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滅んだ世界より愛を込めて(旧版)  作者: よねり
第二章 本当のディストピア
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 産まれた時、少女はトイレにいた。嘘みたいな話だが、少女はトイレで出産されたのだ。

 少女の母は彼女を産み落としたあと卒倒して、臍の緒が着いたままの少女の泣き声で、近所の人が通報した。かけつけた警察官によって、少女は病院に運ばれた。だから、あのとき通報してくれた隣人には感謝しなければならないし、今生きていることが奇跡だと思っていた。

 その後も、少女はトイレと縁があった。ある日、少女の母がお客を取っている間、彼女は狭いトイレの中でおままごとをして遊んでいた。ずぼらな母はトイレ掃除なんてしないから、少女がいつも掃除をした。換気扇から差し込む夕日が、少女が憶えている最初の記憶だった。換気扇の音と、茜色。それが彼女の世界の始まりだった。

 またある日は、ゴミ捨て場から拾ってきた玩具のピアノで遊んだ。それはおよそ音階などと言うものを無視した玩具であったが、彼女にとっては宝物だった。よく近くの屋敷から聞こえていた曲を、その玩具で真似をした。いつしか、音の相違に吐き気を催すようになり、本物のピアノが欲しくなった。

 母親の客が、少女がピアノを弾くのを見て家に招いた。その家には立派なグランドピアノがあった。その家には少女と同い年くらいの子がいたが、その子はピアノが嫌いだったようだ。つまり、少女はそのこの代わりに連れてこられたのだ、と言うことに彼女は幼ながら気付いていた。しかし、そこは少女に与えられた初めての居場所だった。それが偽りだったとしても、彼女には絶対に失えない場所だった。だから、その夫妻に好かれるように努めた。

 幼稚園にも保育園に行かせてもらえず、少女は友達というものができなかった。それが幸いだった。彼女は夫妻の家で一日中ピアノを弾いた。

 このとき、まともな人間であれば、この少女に対し、まともな人生を歩めるような環境を整えるか、そもそも自分の娘の代わりを連れてこようとは思わなかっただろう。

 彼女にとっては、この夫妻がまともな人間では無かったことが救いだった。彼女の母親が何も言ってこないのをいいことに、彼女に一日中ピアノを弾かせた。

 少女が小学校に上がる年、彼女の母が他界した。ゴミ捨て場で無残な死体姿が発見されたが、それ自体事故として処理された。今にして思えば、夫妻の差し金だったのかもしれない。大人の力というのは、どんな不可能も可能にすることができることを、少女は何度も目の当たりにしていたからだ。しかし、そのときの彼女にはそれが突然の世界の終わりのように思えた。

 母親というのは、小さな子供にとっては神のごとき存在である。その神が死んだのだ。自分の世界は終わりだと思った。

 夫妻は実に手際よく彼女を養子として引き取った。神が復活したのだ。彼女は今度こそ世界から捨てられないように、必死にしがみつくことにした。これで、名実ともに彼女は居場所を手に入れた。これまで以上にピアノにのめり込んでいった。

 ピアノだけでは無く、彼女は歌にヴァイオリンにと様々な楽器を学ばせた。小学校には通わせなかった。

 そのお陰か、彼女の音楽の才能は開花した。子供ながらに素晴らしい才能を発揮することから、世界中から寵愛を受けた。その頃から、彼女は空を見上げる余裕ができた。彼女の世界は、最初から色の濁った空と、欲望の廃棄物が覆っていた。美しい空など、一度も見たことがなかった。時には、世界は血の色ににじんだ。

 少女がこれまでの人生を後悔したことなどないし、むしろ夫妻に対しては感謝の念しか無い。ただ、たまに思うのは、自分が普通の家庭で普通に育ったなら、果たして幸せだったろうかと言うことだった。

 そんな風に思い始めたのは、決定的な事件があったからだった。

 ある日、彼女の音楽仲間の子が死んだ。今まで少しも世界に対して疑問を持ったことがなかった彼女だが、この頃から音楽を愛せなくなっていった。

 最初に少女の異変に気付いたのは、養父だった。それまで、養母の調教に対して目をつぶっていた。彼にとっては、少女が有名になろうがどうでもよかった。己の妻が満足そうにしているなら、それに付き合うだけだった。少女と同年代の子が死んだ、というニュースを見て、彼はふと心にもやがかかるのを感じた。そのあと、少女が体調を崩したとき、彼はもやの正体に気付いた。これは、虐待である。人間の命を使って行うゲームに、彼女は駒として利用されているのだ。

