップに対して」
「イソップの話って大体において現実と少しずれてるでしょう。だからそのずれてる所をちょっと手直しして、お恐れ多いですが、ちょぴり歌劇風に仕上げました。よって、題は実録イソップ物語、これ大袈裟ですか?」
「マ、あなたが大袈裟なのは何時もの事だから、良いとして」
えー、わたしが大袈裟なのは何時ものことだって、し失礼な。それが校庭1周腹筋20回(何時の間にか10回増えてるぞ)宿題免除なし、ご褒美なしで書き上げた12歳の純真な乙女に言う言葉かや?で、でも、残念ながら言得てるかも。敵の見る目は正確無比、油断大敵!
「ここ、アリが黙々として行く所があるでしょう、そこ、少し寂しいので、ここも矢張りアリの歌を入れたほうがいいと思うわ、どう?」
どうも減ったくれもない。「ははあ、承りました」と同意するしかないもんね。
「それが済んだら、早速誰が何をやるか決めなくちゃあね。何しろ部員は10人出し、男子4人女子6人でしょ・・・」
「それは問題ないと思います。日本には歌舞伎もあれば、宝塚もあります。校庭走らせて、早い人順にやりたい役を取っていき、1順目が終わったら今度は遅い人から選ばせる。女の役を男がやっても良いし、その反対でも面白いと思います」
「ま、節制がないと言えばそうだけど・・やりましょう!折角みんな毎日走っているんだからそれで行きましょう。中間試験の始まる前に決めて、試験が終わったら大道具小道具、今までに取ってあるものの中から利用できる物は利用し、ないものは作る。衣装もね。ところであなた、裁縫は得意?」
「い、いいえ。全然駄目です」
敵はわたしの顔をじろりと見やる。
「そうよねえ、出来そうにもないわね、ま、雑巾ぐらいだわね。それは他の人に頼むことにしよう。これも前のものが沢山あるからそんなに心配しなくても大丈夫だと思うわ」
ゲ、ゲゲ、敵さんわたしが裁縫得意と言えば、これもわたしに押し付ける積りだったんだ。
わたしはヨロズ請負人ではないんだあ、5月のこの青空の下、友と語らい笑う日々を夢見る乙女なんだ(今はコロナでそれもほぼ、禁止)わたしの青春返してくれえ、神様ー。これも大袈裟と片付けるの?
で、わたしの仕事は1、働きアリの歌の作詞。2、校庭を走る事。3、自分の役を選ぶ事。
一先ずは歌を作ろう。曲の方はその分野が得意な奴に任せたぞ。敵はそのことに関しては何にも言わなかったし、わたしの責任じゃありません。
わたし等 働きアリ 働きアリ 重い荷物もヘイチャラ、ヘイチャラ、ヘイチャラー
一生懸命 働くのがわたし達の誇り わたし達のオキテ わたし達の生きてる証だよー
なんてどうだろう?ま、後で武志君にでも感想を聞いてみよう。
珍しく敵さん何も言わなかったよ、有れば良い、飾りみたいなものと思っているのかしらん。
次に校庭を走る。良い役欲しけりゃ必死で走る、どれでも良いやと思えば、チンタラ走る。
「わたし、絶対魔女か女の狐が良い!」と篠原女史。
「でも、笑いを取るなら、熊か北風が一番よ。女性がこれを演じたら絶対面白いと思う」
「わたし、別に笑い取りたくて演劇部入ったんじゃないもん、女よ、女じゃなくちゃ嫌だー」
心配無用だった。矢張り体力では男には適わぬ、北風が一番3年男子、狐君2番の2年男子、3番熊3年男子、4番我ら1年男子の敦君で鶴を選んだ。
女子はどうなった。5番3年、魔女(矢張りね)6番2年狐子(成程)7番1年わたし、だがもう殆ど役が残っていない。ここは北風と戦う最後の男しかないと決めた。8番1年篠原女史、考えて考えてもっと考えて北風と戦う始めの女に、泣く泣く決めた。残りの二人は北風と戦うアベックとなった。それで北風と戦わない3人の女達は男たち3人に回って来て、カラスが10番から8番までの女子が演じる事となり、わたしはお日様の声、敦君が北風と遭う始めの方の男と言う事になった。
アリとキリギリスはそれぞれ5人に別れ、ちなみにわたしと篠原女子はアリとなった
脚立の上で裏方をやるのは狐を演じる2年の男子。
「さあて、皆さん役が決まって一安心ですね。この台本には歌が幾つか出てきます。これを何とかしなくてはなりませんが、誰か歌か音楽の得意な人はいませんか?」
みんな、下向いて黙り込む。
「それじゃあ、先生が色々調べた結果、松山君、あなた音楽、得意でしょう?一つ、盗作まがいな物で良いから、適当に曲付けてくれない」
おおっ、仮初にも敵さんは先生だぞ、盗作まがいなんて口にして良いのか、と顔を挙げ敵の様子を暫し伺う。
2年男子松山君も余りの暴言に驚いたのか声もなし、と思いきや
「はい、適当に曲付けときます、みんなが気に入れば良いんですが」と一時を置かず即答。
こいつ等グルかも知れない、気をつけねば。
先生、満足そう。そりゃ易々と台本は手に入るし、音楽まで(盗作まがいかも知れないが)掛け声一つで転がり込んでくるのだもん。
「それから,衣装や背景、お面など有るけど、ま、それは中間が終わってからにしましょう。でも、一応稽古は即始めましょう。それから走るのと腹筋は忘れずにね」
はいはい、女王様の言う通り。と言う訳でやっと演劇部らしい姿に成ってきた我がクラブであった。
今年の5月は雨ばかり、もう梅雨に入ったと思うのだが、気象庁は関東はまだ入っていないという。それにコロナだ。よって今年もどうやら運動会をやらずに済みそうだ。
武志君や健太様(睦美に無理に言わされている)は運動会がないことをブーブー文句言ってるが、わたしにはその気持ちサッパリ分からない。うわっ、ラッキーとか、何てハッピーなんだろう、とか言う人間も居るんだよ、体育の先生たち、運動会大好き人間たちよ!
そんな状況の下で本来の姿を取り戻したわたし達のクラブは、夏休み前の開演を(と言っても1日限り)目指して、日々稽古を続ける。
そう、そう、川の歌は魔女への歌、熊への歌、二つあるが、これは何処かで聞いたことのあるメロデイーで片付けられ、アリさんの歌も期待したが、期待には程遠い物だった。でも辛抱辛抱、何しろ財政難、人材不足の演劇部なんだから。
最初が肝心、魔女の登場。さすが3年女子、踊りも歌も素晴しく、松山君の出る幕は全くなし。
台詞も抜群、言う事なし、彼女一人で全て終わっても良いくらい。
まあ、欲を言えばも少し笑いが欲しい。これ、シリアス物ではなくって・・そう、ユーモア物なんだから。
敵さん、拍手しながら立ち上がった。
「何時もながら永沢さんの演技には感心するわ。うーん、そうね、でも、もう少し肩の力を抜いて,みんなの方を見て、にやりと笑ったり、肩をすくめて見たりした方が良いんじゃないかしら」
ほほう、これはこれはわたしと同意見。な何と敵さんとわたしの意見が合うなんて。
次は熊だ。ちょっとか細い熊、狐役の松山君と入れ替わった方が良いかも。
然し、流石演劇部3年、無駄に年は取っていない。声も歩き方も熊だ、堂々としていて、笑いを取る所を忘れてはいない。熊の情けない所もチャンと演じている。
敵さんも可なり満足しているようだ。
次に重い荷物と言っても空のダンボールを背負ってるだけだが、荷物を如何にも重そうに運びながら、松山先生の盗作まがいの作曲によるアリの歌を歌いゆっくり歩く5匹、否、5人。
歌が合っていないのはご愛嬌。下手は下手なりにそのうち何とか合って来るだろう。
敵さんもそう思ったらしく、何か言おうとしたが口をつぐんだ.
