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「最近いい音を出すようになってきた」
ピアノの家庭教師が、うっとりした顔で言った。この男は、ナルシシズムが過ぎるので少女は嫌いだった。ダリのような口ひげも、純和風の彼の顔には似合っていなかった。
それを聞いた養母は、笑顔で「海外留学の甲斐がありました」と言った。彼女の家出は、海外留学ということになっていた。確かに間違ってはいない。海を越えていったのだから。
その海外留学が、どれほどの苦労があったかも知らないくせに、と少女は心の中で悪態をついた。
以前なら、心の中でさえそんなことを思うことは無かったのに、少女は自分が変わってきたことを自覚した。
日を追うごとに、彼女は少年を思う気持ちが強くなっていた。以前は、少年が自分の歌を、音楽を聴いてくれていると思うだけで良かった。しかし、今はどうしても少年に会いたかった。
マネージャにその想いを伝えたが、マネージャは良いとも悪いとも言わなかった。戻ってきてから新しく担当になったマネージャは、恐らく養母の息がかかっているのだろう。養母から少年のことは忘れろと釘を刺された。
相変わらず少年はテレビや雑誌で取り上げられていた。当初よりは露出は減っていたが、それでも彼の姿を見られるのは嬉しかった。
ある日、彼と同じスタジオで撮影する機会があった。彼に会えると思って、少女は喜んだがもちろん彼には厳重な警護が付いていて、近寄ることは出来なかった。
「少しだけで良いの。話をさせて」
懇願したが、彼のマネージャは首を縦には振らなかった。彼の後ろ姿を見かけたとき、思わず大きな声で彼を呼んだが、少年は振り返らなかった。もう、彼は自分のことなど忘れてしまったのだろうかと少女は嘆いた。今の彼は、素晴らしい待遇を受けている。人に飢えていたあの頃とは違うのだ。
頬が熱かった。涙が流れていることに気付いたのは、化粧がグズグズに崩れたあとだった。
誰かに顔を見られる前に、とトイレに駆け込んだ。そのスタジオは古く、近く建て替えられる予定だった。そのトイレは壁の上に隙間があり、男子トイレと繋がっていた。
「ねえ」
声が聞こえた。その声は、忘れもしない少年のものだった。
「そこにいるの?」
少女が答える。
「うん、ここにいるよ。外は周りの目が厳しくて抜け出せない」
「私のことを無視した」
少女は頬を膨らませた。
「ごめんね。彼らの目を逸らしたかったから」
「もうっ」
少女は壁に向かって叫んだ。
「許さないんだから」
少年は笑った。
「どうして笑うの」
「向こうにいたときより、ずっと可愛い」
「からかってるの? 顔も見てないのに」
少年は慌てていった。
「違うよ、感情を素直にぶつけてくれることが嬉しいんだ」
少年の声は懐かしく、少女の感情を揺さぶった。胸が苦しくて、涙が止まらなかった。
「もう行かないと」
「待って、まだ・・・・・・」
少年がトイレから出ていく音が聞こえた。
少女も慌てて飛び出したが、少年はすでに黒服に囲まれて歩いて行くところだった。その背中に向けて、彼女は再び声をかけようとしたが、なんと声をかけて良いかわからずやめた。
力がほしい。今よりもっと有名になりたいと願った。どんな力にも屈しない力がほしい。
彼を救い出したい、と少女は彼の背中を見て思った。