 彼女は耳が聞こえなくなった。目はかすみ、食欲は無くなっていた。養父は少女の体を心配したが、養母はそんなことにはお構いなしだった。ミスをした日は食事を与えなかった。

 それでも彼女が夫妻に従っていたのは、自分の居場所をなくしたくないからだった、もう、あのトイレの中には戻りたくなかった。感謝こそすれ、彼女は決して夫妻を恨んだことはなかった。

 何度目かの折檻のあと、少女は入院することになった。目を覚ますと、彼女は病室から飛び降りようとした。たまたま様子を見に来ていた養父に止められたが、彼女は本気だった。そのとき、養父が出した答えは逃げ出すことだった。

 逃げ場として決まったのあの地がどんなところかは、学校へ行っていない少女も知っていた。不安は大きかった。せっかく手に入れた居場所を、自ら手放すことになってしまう。それだけが怖かった。危険地帯に何がいようと、そんなことはどうでもよかった。誰にも必要とされないことが怖かった。

「必要だから、手放すんだ」

 養父が言った言葉が、彼女を支えた。

 用意は入念に行われた。それから、ボートであの地域に行き、少年に出会った。少年に出会ったとき、彼女の聴覚は復活していた。相変わらず目はかすんでいたが、見えなくは無かった。しかし、少年に優しさの中に新しい居場所を見つけると、彼女は目が見えないふりをした。居場所がなくなるのがいやだった。いつまでも、少年に必要とされていたかった。

 少年との旅は楽しかった。言葉には出さなかったけれど、今まで生きてきて、一番楽しかった。彼はこんな自分を大切にしてくれたし、旅に出たのは初めてだった。車の助手席で感じる風がこんなに心地よいなんて知らなかった。毎日お風呂には入れないのはいやだったし、トイレにウォシュレットがないどころか、紙さえが付いていないことがあったのは本当につらかったけれど、旅の楽しさでそんな事は吹き飛んだ。初めて、心が安らいだ気がした。

 あんなに嫌だったピアノだって、うまく弾けた。ショパンの雨だれは、彼女が初めて覚えた曲だった。あの家から聞こえてきた曲だ。初めて音楽に触れたときの感動を、今ではもう思い出すことさえ無いと思っていた。しかし、少女の演奏を聴いた少年の顔を見たとき、少女の胸にあのときの気持ちが蘇ってきた。

 少女は歌も好きだった。少年が歌ってくれと言ってくれたのは嬉しかったが、彼の前で歌うのは恥ずかしかった。だから意地悪をしてしまった。

 過酷な環境下で生き抜いてきた少年に、彼女はいつしか親近感を覚えていた。

 だからこそ、少年が危機の時は助けたかったし、できることは何でもしてあげたかった。魔物は怖かったが、歌を歌えと言われれば歌った。あの工事現場では恐怖が勝ってしまって歌えなかったが。

 少女の聴力は少年と出会ったときに回復していたが、視力はしばらく回復しなかった。魔物と戦ったあと旅に出てからは大分見えるようになっていた。海という男と出会った頃には、正常に戻っていた。そのことを少年に伝えるかどうか、悩んだ。

 少年があのとき、あの危険地域を出たいと言わなければ、少女は少年とあそこに留まる覚悟があった。少年と二人なら生きていける気がした。少なくとも、一人よりはずっと良いだろう。だが、少年は選択してしまった。

 こちらに戻ってきたら、彼と会うことはもうないだろうと言うことはわかっていた。最後、壁を越える直前、少女は少年にキスをした。どうしてそんなことをしたのか、少女自身にもわからなかった。少年は何をされたのかわかっていない様子だったが、少女にとっては彼との最も大切な思い出だ。

 こちらに戻ってくると、養母は心配するどころか激高した。少女のせいで被った損失について、彼女の給料から補填すると言った。元々彼女は給料などほとんどもらえていなかったが。養父は彼女が戻ってきたことに驚いていた。危険地帯の中でのことを話すと、彼は何も言わず彼女を抱きしめた。

 再び音楽の世界に引き戻される。それまでの新鮮な空気がどこかへ消え、重苦しく粘性の高い空気が彼女を包んだ。それでも、メディアに顔を見せるとファンは彼女を歓迎した。

 それでも頑張れたのは、音楽が好きだった彼が聞いていてくれていると信じていたからだ。これまで以上に、特にラジオ番組への出演を希望した。メディアに露出してさえいれば、彼に自分が元気であることを知らせることができる。彼女はただ、それだけのために活動し続けた。

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