キリギリスは男3人と3年の女2人でバランスを取り、アッちゃんは働きアリを演じる方に回った。。
次に狐、松山君の出番。作詞と違って演技のほうはごく自然に演じて好感度アップ。
カラス、3年女子、2年女子、1年篠原女史の順に今はカラスの絵が付いてない長い棒を持って、ヨタヨタ歩く。ここは流石敵さんも声を挙げる。
「ウーン、カラスには全然見えないわ。ガチョウかアヒル。も少し軽やかに出来ない。ここはもっともっと稽古が必要ね、カラスに見えるまで、これから猛特訓よ!」
で、でたー、敵さんの本性!頑張って頂だい篠原女史さん達。
次は狐子の登場。2年女子。2年生コンビ。中々息があってるって感じるのはわたしだけ。ま、どうでも良いけど。
さあて、クライマックス、北風の登場。もう一人の3年男子、お手並み拝見と参ろうか。
彼は校庭1周1位だけあって、体格も声もでかい。迫力満点、こんな奴に襲われたら一溜りもないと皆が考えるだろう。
対する第1号、篠原女史、かよわそうな女性を演じる。少しイメージとは違っているけどこれが彼女の役柄だから仕方ない。
次2番目、敦君だ。どう見てもあっちゃんの負けー、て感じだけど。あっちゃんも進歩するんだ、男子の中では一番遅かったけど女子には負けなかった敦君、ここは頑張りどころと先輩に向かってぶつかって行く。演技だろうがよろける北風君。
次のアベックは女性二人で演じるからどんなに仲良くしても、ま、安心して観ていられるわ。
4番手は男3人組の女3人組を演じるが台詞も殆どなく出番も短くて、若しかしてそれに気付く人も居ないかも知れない。だが対抗心故か、3年男子,熊君が気転を利かせて
「あら、北風よ。やーね、乱暴者で」と入れた。それに合わせて後の二人も
「本とにやーね、乱暴者で」と、合いの手を入れる。
これでその場がグッと引き締まったようだ。勿論、北風もこの言葉に反応せずしていられよか。 いよいよわたしの出番だ。情けないことにどきどきする、わたしもヤッパリ人の子だねえ。
この演劇部一の大男を相手にどちらかと言うと小柄な女がどたばた劇を5回ほど繰り返すのだ。心は勿論勇者、その人に成り切ろう。別にドラゴンも助けを求める人もいないけど。
「うーん、そうねえ、ウーンなんか足りない気がする」
敵が唸る。わたしも負けずに唸る。何がたりない。背が足りない、それを言われちゃどうしようもない。
「もう少し、ウーン、機敏さが欲しいな。川本君も手加減しないで襲い掛かる、島田さんは必死でそれを交わす。二人とも必死さが足りないのよ!」
仰せの通り、そう、括弧ばかりに囚われていて必死さが足りなかった。で、でも、わたし、この3年男子に適うかな?えーい、やけくそだい、こうなったら何が何でも、必死になって逃げ回り、時には押し倒し、時にはぶつかって向かって行こう。
そう言うわけで、ここはとんだ活劇を演じる事になって、ここの場面が終わると二人ともへとへとになった。も少し体力付けなくちゃ、これから先が思いやられる。
最後の場面。魔女も可愛さが出てて良かったし,熊も今起きて来ましたという寝ぼけた感じが出てる。
いやあ、先輩たちの演技力は凄い、わたし達も成れるのかしら。
鶴の敦君もそれなりに演じ終えた。あの人前で大きな声も出せなかった敦君が。武志君がわたしにかこつけて演劇部に放り込んだのは、こういった結果を見越しての事だったのか。
いよいよ、太陽のわたしの声だけの出番で舞台もジ・エンド。
イメージ的には少し高慢,誇り高く、常に上から目線。何しろ太陽なんだから。仕方ないよね。
と言う訳で、高慢さ目一杯にやらされてもらいます。魔女役の先輩の演技に見習ってね。
と言う訳で,稽古の1日目はへとへと状体で終わった。本当に演ずるって体力勝負だねえ。
雨続きの日々だったが、突如晴天が戻ってきた。入梅宣言する前に梅雨は終わって突如夏到来とも、思う程暑い5月の終わりだ。
かくして人生初めての中間試験なるものもやって来る。もう演技だかんだと言ってられない自体が目前に迫っているぞ。敵さんだって、可愛い?生徒の酷い成績より、そりゃ胸を張るくらいの成績が見たいに決まっている。しばし体力増強部はお休みして、頭脳増強と行こうじゃないか。
真理さん、頑張る。台本の事を忘れ、演技の事を忘れ、中学生の本分に戻り、勉学に勤しむ。
甲斐あって、かどうかは不明だが、どうやら敵さんも胸を撫で下ろす位の結果にはなったようだ。
この頃の天候は全く予測不能な変わり方をするので、油断大敵、まるで我らが敵(と思っているのはわたしだけ?)と同じように侮れない。もう夏と思う間も無く今度は本格的な梅雨がやって来たらしい。
「さあ、ここからが本番よ。演技に,体力作りは勿論、大道具、小道具、これから準備しなくちゃ行けないのよ。その係りを先ず決めなくちゃあね」
いけない、いけない、ここで敵と目が合ったら最後だ、下を向けー。
わたしは下を向いたが、相棒の篠原女史が寄りによってにっこり笑って敵さん見つめていた。
「はい、篠原さん、張り切っていそうね。ウーン、まだ裁縫は出来そうもないから・・」
ああ良かった、苦手な裁縫を押し付けられたら夜も寝られない。
「お面を作ってもらおうかしら、勿論島田さんと一緒にね。これは数が多いけど頑張ってね。3年と2年の女子は、衣装係り。この箱に今までに使ったものが入っているから、使えるものは利用し、無理なものは仕立て直すか、新しく作るか決めて頂だい。男子全員は大道具お願いね、これもそこの所に今まで使用したものがあるから、本の手直しだけで済むと思うわ」
な、何とわたし達だけが利用不可なのー、つ、使えるものないのー。
「お面は矢張り新しい方が良いと思うのよ。それに島田さんのお母さんは画家だから、動物の絵、お上手でしょう?お母さんに図案描いてもらって、それをお手本に描いたらどうかしら?」
そ、そんな無茶な,母が描いた動物の絵なんて見た事ないよ。
「あのう、母は風景画家だから動物の絵は全然描きません。それにお面の絵は母が描くようなシリアスなものではなくて、もっと漫画チックな物の方が判り易いと思います」
敵さん少し笑う。
「大丈夫よ、お母さんは分かっていらしゃるわよ。図案が決まったら持って来て頂だい。良く考えたら、少し大変そうだから、手の空いてる人は手伝う事、分かった!」
「はーい」みんなの気のない返事。本とに手伝ってくれるのだろうか?
疑心暗鬼の儘、篠原女史を伴って我が家に帰る。
「ワー、わたし六色沼上から眺めて見たかったんだ。綺麗、とても綺麗。晴れてたらもっと綺麗でしょうね」
篠原女史はこれから迫り来る山のごとき災難を皆目分かちゃいない、いたって無邪気、呑気なものだ。
先ずは母におずおずと切り出す事にした。
「あーらそうなの、図案だけで良いのね、勿論お面なんだから図案化して描くわよ。幾ら普段はシリアス的に描くとしてもお面には、お面の絵と言うものがあるのよ。そこのスケッチブックを取って頂だい。先ずは熊ね、オス熊なのね」
母はいとも簡単に引き受け、いとも簡単にさらさらと怖そうな顔の熊と間の抜けたような熊を描き上げた。
「お母さん、こんな絵も描くんだ」感心して思わず叫ぶ。
「当たり前よ、プロなんだから本とは何でも描くわよ。漫画家を志した事も無きにしも非ずだし」
「へー、お母さんが漫画家に!」
「だから、無きにしも非ずと言ったでしょう」
「漫画家、おばさん、とても動物の絵、感情出てるし、アリはかわいいし、キリギリスもカラスも一つ一つ性格が分かるように掻き分けてるって凄い」
篠原女史も感動しまくりだ。
「後は狐ねえ、少し遅くなったわね、もう篠原さん帰った方が良いわよ、明日真理に持って行かせるから心配無用よ」
こんなわけでその日の内にお面の図案はゼーンブ母の手によって仕上げられてしまった。
何でこんなに簡単に敵さんの計画は通ってしまうの。しかもその大半をわたしが担ってしまっているなんて。
翌日、放課後、部室。敵の手に母のスケッチブックが渡る。
「流石プロね、どれもこれも素晴しいわ。描き写して色を塗ろうと思ったけど、これに色を塗ってから切り取り、お面用のかみに貼り付ける事にしましょう」
先生、皆を見回す。何か命令する前触れだ。
「じゃ、みんな夫々の役のお面を、それそれで塗る。下手に塗ってもそれはそれで通そう。味があると考えれば良いじゃないのかな、島田さん」
ゲ、ゲッ、不意打ちだあ。でもありがたい、敵からの送塩かな?モチ、即答。
「は、はい。わたしもそう思います」
そう云うわけで随分手間が省けた。万歳三唱と言う所かな、篠原女史よ。
「でも、考えて見るとこれ、お面と言うより冠とするべきかな。顔より頭に付けて演じましょう」
まあ、これから真夏に向かう時節、しかもコロナがある。その方が良いでしょうな。
「あ、島田さん、お母さんにお礼を言ってて頂だい。それからこれ、代わりのスケッチブック、渡しといてくれる」新しいスケッチブックを受け取った。
それからの日々、勉強(これが一番大切と敵は力説)と体力作りと大道具小道具、衣装の確認と補充、最後に演技の稽古に明け暮れた。
雨は中休みをした所為か、その分、今は毎日毎日降り続けている。
毎日雨でわたし達は嫌だなあと思っているけれど、イザナギ区のばっちゃんには花に水をやらなくて良いから大助かりなんだそうだ。
「年々、水遣りが大変になってきて、鉢の数をどんどん減らしているの。少し物足らないけど、年には勝てないわねえ」
珍しく、あの元気印のばっちゃんが弱音を吐いてる。
聞けば、じっちゃんが元気な頃は皐月の植え替えなど、せっせと手伝って呉れてたらしい。今は、手伝うどころか、反対にじっちゃんのその世話が半端ないらしい。正直植木だ、花だと言ってる場合ではないのだ。
「真理ちゃんは聞くところに寄れば、何だかこの頃凄く体力付いたそうじゃない?お母さん、喜んでいるみたい」
「まあ、地獄の体力増強部に敵と母親でタックル組まれて放り込まれたからねえ、嫌でも体力付いちゃうよう、今、やっと演技出来るところまで来たと言うのに、毎日背も横幅もわたしより2倍はあるような奴と、格闘しなくちゃいけないんだ。もう、乙女の体には戻れないよう、ばっちゃん」
「ひ弱な乙女より、屈強の乙女がずっと良いじゃないの。少しはお母さんを見習いなさい。屈強だからこそ、重い荷物背負って僻地にだってスケッチ旅行に行けるんじゃないの。どんどん屈強になるって最高。わたしなんか、上が年の離れた兄が二人でしょう、それに小学校の頃は病気ばかりしてたから、大事にされ過ぎて、未だに力も体力もなし。今の真理ちゃんが羨ましいわ」
どうやらばっちゃんも敵さんの味方らしい。
では隣の武志君はどう思っているのだろうか。そう云えばこの頃ジックリ話し合う事なんて久しく無かったなあ。
「ねえ、屈強の乙女ってどう思う?」ここはずばり聞こう。
「クッキョウ、何だい、それ?」
「屈強って、物凄く強い事よ。乙女ってわたしみたいに可愛い少女の事」
「今度はイソップからプリキュア物かい、プリキュアって良く知らないよ」
「そうじゃなくて、屈強の乙女に対するあなたのご意見を賜りたいの」
「ご意見ねえ。良いんじゃないの、弱いより強い方が良いに決まっているよ、何だって」
「へえ、わたしがさあ、モリモリ強くなって、力自慢、持久走自慢の乙女になっても驚かない?」
武志君、ジロジロわたしを眺める。
「お前さあ、そんなに強く成ったのか?この間の校庭1周、敦にだって負けてたじゃないか」
見られていたんだ、あの時。ま、みんな見てたけどね、ヤッパリ演劇部じゃなく体力増強部だったんだと思いながら。
「あ、あの時は真面目に走っていなかったんだ、良い役取りたい人だけが真面目に走ったの。大体ね、あっちゃんにわたしをサポートさせる為に入れって言ったんだって。なーんにもサポートになっていないのよねえ。それどころか、あっちゃん、大丈夫か常に気になって気になって,足引っぱってる状態なの」
「あ、それねえ、敦にはも少し人前でも堂々として欲しかったし、ま、大した体力作りには成らないだろうけど、帰宅部よりはまし、それにアンタもいればあいつも安心だろうと思ったんだ」
成程、こやつ、相変わらずの友達思い。それにわたしはまんまと利用されたって訳ね。ウーン悔しい!
「仕方が無い、友達思いの心に免じて今回は許して進ぜよう。ところでわたし、アンタに何の相談に着たんだっけ?」
「屈強の女にお前がなったとかなんとか」
「あ、そうじゃなくて、成ったらどう感じるかを聞きに来たんだっけ」
「だから良いと思うよ、お前が屈強に成れば敦も守ってやれる。ははは」
こりゃ話にならん、退散しよう。
そこで、睦美、美香、千鶴にも一応聞いてみることにした。
結果、皆揃って、わたしも屈強の女に成りたい、尊敬に値するとも言われた。それはそん所そこらの努力だけじゃ成れないからとも言われた。
なるほど、そん所そこらの努力では成れないのかあ、とするとわたしの母は絵以外でも尊敬されるべき存在なのだ。母にそのことを伝えると大笑いされた。
「お母さんは屈強と言うほど強くはないわ。一般の女性に毛が生えたくらいかな。真理ちゃんもお母さん程度には少し努力すればなれるわよ、どう?」
どうと聞かれても、校庭1周、腹筋20回で毎日手一杯のわたしにはとてもとても無理な話と言うものだ。
かくして、屈強とは程遠く、毛が生えた女性にも全くなれず今日も真理は演技に走り回って、疲れはて、一日が呉れてゆく。オー、何とむなしい人生であることよ。うん、わたし哲学者の娘ぽいかな?
「大分、良くなってきたわ。後もう少しよ、がんばりましょう。それから舞台は講堂、許可は取ってあるから、明日からは講堂で稽古。この部屋よりズーと広いから、初めは少し戸惑う事もあるかもしれないわね、特に1年生のみんなには」
みんなと言われても3人しかいないが、いよいよ講堂の上で演じるなんて、この今まで使われたものが山と詰まれた部室から広々とした、しかも一段高い所で演じるなんて、夢のようと思わないでもなっかったが、傍らの篠原女史ときたら、興奮し過ぎてわたしの手をぎゅうと握り締め、ガタガタ小刻みに震えているらしい。
流石にあのせせっこましい部室とは大違いだ、声もこのコロナ禍の世に憚るような大声を腹から出さねば成らないし、歩数も今までの倍は多い。ジャン!と言う事はわたしと3年の北風の戦いももっともっと、壮絶になる事間違いなし。
わたしの心配を他所に魔女役の先輩女史はここぞとばかり、舞台一杯跳ね回り、踊り回る。
水を得た魚とはこう言う事を言うんだと納得させられた。
「講堂って彼女の為にあるのねえ」と篠原女史はただただ感心するのみ。
「あなたも感心ばかりしてないで、カラスとストールの女を頑張って盛り上げたら」
「そうはしたいのだけど、カラスとストールの女でどうやって盛り上げるのよ。ストールの女の台詞がもう少し多いとか、カラスもダンスを踊るとか、そう云う見せ場があったらなあ」
恨めしそうに台本製作責任者であるわたしを見つめる。
「少ない台詞や、踊りがなくても、それなりに、お、こいつの芝居、自然で良いぞと思わせる演技、出来ると思うわよ。目立ちたがり屋ばかりでは、とんだドタバタ劇に成ってしまうわ。カラスも自然に、でも如何にもカラスって感じでやって欲しいわ」
「ふうん、自然に如何にもカラスって感じねえ。それ難しそう」
そこに後の2人も口を挟んできた。
「そうよねえ、あの人ばかりが脚光を浴びてるのは悔しいけど、カラスにはカラスの役目があるのよねえ、場つなぎとは言っても、秋のうら悲しさとか、家族思いとか。後からわたし達で良ーく考えて、と言うかカラスの行動パターンを調べてみましょうか?」
「賛成!今日これが終わったら、早速取り掛かりましょう」
良いぞ良いぞ、羨ましがるよりも、自分達の芸を磨こう。
終にわたしと大男の追い駆けっこの番が来る。
大きく深呼。、帽子を押さえ、マント(まだ着てはいないが)の前を押さえて前かがみに歩き出す。
「ううっ、寒い。北風に吹き飛ばされないように、気を付けて歩かなくちゃあ」
北風が何時ものように、?何時もの様子とチト違う、そう少しお草臥れのご様子。
まあ、良いだろう、やってやろうじゃないか、5分間ばかりの追い駆けっこ。
広い舞台だもん、走り概があるってもんだ。こう云う時こそ日ごろの鍛錬が役に立つ、校庭1周もコヤツとの毎日の追いかけの稽古も。
どたどた追いかける北風(何時もより足取りが重い)ひょいひょい逃げるわたし。でも少し最後には意気が上がって橋の方へ消え去った。
講堂での最初の稽古は、皆まずまずの出来だった。敵さんもまずまずのご様子。
「ハーイ、お疲れー。まだここの広さを生かしきってはいないけど、今日やって少しは感覚が掴めたと思うわ。この感覚を考慮して明日からの演技に磨きをかけてね。期待してるわ。今日はこれで終わりにしましょう」
わたしはすっかり疲れ切っていたので、即帰るつもりだったが、そうは問屋が卸さなかった。篠原女史に捕まってしまったのだ。
「舞台、見てたでしょ。わたしクタクタなの。山岡先生の大好きな言葉、エクゾーステッドの状態よ。早く家に帰って、大の字になりたいわ。お願いその手を離して」
「台本責任者として、カラスの生態観測に付き合うべしよ、絶対に!」
「そうよ、そうよ。付き合いなさい」
こ、これは先輩。と言う事は断れぬのか.憐れ、絶体絶命の真理であった。
「で、でもー、一体、何処に行けばカラスの生態観測が出来るのよ、いや出来ますか」
先輩2人、じろりとわたしを見やる。
「ここいらでカラスが集まる所と言えば、朝ならゴミ集積所だけど・・・」
「今の時間帯なら、そうだ、この間見たわ。あそこ!」
篠原女史が叫ぶ。やな予感
「島田さんの家から見えたわ、カラス。六色沼に行けばカラスが屹度いるわ」
良かった、六色沼で。これで皆を引き連れて島田家に行く事になったら、又母上に大迷惑をかけてしまう事に成る所だった。
曇り空の六色沼はそれでも緑が日頃の雨で洗われて、それはそれなりに美しく、空気は清らかな感じで、まばらながら散歩する人もいる。
「カラスいるかなあ?」
「鳩はいるみたいだけど・・」
「鳩がいるなら、何か食べ物になる物があるからでしょ。屹度そのうちカラスも来るわよ」
そんな訳でわたし達4人はそこいらをぶらぶらしながら待つ事にした。
しかしその時は直ぐ訪れた.1羽がバタバタと降りてきて、鳩に混じり地面に落ちている何やらを啄ばみ始めた。すると又1羽が降りてきて、同じように食べだした。気が付けば向こうの方にも2,3羽、啄ばんでいるようだ。
「餌を食べてるのは分かったけど、わたし達が知りたいのはどうやって飛んでいくのかよねえ」
「も少ししたら、飛んで行くんじゃないの。我慢、我慢」
1羽が満足したのか、餌がなくなったのかは不明だが、バタバタと飛び上がり直ぐ側の木に留まった。他のカラスもバラバラだがやがて地面から木の方に移動する。
「これからあいつ等どうするんだろう?」
4人の人間の女達を焦らしながら、カラス達は暫しその場で休憩するようだ。
「早く飛んでいく姿を見せてよお、出し惜しみしないでえ」
篠原女史が叫ぶ。彼女はなんに対しても強引だ。
だがその声に驚いたのか、それとも何かを発見したのかは定かではないけれど、1羽のカラスがかーかーと大きな鳴き声を立てたかと思うと、バタバタと飛び立った。するとその声に応ずるかのように少しのずれはあるものの飛び去っていく。
「みた?」
「見たけど、良く分からないなあ」
「分からなかったけど一つだけ言えるのは、カラスは鴈みたいに、いえ、渡り鳥みたいに一列になって飛んで行かないって事」とリーダー格の3年女子が断言した。
「そ、そうよねえ、渡り鳥みたいじゃないわ」2年女子。
「行き来する時、少しタイミングをずらしたり、高さも早さも場面で変えた方が雰囲気が出て、良いと思います。それにリーダーのカラスは大きな声で鳴いて、みんなに何かを知らせたり、命令したり・・・あ、済みません、出しゃばって申し訳ございません」
「ま、良いわ。あなたが台本責任者なんだから」3年女子何か言いたそうだったが、ここは我慢のし所とグッと堪えたようだ。
「じゃ、今日はここまでとして、明日、演技のことみんなで、3人でどうするか考えましょう」
ヤレヤレ、酷い目にあった。早く家に帰って疲れた体休めよう。母よ、憐れな目に合わされている可愛い一人娘を気の毒には感じないのか?
舞台が変っただけで、皆演技に熱を帯び,それぞれ工夫を重ね、厚味を出し、あるものは風格を帯び、あるものは可愛く、あるものは優雅に見えた。
カラスも前は本の場つなぎ的な存在だったが、3人のチームワークでカラスの情愛が短い出番でありながら良く演じられていた。
一人が良い演技をやれば、皆もそれに負けまいとする、それが役者魂と言うものだ(中学生だけどね)
敵先生はどう見てたか?
「ウーン、みんな夫々に良くやってると思うのよ。格段に旨くなったわ。初めのころと大違い、大違い過ぎて・・そうねえ、も少し肩の力を抜いて、相手に負けまい負けまいと云う力みが見え見えなのよ。もうちょっと他の人を引き立てて良いかなと云う気持ちを持って、演技して御覧なさい。あなた方自身には物足りないかも知れないけど、これは一人芝居じゃないのよ、みんなで一緒に演じる舞台なの」
ホホーウ、確かに少し皆過剰に演じた感あり。
わたしもアンマリ、ワーワー言ってドタバタ逃げ回るの止そうかな。男を演じるのだしドンと構えて,相手が来たらヒョイと逃げれば良いんだ。相手はわたしを突き飛ばすとは書いていないのだから。相手の体格に負けて必死で逃げていたけれど、本当は風。見えない風。ここは逃げないで避ける、避けて避けて避けまくる。大の男の相手がどう出るか?
3年男子川本君何時ものように正面からどどっと迫ってくる。何時もならぶつかる前で逃げ出すわたしだが、今日はひょいと肘を張ったまま横を向く。川本君に肘命中。
「うっ」川本君唸る。その隙にダダッと前に。痛さに堪えて又川本君わたしの前に立ちはだかる。わたしはさっと舞台の後方へ。その次は川本君の手の下を潜り抜ける。これを3,4回繰り返しウインクをして舞台から消える。
「まあ、前のよりどたばたが減って良いみたい」
敵さんの同意を何とか得られて、太陽もどうやら何とかパスしたようだ。
と言う訳で、全体的にややオーバー気味だったみんなのパフォーマンスも落ち着きを取り戻し,まあ偶には大袈裟に成ってしまう事もある。
日々の稽古も終盤に入る頃、梅雨は去り,途端に真夏に突入。
そして、やって来ましたよ、期末テストと言うものが。敵先生の厳しい応援なのか、命令なのか分からぬが、試験の方も、もではなく、試験の方がもっと大事、学ぶ者の本分なのだから絶対に手を抜かない、疎かにするべからずと、ありがたい(?)訓示を頂き体力増強演劇部は暫しのお開きとなった。
終わった終わった、期末が終われば心はもう夏休み。でもそれは部活のない生徒か、競技大会のない生徒の抱く甘き思い。
わたし達もその甘き思いに突入する前に一仕事。そう演劇発表の日が迫っているのだ。
日時はカレンダーでは海の日で祝日だが、それがオリンピックで日延べになったので、7月19日、午後3時開演。
コロナのため、保護者の観覧は禁止。生徒たちだけは間を空け、勿論マスク着けて見学。
見学するのを待ち望んでいた杉並のじっちゃん、ばっちゃんはとても残念がる事半端ないようす。だが、
安心するが良い、武志君にしっかりビデオを撮って置くように頼んであるから。勿論学校の方でも公式ビデオは録画するらしいが、武志君の方が少しはわたしを美人に撮ってくれるかもと期待しての事だった。「お前なあ、美人にと言っても、最初の役はアリンコ、次が帽子を目深に被って、マントを押さえ3年の大男から必死で逃げる役だろ、次は全く顔も見えない太陽だ。どうやって美人に撮るんだよう」
成程、仰せの通り。
「でもさあ、愛情もって撮れば、少しは凛々しくハンサムに見えるんじゃあないの」
「ふーん、そうかなー?誰が撮っても同じじゃん。健太が撮っても俺が撮っても」
「えっ、健太。やだよー、あいつが撮ったらわたし,猪みたいにきっと見えるわよ」
「ハハハ、それの方が迫力があって良いかも知れない」
ま、そこは何とかカメラマンの役を武志君が引き受けることになった。
いよいよだ。前日に舞台の背景、大道具、小道具揃え、衣装も着て初めて演じてみた。結構暑い。
一応、クーラーは入っているけど、広い、天井は高い、省エネもあって余りその効果は期待できないようだ。おまけにコロナの所為で窓は開いてる。しかも見物人もかなりの数あるし。
でも心は決まっている。帽子だろうがマントだろうがヘイチャラ、ストールだっていらしゃいてな物。アリンコもキリギリスも首から下は黒や緑の衣装。カラスは黒子の服装だ。
劇が始まる。
華やかな魔女の踊りと歌、次に続く盗作まがいの川の歌。余り揃っていないのが川って感じ。
熊の登場。何時もながら彼の演技には感心する。けして誇張はしてないが、如何にも強く堂々としてるかと思うと、最後は茶目っ気たっぷりに去って行きみんなの笑いを取った。
アリのコーラス、これはたとえ盗作まがいと言えど,アリの仕事ぶりに合わせるべく何回も練習し、とても盗作まがいとは思わせない(自画自賛)出来となっている。大きな荷物を背負ったり、抱えたりではチト辛い所ではあるが。
カラスも狐も誇張せず自然な感じに出来上がり、好感度。
いよいよ風さんとの戦いのシーン。先ずは篠原女史。これも目立ちたいのを必死で耐え、只、風にストールを飛ばされないように、よろめき歩く女を演じて見せた。
次は前なら心配したであろう敦君、そつなく来た風をよろけさせ、急いで女装して次の出番に備える。
アベックは女二人、息を合わせて、風に立ち向かい、大男の川本君を転ばすと拍手と笑いが起こる。
次が男3人による女3人組。「あら、北風よ」とか「ヤー、ネー」と言う言葉から男と分かり、これも拍手喝采。
いよいよわたしの番が回って来た。先ずは颯爽と行きたい所だが、帽子を目深に被って、左手で押さえ、マントを右手で押さえ、下を向き体をかがめて歩く。本当だこれじゃ美人も減ったくれもない。
しかし、チビのわたしが川本君を手玉にとって、あっちこっちと逃げ回り、最後に北風がへたり込み、わたしが帽子を取りウィンクして退場する場面では大喝采が起こった。
脚立係の松山君も嫌な顔もしないで旨く木の変化、落葉や若葉の付く様を頑張って如何にもそれらしくやってくれた。
そして何より、敦君が如何にも優しく、凛々しく、鶴を演じきったのだ。わたしはそれが何より嬉しくて心の中で喝采を送った。
が、その時わたしは何処に居たか?舞台も舞台、木や山などの掛かれた大道具の裏側に潜んでいた。何時もは舞台の袖で台詞を言っていたのに、敵さん、何を思ったか、裏側に回るように言い渡した。
「お日様よ。袖の方じゃ格好付かないわ。出来たら大道具の裏に回って・・・」
やーな予感。わたしは球恐怖症でもあるが、高所恐怖症でもあるのだ。
「そうね、出来るだけ高い所から台詞を言って御覧なさい。そうだもう一脚、脚立を松山君借りて来て、舞台の裏の真ん中辺りに立てて頂だい。そこの上から大きな声で、うんとおーきな声で、太陽みたいに厳かにしゃべるのよ」と今日になって言い出したのだ
お日様を木の上から覗かせるのは、変らず松山君。声はわたしの役目。顔真っ青けのわたしを救うべく、出番を終えた2年女子2人と篠原女史が脚立を抑えに駆けつける。
一段、又一段慎重に上ると言うより、よじ登る。鬼敵が来て
「もっと上って、4段位には上らなくちゃ駄目よ」
「わたし、高所恐怖症なんです」
「高所恐怖症のお日様なんて聞いた事ないわ。あなた、お日様なんでしょう」
敵さん天晴れ、その通り。
「でも、太陽は自分が基点だから、高いとか低いとかではなくて、アイツは自分より遠い、こいつは近いとか判断するんです」
おー、わたしも哲学者の娘だ。鬼に一矢報いたぞ、喜ぶが良いぞ、父上。
「ここは言い争っている場合ではないの,せめてもう1段上がって台詞を言って」
敵もここは折れたようだ、もう1段上がってみよう。
ううむ、目の前の大道具の絵が視線を遮っているので、さほど怖くはない。それに何より、一矢報いた事でスッキリした所為か、極めて気分が良い。ここは鍛え上げた腹筋(と言っても毎日20回だけどね)力の成果を見せてくれよう。
松山君とわたしの意気もぴったり合って(武志、焼くまいぞ)太陽が顔を覗かせると共に、講堂一杯にわたしの笑い声と厳かなる(自画自賛)声が響いた。
かくして体力増強演劇クラブの1回限りの講演は、多分大盛況の内に幕を閉じた。
ヤッホー、宿題は山程有るけど演劇部から開放されて、一応夏休みに入ったぞう。
何故一応なのかと言うと、中体連と言うものがこの世の中には存在するらしい。おおむねと言うか、殆ど、運動部に所属する者達の中学校対抗合戦の祭典だ。文化部にだけ属する者には関係ないように思われるが、そうは行かないのがこの世の定め。応援と言うものが存在するのだ。 しかし今はコロナのはびこる時代。しかも正にこのマガタマ市も患者が急増している。でも何故か,街に出没する人の波は、コロナを忘れたような多さだ。これじゃ患者が増えないのが不思議なくらいだ。
と言う訳で、応援は本人の選択に任された。
まあ、スポーツと言うものをそれ程好きではない真理としては、応援と言えどもパスしたいところだ。
一応、色んな人に聴いてみよう。
先ずは両親から。帰って来た返事は「真理の好きにしたら。それが一番」聴いて損した。
次に杉並の祖父母にテルした。祖父母はわたしの劇のビデオを楽しみにしてると言うばかりで、中体連の話さえ耳に届いていないようだ。
では、最後の砦、イザナギ区のばっちゃんに聴いてみよう。
ばっちゃんは「そうねえ、応援したい人が居たら是非行かなきゃね、わたし達の頃は学校から勝手に割振りされて、わたしは夏の炎天下、野球の応援に借り出されたっけ」と切り出した。
その頃はまだ熱射病の怖さも紫外線の怖さもそれ程知らされていず、帽子も被らず(太陽は浴びれば浴びるほど健康に良いと言う思い込み)水筒も持たず(その頃はペットボトルも自販機もない時代)、友人とそれはそれは弱-い母校の応援に言ったそうな。
相手校が強かったのかどうかスポーツ音痴のばっちゃんが知る由もないが、ばっちゃんチームの攻撃は直ぐ三振取られてあっという間に終わる。相手チームの攻撃だ。出るバッター、出るバッター,打つわ打つわ、ボカスカ打たれて止まる所なし。じりじり真夏の太陽が照りつける。一回に何点取られたかは覚えていない。いや思い出したくもないのだろう。
「20点以上取られたのかも知れないわね。相手校もこっちも応援団はもう熱射病寸前、罹っていた
人も居たかも知れないわあ。勿論わたし達もふらふら、水が飲みたくて、飲みたくて堪らない。でも試合は続く。こりゃー弱すぎると相手も少しは手加減してくれたのか2回、3回は6,7点で済んだみたい。朝10時ぐらいに始まった試合が0時になっても1時になっても終わらない。やっと2時近くになって5回コールド負けて事になったけど、もっと早く誰かが、内のチームの監督か誰かが負けを認めて止めるべきだったのよ。あの時一人も死者が出なかったのが今考えてみれば不思議に思われるわ。それからよ、野球というものが大っ嫌いになったのわ。ま、今はそれも少しは薄れてはいるけどね」
ばっちゃんの苦難の話しはまだあったけど、その後熱中症で犠牲に成る人も大勢現れやっとみんなに認識され、生徒の人権も叫ばれて時代は進化した。でも、応援に行く事はコロナ下でなければ、大いに推奨され、増してや友達が出場するとなれば尚更だ。
では、わたしは応援をしたいのか?中学生にとっては友情が一番。その友が出ると成ればコリャ応援せざるを得ない。では、誰を応援しに行くかが問題だ。睦美(健太様もご一緒)美香、千鶴、誰にしようかな。うん?そうだ、武志君の存在をすっかり忘れていたぞ、妹的存在ならばこりゃ行かねば成らないだろう。
ま、片っ端から電話して聞いてみよう。
先ずは睦美から
「え、応援?1年は試合には余程じゃないと出られないの。それに暑いし、健太様の応援ならわたしだけで十分。大体アンタには健太様を応援する気は毛頭ないでしょうし」と言う返事。
そりゃそうだ。と言う訳で次に美香の番。
「わたしの応援、何の応援?バレーボール?わたし1年よ,勿論わたし自身は行って応援しなくちゃいけないけど、あなたはお呼びでないわよ」
ふーん、じゃあ次の千鶴も同じだろう、まあ、声賭けぐらいはしなくちゃ悪いよね。
「ワアー、応援に来てくれるの、嬉しいなー」
こ、これは思わぬ反応。
「で、でも、わたし・・・補欠なんだ。レギュラーの誰かが調子悪い時しか、声かかんないだ。だから嬉しいけど、今年は遠慮しとくね」
でも、今まで聞いた中では、千鶴が一番レギュラーに近い、つまり才能が一番あるって事だな。ふーん、人は見かけによらないんだ、あの大人しそうな千鶴がねえ。
と言う訳で、残るは武志氏くんだけと成った。
「ね、ねえ。武志君。あなたさあ、今度の中体連の試合、出るの?」
先ずは選手に選ばれているのかどうか確かめなくちゃいけない。出ても居ないのに応援なんて有り得ないじゃないか。
「えー、中体連?バスケの?それ聞いて如何すんの?バスケの中に好きな男でも居るのか?」
「何言ってんのよ。中体連、せっかっくだから、知ってる人を応援しようと電話してみたんだけれど、補欠が一人で後は応援組みなんですって・・・若しかして武志君も応援組だったりして」
「失礼だなあー、チャンと出てるよ、レギュラーだよ」
「本当、見栄じゃないよねえ。篠原女史も一緒に行くから、恥じかかせないでね」
「お前が恥じかくかどうかは知ったこっちゃないけど、チャンと出てるよ、チャンとね」
「そう、これで決まったわ、バスケの応援に行くわね。でもあなたのバスケ部むちゃくちゃ弱い?」
「重ね重ね失礼な奴だなあ、むちゃくちゃ強くはないけどそこそこ強いって、所なんだぞ」
「アー良かった。うん?これ野球じゃないから、炎天下に何時間もって事はないんだ」
「お前何言ってんだ、バスケと野球の区別もつかないのか?」
そこで悲惨なるばっちゃんの思い出、永遠に終わらない、炎天下の野球応援の話をしてやった。
「誰も文句を言わなかったのか?」
「昔は根性の世界で、それに生徒からそんな事を言い出す事が出来なっかたんですって」
「根性の世界か、今でもありそうな話だな」
「今だったら生徒は言わなくても、保護者の誰かが言うでしょう」
「ま、それはそうだな。教育委員会のお偉いさんが出てきて『以後気を付けます』何て頭を下げてるのをテレビで何度も見たことあるような」
「じゃあ決まり。バスケの応援、篠原女史と行くね。ねえ、少しは嬉しい、美女2人の応援」
「馬鹿だなあ、バスケの応援は女が、何時もだったら大勢来るんだぜ。特に沢口目当ての女が一杯」
「誰、その沢口って子?」
「俺と同級。背が高くってさあ、モチ、バスケは図抜けて上手い。残念ながら俺より少しばかり好い男でさあ、勉強もこれが出来るんだな」
「へーそんなマルチ人間、我が校にも居たの」
「あ、そいつ、お前の事気にしてたぜ。この間の劇の台本書いたのがお前だって言ったら、会って見たいって。顔はー,アリンコと男の旅人だろう、判んないよなー、あれじゃあ」
ゲゲゲ、わたしを気にしている子が居る、バスケ上手い、背が高い(お父さんよりは低いだろう)武志君より少し好い男(しかし男の目は信用ならん)頭も良さそう、応援にこんなオマケが付いてくるなんて。真理も人の子、しかも多感な中学生だよ、うん、これは嬉しい、でも篠原女史には絶対に秘密、金庫に仕舞って置かなくちゃあ。
翌日、篠原女史に電話した。モチ沢口君とか言う人物nの話は抜きで。
「あなたが興味あるかないかは知らないけど、何時も世話に成ってる隣の藤井武志君のバスケの応援に行く事に決めたから、好い?」
「ええっ、バスケの。あの沢口選手の居るバスケの応援なの?ワー、行く行く。わたし、彼大好きなの」
「あなた、沢口さんとお知り合いなの」
「何言ってるのよ、若し、お知り合いだったら、あなたに誘われなくても、行くに決まってるでしょう」ふーん、彼女も武志君が言う所の大勢の女の中の一人なのか。
「そんなに沢口さんて有名なの?」
「あなたは文学に興味があるけど,その他の事には疎いのねえ。もっと視野を広げなくちゃ、良い文学者にはなれないわよ」
「わたしは文学者じゃなくて、詩人か短歌やりたい。わたしの母方の曾祖母ちゃんの叔父さんは長崎ではほんの少し、有名な歌人だったらしいけど」
「本の少しの有名歌人ぐらいでは食べていけないわよ、有名な作家とか文学者じゃなきゃ駄目よ。それにはもっともっと目を見開いて、世間を見渡しなさい」
「ウーン、ありがとう。も少し世間がどうなってるか良く見渡して歩いて行く事にするわ」
試合はマガタマ市の中学校だけ(と言ってもとても広くて数も多い)の対抗で行われる。場所は大きな設備の整った体育館等は同じ時に行われる高体連に使われるので、設備の一応ある中学校で行われる事が殆どだ。
世の中コロナも有るけど、東京ではオリンピックも開かれる。隣である勾玉県も色んな競技が予定されているらしい(何しろわたしは世間にも疎いがスポーツに関してはもっと疎いので、ここは、らしいに留め置く)そんな騒がしい中、うきうき上機嫌の篠原女史と一緒に電車とバスを乗り継いで、競技会場のある中学校にやって来た。何処の中学校も同じで応援する人数も制限されているらしい。でも、その沢口人気の為か,女子の数が圧倒的に多い。
成程、これじゃわたし達2人の女の応援なんて、有って無きがごとしだよう、武志君。
「あ、あれが藤井君なの?こっち見てる、あなたに気付いたみたい。そ、それに沢口君もこっち見て何か言ってるみたい」
一人で興奮しまくる篠原女史。
「彼、この間の劇を見て少し興味を持ったらしいの」
仕方なく金庫にしまった話の一部を披露する。
「ええー本当。ワー嬉しい!沢口君に見てもらえたなんて、夢みたい」
試合が始まる。予め武志君に大まかなルールや得点の入り方は教わってきた。
武志君が背が高くなりたいと言う気持ちが良く分かった。背が高い方が断然有利だもの、アンフェアな競技だ。でもなんだってアンフェアと言えばそうかも知れない。生まれた時から死ぬまで人は不平等の世界でもがいてもがいて、生きて行くんだ。でもこれほど目に見えてアンフェアなものも珍しい。だが、その背高のっぽの男達の中で、あの武志君が点数を入れた、シュートを決めた、1度ならず3度もだ。嬉しくて少し涙が出た。沢口君は5回も決めた。我が校が勝ったのだ.
負けた所は、すごすご帰る(若しかしたら、即夏休みとさばさばした気持ちで帰っていくのか知らん)
わたしは藤井夫人に頼まれたお弁当を届けるべく彼の元へ。勿論篠原女史もうきうきしながら付いて来たことは言うまでもない。
「はい、お母さんからの託物、お弁当。それにこれは、内の母からの差し入れ。みんなで食べてね」
「ありがとう。おばさんにもお礼、言っといて」
「じゃねえ、昼からも応援するわ」みんながじろじろ見ているのでさっさと帰ろうとした。
篠原女史がわたしの横を突っつく。武志君の横に背の高い武志君より少しだけハンサムな男がにこやかに立っている。
「君が島田さん、あの劇の台本を書いた人?」
「ええ、まあ。でも大したものではありません。題材はイソップって決まっていたし・・・」
「だから素晴しいんですよ、な、藤井」
「うん、まあな。ああいうの書くの、こいつの趣味みたいなもんだから。若し応援、飽きたら帰っても良いよ。アンマリお前の興味、引かないだろう?」
「ううん、結構面白いよ。それに篠原さんも応援したいんだって」
ここぞとばかり篠原女史、乗り出して来た。
「ええ、わたし、バスケット大好きなんです。みんな大活躍で、わくわくしっ放し」
「彼女も体,いえ演劇部で、この間はアリとカラスと北風と戦う初めの女性を演じました」
ここは彼女を紹介して置かなくちゃ、後から恨まれる事に成りかねない。
「そうですか、アリのコーラスも面白かったし、カラスの雰囲気も良かったな」
「あ、あれは、カラスの生態を調べに六色沼まで出かけて行きました、島田さんも一緒に」
武志君が目配せしたのに気付いた。
「わたし達も向こうでお昼にしますので。皆さんもお昼ご飯しっかり食べて、次のゲームも頑張ってくださいね、応援してます」
まだ話したがる篠原女史を今日はわたしが引きずるようにして元の席へと戻った。
次の試合も勝って、今日はここまで。
「ねえ、帰り一緒に戻らないの?」と篠原女史
「勿論一緒に帰りましょう」
「違うわよ、彼とよ」
「ええっ、彼とですって。冗談でしょう、彼はバスケの仲間と帰るのよ、わたし達はお邪魔虫」
「そ、そうかな?多分彼もあなたと帰りたいと思っているわよ」
「あなたは沢口選手と帰りたくってそんな事言ってるんでしょうが、駄目駄目、さあ、早く引き上げましょう。そうしないとバスが込む事になるから」
未練たっぷりの篠原女史をせかせて、バス停に急ぐ。バスは直ぐ来て、乗客もそれ程ではなく乗れた。
「屹度、他の子達は彼を待っていると思うわ。彼と同じバスに乗って、同じ電車に乗って帰る積りよ」
「へえー、そんなに武志君が持ててるなんて知らなかった」
「違う違う、あんたの武志君じゃない、沢口さんの事よ。分かっているくせに」
「分かった、善処しましょう。何て政治家みたいな事言うけどさあ、この夏休み、コロナ次第でどうなるかは分からないけど、彼も含めて何かイベント計画してみましょう。武志君に相談してみるわ」
「きゃー、ほ、本と?嬉しいー」
「だから、コロナ次第って言ってるでしょう。去年も何処にも行けなかったし、若し行けなくてもわたしでなく、コロナを恨んでね」
電車に乗り換え。でも如何した事か電車が来ない。何処かで人身事故が有ったらしい。1時間ばかり待たされる事になった。
当然、バスケの連中も所謂他の応援の連中も駅のホームに溢れ出す。
「ワー、困ったわね、次の電車、ギュウギュウ詰めだわ」うんざりしてわたしが叫ぶ。
「き、来たわよ,来た」
「え、電車来たの。思ったより早かったのね」
「馬鹿ねえ、彼よ彼。アッ、彼気付いたみたい」
見ると武志君がこっちを見てる。勿論横には彼女が言う所の彼、沢口君が居て,わたし達の方に手を上げて近づいて来た。
「お前ら、先に帰ったんじゃないのか?」武志君が聞く。
「帰りたかったんだけど、人身事故で足止めされちゃたんじゃないの、お互い様よ」
見れば2人とも荷物が一杯だ。
「重そうね、持って上げたいけど・・」
「服が汚れるって思ってんだろう。いいよ、心配後無用。何時もの事さ、平気平気、なあ沢口」
「1年の時はもっと持たされたもんな。ほらあいつ等1年、持ってるだろう、もっと一杯」
「あら、今まで気付かなかったけど、同じクラスの相川君と鈴村君だわ。彼等もバスケットクラブだったのね」
彼等もやって来た。
「僕達の応援に来てくれたとばかり思っていたのに、沢口先輩の応援だったんだ、そうだと思った」
「違うわよ、わたしはお隣の藤井武志君の応援にやって来たの、篠原さんはそうかも知れないけど」
「わ、わたしは島田さんのお供として来ただけよ、感違いしないで」
にぎやかなおしゃべり合戦の中、ようやくお待ちかねの電車がやって来た。
敵も味方もなく、女男、老若関係なくドドッと電車になだれ込む。酷いものだ。せめてクーラーが効いているのが何よりありがたい。おしゃべりしたいのは誰しも同じだが、ここのところコロナが爆発的に増えているので、電車内では皆押し黙っている。電車は月見駅で降りた。ヤレヤレだ。後は皆バラバラに夫々の自宅に向かうバスに乗って帰るだけ。
2日後にもゲームがあったが、コロナの所為で応援に行くのは禁止された。
どうやらそれにも勝って、いよいよ決勝戦らしかったが、これも勿論応援できなかった。
結果は?ウーン残念ながら駄目だったらしい。
「でもさ、わたし、感動したんだよ。あんたがあんな大きい男達を敵に回してさ、必死で逃げて隙を突いてシュートしてたの見てたら、恥ずかしいけど何か涙出て来て」
「ふーん、スポーツ音痴のお前がね・・・。でもありがとう、これから競技する時、思い出して頑張る事にしようかな」
「美香や千鶴にもこのこと話したら、2人とも感動して、今まで以上に武志君のこと尊敬するって言ってたよ。ま、睦美にも話したけど、てんで聞いてないの、わたしの話。あの人は健太オンリーだから。どこが良いのやら」
「ハハハ、お前、大袈裟だからな、話半分って思ったんじゃないの」
「あ、それ、にっくき山岡先生にも言われたなあ、わたしってそんなにおおげさ?」
「まあな、でもそこが良いとこなんじゃないのかな、文学やるんだったら」
「文学ねえ・・文学者じゃないのよ,詩や短歌、俳句でも良いの、それを作りながら日本中を歩き回ってそれで・・・そのまま行き倒れてこの世からおさらばするのが理想かな」
「ヘンな理想だなあ。おじさんもおばさんもそんな事言ったら泣くぞ。何処からそんな考え生まれたんだ?」
「別に。そんな人生って素敵だろうな、自由で、色んな素晴しい景色に出会えて、良い歌作れて。でもそう云う風には生きられないって分かっているんだ、屹度普通に大学出て、何処かに就職して・・ハハハ、
まだ分かんないよね、先の事なんて。わたしの大叔父さんも若い時は作家に成りたかったんだって。でもさ大学出て、大手の証券会社に就職して、定年になったら、田舎に家建ててハーモニカ吹いて暮らしてるの。ばっちゃんがもう小説書かないのか聞いても、え、小説?そんなもん書かないよって、全く興味示さないんですって」
「若い時の夢って世間に揉まれて行く内に変って行くのかもな」
「それで思い出した。じっちゃんはね、船乗りに成りたかったんだって。山無し県の勾玉に生まれて育ったじっちゃんが船長に成りたかったなんてね。そこでばっちゃんはじっちゃんにせめて小さなヨットでもと一時、考えた事も有ったらしいわ。でも海は無いわ、大きな湖も無い所じゃどうしようもない。玩具のリモコンで動く船を六色沼で浮かべるしかないわね。今は歩くことさえ儘成らぬ身だけど」
「内の両親は如何なんだろう。今度聞いてみよう」
「そう云えば、この頃おばさん、何だか凄く嬉しそう。日本がオリンピックでバカバカ金メダル取ってる所為かな」
「ああ、あれね、あれは・・ほら俺んち藤井だろ、それでお袋、将棋の藤井聡太を応援してるんだ。そりゃ、猛烈に。自分の息子みたいに。彼この所、勝って勝って勝ちまくっているからさ」
「そう、おばさん、将棋出来るんだ。尊敬しちゃうな、おばさんの事」
「とんでもない、全然出来ないよ。でもさ、見てる内に段々分かってきたらしいよ。親父捕まえて2人でああだこうだって議論してるよ」
家に戻って聞いてみた。
「ねえ、隣の藤井さんちのおばさん、将棋出来るって知ってた?」
「え、聡太君のファンだとは聞いていたけれど、将棋出来るとは聞いていないわ」
「ええっと、出来るとこまでは行っていないけど、おじさんと将棋で議論できるとこまで解っているらしいよ」
「わあ、凄い。わたしも暇なら解る所まで成りたいわ。わたしの父も、あなたのお父さんだって少しは指すんですもの」
「へえ、じゃ、おばあちゃんは?」
早速電話してみた。イザナギのね。
「え、将棋?なあに今度は将棋クラブに入るの」
「そうじゃなくて、じっちゃんは指すって聞いたから、ばっちゃんは如何かなって思って。隣のおばさん、苗字が同じだからって聡太君の熱烈なファンで、お陰で将棋の事、良く解るようになったと聞いたから」
「ふーん、そうか。でもじっちゃんも興味は有るけど、テレビの中継を見てるだけだし、碁盤や碁石は有るけど将棋の方は何にも無いわ。あ、アンタの叔父さんが何かちゃちな玩具の将棋の道具持ってるって言ってる。そんな訳だから、ばっちゃんが指せる筈が無い。でもさ、藤井聡太君てさ、頭良いだけじゃなく、可愛くってとても性格良くって応援したくなるわよ。この頃はすっかり凛々しくなって来たわ。例え苗字が同じじゃなくても勝って欲しいわ。実はわたしもこの頃パソコンで時々見てるけど、将棋の事、指せはしないけど解るようになって、とても面白いと思うように成ったの、ハハハ。わたしにも漢方でお世話に成った人に藤井って言う人が居て、製薬会社の学術部門の部長さん、全国の取り扱っている漢方薬店回って、漢方相談を引き受けていらしてたの。その方が足が腫れて通風になっていらして、部長、も少しお酒や料理に気を付けられた方がいいですよ、と言った所、地方の先生方が良く来てくださったと歓迎して下さるのを無下に断る事はとても出来ませんよと、おしゃっていらしたけど、ちょっぴり哀しげでも有ったなあ。それから20年位後、今から5,6年前だったかしら、漢方の大会でお姿をお見かけしたところ、杖を突きビッコひいてらして、あー、通風が酷くなられたんだと思ったの。本当は癌だったんだって話だけど。わたし、最初の頃は彼の指導を受けていたけれど、その後高名な先生方について勉強していたから、屹度彼も寂しく感じていらしゃるに違いないと思って『部長今まで、色々な先生に付いて漢方を習って来ましたが、でも、何と言っても、わたしの漢方の原点は部長の教えて下さったものの中にあります。本当にありがとうございました、感謝してます』とお礼を述べたのよ。彼は『イヤー河原崎先生、そんなにおしゃって下さってこちらこそありがたいですよ』と言い、それはそれは嬉しそうに微笑んで下さったの。それから直ぐに彼は亡くなられたとか、でも会社からは何の連絡も無くて、2,3年後に彼と親しかった友人に聞いて吃驚。あんなに会社や取引のお店の為尽くしてくださった方の訃報を会社関係でなく、漢方の店仲間からしか報せて貰えないなんて今でも納得できないわ。でもわたしが最後にお礼を言ったらとても嬉しそうだったって言ったら、友人は『言ってくれてありがとう。彼、亡くなる前に、少し意固地な会員の人とトラブルがあって気落ちしてたから、あなたにそう言って貰えて、とても心安らかに旅立っていけたと思う』と言う話は、あなたには関係なっかったわね」
ふむむ、ま、人生色々、お礼は早めに言わなくちゃだめってことね。
それにしても、藤井聡太効果恐るべし。では、パじゃない父上は如何だ?早速聴いてみよう。
「真理が将棋に興味持つように成ったのか?それじゃパ、おほん、父さんとやってみないか、父さん、そんなに上手くないけど、駒の動かし方くらいなら中学位までやってたから、解るぞ」
父は押入をゴソゴソしていたかと思うと、何やら板と袋を引っ張り出した。
「これが将棋盤で、こっちが駒。嬉しいな真理と将棋をさせるなんて」
「ちょと、わたし将棋させるなんて言ってないわよ。ただお父さんが将棋、指せるのか聞いただけ」
「まあ良いじゃないか、教えて上げるからやってみようよ、面白いよ。母さんは絵を描くので忙しいだろう、相手が居なくて寂しかったんだ。真理が感心を持ってくれて嬉しいよ」
こ、これは、とんでもない方向へ話が逸れてしまったぞ。でも父上の今までに見た事もないようなニコニコ顔を見せ付けられては、今更後には引けない。仕方が無い少しだけ相手をしてあげようか?
と言う訳で飛んだ夏休みに成ってしまった。父を失望させたくない孝行娘は、父の居ない日中、必死で将棋のお勉強。大体外はコロナ感染が爆発的に広がっていて、緊急非常事態宣言が出され、外出禁止だし、オリンピックも元々スポーツ嫌いだから、まあメダル取ったというニュースは人並みに嬉しいけどさほど関心がない。よって詩作や、読書、山程の宿題の他する事ないから,父の慶ぶ顔の為、頑張ります。
そこに篠原女史から電話が掛かってきた。
「ねえ、この間言ってたイベントはどうなったの?」
「何イベントですって。なにそれ」確かに言った覚えは有る。だがここはすっ呆けよう。
「バスケの応援の帰り、あなたが約束したイベントよ。沢口さんを交えたイベント」
「沢口さんを交えた?それは言ってないと思う、単にイベントを考えると言ったと思う」
「ううん、あの時、沢口さん抜きでのイベントは考えられませーん。わたし、沢口さんにもう一度、会いたいな」
相変わらずの強引さだ、強引コンテストがあれば是非出場して欲しい。
「ねえ、今さあ、非常事態宣言が出されてんのよ、イベント出来る訳が無い」
「そこをさあ、あんたの知恵で何とかやってよ。外出禁止と言っても、街には若者や子供を連れた親子がゾロゾロ溢れてんのよ。わたし等だけが生真面目に守っているなんて・・・」
「ふーん、わたし等だけか。わたし等だけでもって発想にはならないのね」
「成らないわよ。約束は約束よ、何とかして頂だい」
「ねえ、あなた、将棋やらない?碁でも良いけど」
「将棋?解らないわ。出来るとしたら五目並べぐらいね」
「沢口さんと交渉次第だけど、如何沢口さんと五目並べって」
「ええっ、沢口さんと二人で五目並べですって。も、勿論よ、喜んでやらせて頂きます」
沢口さんとの交渉は武志君に任せる。
碁石と碁盤も武志君の父上のものをお借りする事に。もう二組は美香と敦君の家の物を借用させて貰うことに。
場所は母と交渉の結果、我が家のリビング。武志君と篠原女史3人でなるべく広く使えるように片付けと掃除。千鶴は参加できないけど、惣菜(天麩羅やフライ、サラダ)の差し入れしてくれると言う。
睦美と健太様には申し訳ないけど今回はパスして貰うことに。よって、参加人員は6人と言う事に。
一応イベントの開催タイトルは「祝バスケ中体連準優勝」と言う立派なもの?
それにしてはバスケ部員2人、体力増強演劇部三人と言うのがねえ、と言ったら
「じゃあ、プラス演劇部舞台好演終了を入れたら良いじゃないか」と武志君に言われた。
まあ、そんな事はどうでも良い、本当の事言うと、比企郡に有るとか言う清流の流れる川と森のキャンプ場に是非みんなで行きたいと密かに考え、案を練っていたのだ。
それがコロナの患者数がどんどん増えて、断念せざるを得ない状態に追い込まれ、今回の模様し物でお茶を濁す形と成ったのだ。
でも、これを知ったらあの強引の塊みたいな篠原女史が「絶対、行く」と言い張るに違いない。
敦君と美香が来る。敦君が碁石と碁盤の入った袋を2つ持ち、美香はスーパーで買ったお菓子類を携えてきた。
「あら、今日は少し広いみたい、片付けたの?」
「武志君が邪魔なテーブルや椅子を、母のお絵描き部屋にとりあえず入れてくれたのよ」
敦君から袋を受け取り、碁盤を間を空けて並べる。碁石もセット。
篠原女史のお待ちかね沢口君も到着。飲み物を持って来てくれる。
これで全ては揃った。軽い自己紹介等も終わりいよいよ五目並べの戦いの火蓋は切られた、と言う所だがそうは行かない、先ずは飲み物(母が冷蔵庫に用意してくれていたサイダー)で乾杯。
挨拶をしろと言う事で立ち上がった。
「えー、夏のイベントを催すようにとチラホラと言われまして、清流流れる素晴しいキャンプ場があるとの情報を得ましてあれやこれや計画を立てていました所、コロナの非常事態宣言が出て」
ここまで来て、案の定篠原女史からブーイング。
「そんな話,聞いていないわよ。少人数ならキャンプぐらい平気よう、今からでも計画練り直したら」
「えー、若し、キャンプに出かけるとすればこんな小人数では済まないもので、ここは残念ながら、篠原さんには諦めてもらいましょう。よって本日は親睦会をかねてバスケット部と演劇部、バレー部の活躍を祝する、五目並べ大会を開きたいと思います」篠原女史を除いて皆が拍手する。
「サー、一回目は篠原さんに御機嫌を治してもらうべく、篠原対沢口選手,美香対武志選手、真理対敦選手と言う事に決定しました」
そのからも色んな蜘蛛あわせで勝負してみたが、敦君が一番強いと言う事が分かった。
まあ、みんなも飽きてきたのでゲームは終わりにして、後は楽しいお食事会。
丁度その時、玄関のチャイム。千鶴だ。千鶴の差し入れに、皆嬉しそう。少しの間なら大丈夫と言うので千鶴を交えてワイワイガヤガヤ、やりたい所だが、ここも静かに差し入れの惣菜や菓子、飲み物をひそひそ話しながら楽しく、美味しく頂いた。暫くして店の手伝いの為千鶴は帰って行った。ばっちゃんの話を思い出して、ここはお家の方々にお礼を言って頂だいと一言添えた。
「このフライや天麩羅、凄く美味しいよ。さっきの子が持ってきてくれたけど、自分で創れないよな、どうしたの?」沢口君が聞く。
「あ、彼女の家が総菜屋をやってて、そこからの差し入れ。名前は千鶴て言うんだけど、家の手伝いで中々遊びに出かけられないんだ」
「千鶴ちゃんのお店、とても評判が良くて忙しいの」
「そうか、とても美味しいよ、俺が感心してたって伝えてくれないかな。お袋に教えてあげよう」
「村上惣菜店、忘れるなよ」
みんなで食べれば何でも美味しい、特にわたしを始め、篠原女史、武志君も碌にお昼を食べていない、母が出かける前に作ってくれたお握りだけだから、そりゃあ美味しく頂かせてもらった。
「ねえ、少しは満足して貰えたかな?」
こっそりと篠原女史に聞いてみた。
「そうね、キャンプにはまだ未練は残っているけど、これだけ長い間沢口さんの側に居られたし、顔や表情を見ていられたんだから満足したと言わなきゃ罰が当たるわねえ」
彼女は沢口君に聞こえないように、もっと小さい声で答える。
と言う事は、このイベント成功したのではないのか?
夕方近くなり、会も終わりを告げる。
「今日は楽しかったよ。それにご馳走にもなったし・・でも一番良いなって思った事は、君たちの友情かな。羨ましいくらいだ。若し良かったらその中に俺も加えさせてもらえないかな」
「わたしもー」篠原女史も負けず続ける。
「勿論大歓迎よ、只我儘のごり押しは勘弁して欲しいわ」
「わたし、我儘なんて言わないわよ」篠原女史
みんなが笑う。
「わたし、何か我儘言ったっけ」みんな、もっと大笑い。
「まあ良いわ、お部屋を元の状態に戻しましょう」
部屋は元通りに成りいよいよ帰り支度。
「あ、夕陽が綺麗。明日も屹度暑くなるわ」美香が窓から覗いて呟く。
「本当だ。ここからの景色めちゃ綺麗だな。羨ましいよ、島田さんも武志も」
「俺んちだったら、何時だって遊びに来て良いんだぜ、真理だったら呼べば何時だって来るしさあ」
沢口君が恥ずかしそうに下を向く。背が高いので効果なしだが。
「え、ええっ、沢口さんが島田さんを。そうか何かトントン拍子に沢口さんとお近づきに成れたなとは感じていたのよ。で、でも、待って、島田さんにはこの藤井武志さんと言う人が居るのよ。彼自身はどうすんのよ?」
篠原女史が口を尖んがらせて叫ぶ。
ウーン、これはややこしくなって来たぞ。でもわたし達はまだまだ中学生なんだ、そう目くじら立てるべき問題かな。
「あのねえ、わたしと武志君とは幼馴染でしかも一人っ子同士でお隣同士、まあ兄妹みたいなもので、それ以上でも以下でもないの、みんなは誤解しているようだからここではっきり言わせて貰うわ。それにこの先、色んな事が起きて、色んな人と巡り会って行くと思うの。だから、その巡り会いを感謝し、大切にする事で自分と言うものを見つめ、育てて行きたいの。今は今を大切にね、先のことは分からないんだから」
「まあ良く分からないけど、要するに島田さんは藤井さんとも沢口さんとも付き合っていくと言う事ね」
「友達としてね。あ、それから、ここから六色沼を見ててアイデアが浮かんできたのよ。ねえ、8月の終わりぐらいに、お弁当と飲み物持ってこの六色沼に集まらない?」
「又何かイベントやるの」美香が尋ねる。
「日頃お世話に成っている沼にお礼。ゴミ広いのボランテイアをしたら如何かなって」
「そりゃ良いよ、大賛成だ、なあ武志」
「うん、俺もそう考えない事も無かったし」
美香も敦君も、何とか御機嫌の直った篠原女史も賛成してくれた。
「ぼ、僕さ、友達連れて来ても良い?」敦君が珍しく口を開く。
「この間の劇を見て、入りたいって言うのが居るんだ」
「うわー、嬉しい。男子の入部大歓迎よ。も少し男子部員欲しいわよねえ篠原さん」
「も、勿論よ。一緒に走りましょう運動場、ハハハ」
「それに今度は睦美と健太様、千鶴も来るし、後二,三人電話してみるわ」
その日の話はまとまった。
山程の宿題を片付けつつ、父親孝行の為将棋の勉強もし、ボランテイアへのお誘いの電話もして、楽しかるべき夏休みが過ぎて行く。うむむ、少し虚しい!
何処か行きたい。遠くでなくて良い。心を満たす森とせせらぎがあれば屹度たしの精神に安らぎが訪れる。でも近場で森がある?せせらぎがある?心当たりがない。武志君に聴いてみよう。
「俺もさあ、何処か行きたいと思ってんだけど、人が少なくて、楽しくって、お前の要望を満たす所って考え付かないよ。近場で人が居ないとこはあるけどさ」
「何処何処、心洗われる?」
「心洗われるかどうかは知らないけど、今コロナ下で運動部の練習が禁止されてる、カンカン照りの学校の運動場!ハハハ」
「もう、心洗われる所か熱中症で意識無くなちゃうわよ。うーん、名栗川って近いのかな、小さい頃にイザナギのじっちゃん、ばっちゃんに連れて行ってもらったことあるけど」
「車があればそうは掛からないと思うけど、俺、自動車もないし、運転も出来ない。へへへ」
「当たり前でしょ。イザナギの方は今じっちゃんが倒れてから、それ所じゃないし・・」
「そうだ、沢口の所だったら車あるし、頼んでみようよ」
「えー沢口君、良いのかな、そんなこと頼んで」
「アイツも何処かに行きたがっているに違いないんだ。頼んでみようよ」
「うーん、そうね、じゃあ、美香も一緒という事で」
話は簡単に決まった。8月11日、早朝、沢口君のお母さんの運転で名栗川に出発。
美香もうきうき、わたしもうきうき、武志君も沢口君もそれなりに楽しそう。つまり皆何処かに遊びに行きたくてうずうずしていたのだ。ついでに何故か沢口君のお母さんも嬉しそう。背も高くて中々の美人だ。前日に話し合いの末決めた費用の頭割金を(大した費用ではないが)渡して
「今日は忙しい所、ありがとうございます。ご迷惑に成らないようになるべく気をつけます」と
母から言われた通りの挨拶を述べた。
「あなたが噂の島田真理さんね、それからー」目線が美香に移る。
「彼女も噂の美人、佐々木美香と言います」
「これは一本取られたわねえ、ふふふ。評判道理のお嬢さんらしいわ、今日一日楽しみ、楽しみ」
助手席には沢口君改め清和君(お母さんがそう呼んでいたので、名前判明)後部には武志君を挟んで女2人が乗り込んだ。コロナ禍の下、車中基本的には無言、もしくはひそひそ会話。
暑い日だった。もう立秋の日は過ぎたけど、早朝と言えどこれぞ真夏と言える日差し、青い空、熱風。
まあ車の中はそれなりに快適(?)だが日差しの中に停車すると忽ち熱地獄に突き落とされる。
途中、パーキングエリアで1度朝食兼休憩を入れる。
着いた、名栗川だ。又の名を入間川と言い、その上流を名栗川と呼ぶらしい。森もあれば勿論川もある,おまけに山も有る。昔は可なり自由に車を止めて、夫々思い思いの場所で遊べたらしいが、衛生上の問題とか、危険性、駐車場用地とかの問題でそれぞれに管理人が出来、場所毎に名前が付けられている。
ネットで調べて一応納得する所が見つかりそこに決めた。川の流れも穏やかで浅瀬の所も多く、又そうでも無い所も有るらしい。一番気に入ったのは木々の茂った散策コースが設けられている事だった。パーキングゾーンも周囲が木々に囲まれてこれなら日中でも暑くは成らないだろう。
マダム沢口は料金払いに、わたし達は荷物の移動に。日陰の草原にブルーシートを広げる。
男性諸君はと言っても2人は海水パンツ姿。わたしと美香派そのままショートパンツで過ごそうと決めていた。マダムも少し眺めのキュロットスカートをお召しになってる。先ずはみんなでクーラーボックスから飲み物を取り出し、ヤレヤレとマスクを外して、お疲れ様とマダムに感謝をしながら、乾いた喉をうるおす。
男2人は早速川遊びに出かけたが、何やら大きな荷物。見えないように水色の大きな袋で囲ってある。
「なーに、それ」と聞いても笑っている2人。
「お昼を食べてから、教えてあげるよ。今はまだ実験途中なんだ」とそのまま行ってしまった。
マダムはご存知のようだが微笑むだけで何も話されるご予定はなさそうだ。
仕方なくわたしと美香はスケッチブックを持って散策コースへ向かう。
ここで気に入った場所の絵を描けば、美術の宿題の出来上がりだ。
美香は木々の間から覗く川を選び、わたしは川の水を主体に周りの木々や岩を書き込むことにする。
暫くすると手に貴重品入れを持ったマダムがやってきた。
「あーら、島田さんって文だけじゃなくて絵も凄く上手いのね」
「真理ちゃんのお母さん、プロの画家なんです」美香が答える。
「門前の小僧がお経を覚えるようなものです。物心ついた時から、母の絵描きに付き合わされていましたから。その上、手抜き料理も覚えましたが」
「手抜きはね、あなたのお母さんだけでなく、仕事を持った人なら誰でもやることよ。手抜きなら良い方よ、わたしなんかは半分は作ってあるもの買ってきちゃうわ」マダムが笑う。
そろそろお昼と言う事でブルーシートの所に戻ってくると、男2人が模型の帆船のような物をいじっている。
「え、逸れどうしたの、帆船の模型,買ったの?」わたしと美香が聞く。
「夏休みの美術工芸の宿題。俺とこいつの合作と言う事で」武志君が答える。
「良く出来てるわね、若しかして親戚に船大工さんが居たりして」
「そんな人は居ないけど、今の世の中、何でもパソコンが教えてくれるからさ」
「でも、2人がこんなに器用だ何て思わなかった」
「どう、俺たち、お婿さん候補に入れてあげようかなって少しは思ってくれるかな?」清和君がさらりと言う
マダムも笑う。
「手抜き料理で育っているから、大丈夫よ。お互いに」
「で、今日は試しの出初式って訳?」
「まだ色も仮塗りしかしてないし、これから帆も付けないといけないからね。出初式と迄はいかないなあ、ちょと浮かべてみようかな程度だな」
「ふーん、提出するのは二人で一つでも良いけど、その後如何するの?まさか、鋸で半分子する訳には行かないよね」
「ハハ、提出には1艘しか間に合わないけど、この後もう1艘、作るんだ」
わたしの脳裏にぱっとイザナミのじっちゃんの顔が浮かんだ。
「ねえ、わたしにも作れるかな、その帆船」
「え、君も帆船好きなの」清和君が尋ねる。
「勿論好きよ。でもそうじゃなくてわたしの祖父が船が大好きで、船乗りになるのが夢だったんだって。今は、体も中々自由に動かせなくなっちゃたけど、せめて模型の船でもプレゼントして上げたら喜ぶだろうなと、思ったの。10月が誕生日なんだ」
「そうか、10月か・・間に合うかな?」
「そうだな、俺たちのは後回しにして手伝うとしても、学校始まるからなぎりぎりと言う所か、間に合わないか」
「父に手伝わせるわ」
「え、君のお父さん、大学の、哲学の先生だろう?」
「そんな事関係ないわ。元々父の家系は宮大工だもん、屹度船大工の方も上手いに違いないわ」
マダムが笑う。
「あなたのお父さんが工作が上手か下手かは分からないけど、お母さんの方が確実にお上手だと思うわ」
「そうだよ、真理ちゃんのお母さんの方が手先は器用だし、剣道も空手もボクシングだって男顔負けだろ」
「でも、料理は父の方が上手いのよ」
マダム、益々笑う。
「まあ、お家に帰ってから話してみたら。さあさ、早くお昼を食べて、その仮の出初式を見せて頂だい」
と言う訳で、出初式も終わり、わたしたちの絵も大体終わり、渋滞に巻き込まれない内にと、帰途に着いた。
「ねね、お母さん、お母さんは帆船好き?」
「勿論好きよ,でも描く気持ちにはなれないわね、わたしはヤッパリ森や湖が好いわ」
「描かなくって良いから、作るってどう?」
「え、わたしが船を作るの、どうして、どうやって」
「じっちゃんにプレゼントしたいの」
「そ、そりゃ、プレゼントされたら喜ぶでしょうけど・・でも今は体があんな風だから」
「だから模型の帆船作って今度の誕生日のお祝いにプレゼントしたいの」
「模型の帆船か。でも作り方解らないし、今まで作ろう何て考えた事も無かったから」
「大丈夫、今日武志君達が作ったのを見せてもらったから。作り方はパソコンで調べれば直ぐ解るらしいよ。それには初めは二人、武志君と清和君つまり沢口君が手伝うって言ってくれてるし、それからお父さんも宮大工の家系なんでしょう」
「まあ、それはそうだけど、どうかしら、余り大工道具手にしたのを見た事ないから」
「掃除道具は良く手にしてるけどね」
でも、相手はプラモデルみたいなもの、例え木製と言えど本物を作る訳ではない。マダムが言うように手先の器用さが一番大事。
早速、帰宅した父を捕まえ聞いてみた。
「ねえ、お父さん、お父さんは手器用?」
「まあ、そんなに起用とは言えないけど、そこそこだなあ」
「そこそこってどのくらい、船作れる?」
「ふ、船。それは器用と言うより、経験が・・一体如何したんだい船を作るって」
「おじいちゃんの誕生日にウッドモデルの帆船作ってプレゼントしたいんだ。おじいちゃん船乗りになりたかったって聞いているから。イザナギのじっちゃんだけど・・」
母が口を挟む。
「今日ね、名栗川で武志君達が夏休みの美術の宿題に、帆船の木の模型を作ったのを見せてもらって、是非わたしの父にも作って上げたいと思いついたそうよ。余り時間がないので、わたし達にも手伝って欲しいんだって」
そこで隣の武志君にも参加して、その手順を聞くことにした。
何とか話はまとまり、初めは武志君達も手伝い、後はわたし達家族で挑戦する事となった。
今はコロナの所為でほぼ家に居る母と、大学も学生は夏休み中で父も今は時々しか大学に出向かない父と三人で、届いた木製モデルをわくわくしながら組み立てて行く
こんなにモデル作りが楽しいなんて、若しかしたらわたし、これが終わっても、今度はプラモデル作りに夢中になりそう。
夏休みも終わりに近づいた。六色沼の管理事務所にも連絡を入れ、トングやゴミ袋等は貸して貰える事になった。
可なりの人数になったので,夫々の場所を割り振りし、そのリーダーも決める。
マスク、軍手、飲み物,タオル等各自準備して、7時に集合。弁当は残念ながらコロナ患者激増と言う事で断念せざるを得なかった。
それにコロナでなければ、ワイワイガヤガヤお喋りに花を咲かすとこだが、今は辛抱の時、みんな寡黙にゴミを集める。でもそれでも、朝の清清しい空気を仲間と共有する事に心は満たされている、と思いたい。
もう直ぐ9月、2学期が始まる。体力強化演劇部は今度はどんな事をやらされるのか、敵、鬼先生の心の内は皆目解らないけど、まあ、どんな難題もやってやろうじゃないか。だって真理、誕生日が過ぎて13歳に成ってしまったんだもの。
次回に続く お楽しみに!