45
ケルベロスの遺体を焼くと、僕は出発した。あのまま置いておいても、土に埋めても掘り起こされて食べられてしまうだろう。ケルベロスの高貴な魂は、煙とともに空に昇っていった。
車に乗ると、僕は海沿いを走った。彼女がペットの猫の話をしてくれた。猫の体が柔らかいこととか、甘えるときに顔をこすりつけてくることとか、彼女のお気に入りのお菓子を食べてしまうこととか。彼女なりに気を遣ってくれているのだろう。僕は適当に相づちを打ちながらほとんどの話を聞き流していた。
思った通り、森を抜けると見覚えのある風景が広がっていた。温泉のある集落の近くだった。
思い立って、彼女が流れ着いた場所を目指した。
そこに戻ったわけは、何か他に手がかりがあるのではないかと思ったからだ。彼女が乗っていたボートは、あのときのままそこにあった。しかし、一つだけ違う点は、今度は大人の男の人がそこに倒れていることだった。
「大変だ」
僕は叫んで階段を駆け下りた。砂浜に倒れていた人は、全身ずぶ濡れの男だった。
「大丈夫ですか」
声をかけると、彼は呻いた。声が枯れていたが、若そうだった。少なくとも、祖父やおじさんたちよりはずっと若いだろう。黒い髪の毛が、ふくよかな顔に張り付いていた。ずいぶん食べ物がたくさんあるところから来たのだろう。祖父もおじさんもガリガリに痩せていたが、この男の人は大柄で肉付きがよかった。白いワイシャツが肌に張り付き、黒いスラックスがきつそうにウエストを締めている。
そんな風に観察していると、彼は突然海水を吐いて咳き込んだ。
目を覚ました男の人は、僕の顔を見た後、周囲を見渡した。どうやら彼は目が見えるらしい。僕以外の生存者はみんな目が見えないのではないかと心配だった。
「ここは?」
「砂浜です」
彼は一瞬、キョトンとした顔をした。
「どこの砂浜?」
「どこの・・・・・・うちの近くの」
彼は頭が痛むのか、頭を押さえて顔をしかめた。自分で頬をたたいて頭を振ると、彼は目を開けた。僕の顔を見て、再び驚いたような顔をした。
「君は・・・・・・ここはどこ」
彼は周りを見回す。
「え? 海? 俺は何を・・・・・・」
彼はしばらく呆然とし、長いため息をついた。彼の語るところによると、彼は記憶がないらしい。どうやってここにたどり着いたのか、何をしに来たのか、どこから来たのか何もわからないという。またしても、外の世界の手がかりを掴んだと思ったのに空振りだった。
「それで、君は一人なの?」
随分よく喋る男だった。調子を取り戻してからは、喋りっぱなしだった。話を聞くだけで疲れる。
「いや、車の中にもう一人」
言うと、彼はまたも驚いた顔をした。
「どうしてそんなに驚くんです?」
尋ねると、彼は気まずそうな顔をした。
「だって、君はどう見ても・・・・・・その、気を悪くしないでくれよ。子供に見えるものだから。車の運転ができる年齢には見えなくて」
「確かに十三歳ですけど、車を運転するのに年齢は関係ありませんよ。少し練習すれば誰だって運転できる」
僕は笑って付け足した。
「赤ん坊は無理でしょうけど」
僕の渾身の冗談だったが、彼は全く笑わなかった。
「関係あるのかって・・・・・・だって・・・・・・」
彼は言いかけてやめた。
「まあ、俺が君みたいな年の頃にはできなかったなと思ったんだ。それだけさ」
彼はぎこちなく笑った。
怪しいーー彼の第一印象はあまりよくなかった。何か隠しているような気がする。
彼を彼女に会わせてよいだろうか。とても不安だ。
「君、名前は?」
「名前はありません」
再び彼は驚いた顔をする。
「そうか・・・・・・まあ、俺も自分の名前を思い出せないし丁度良いか。俺のことは・・・・・・」
「海さんって呼びますね」
「海?」
「海から来たから」
海さんは笑った。
「それでいいよ」
海さんは車を見上げた。
「あの子はどこからきた何さん?」
僕は答えなかった。海さんは黙って僕の後ろをついてきた。車はまだしも、その中に乗っている彼女のことまで気付かれているなら、連れて行かないことは出来ない。
車に乗る前に、海さんは着ている服を脱いだ。絞ると海水が滝のように出た。もっと出そうだったが、海さんはちょっと黙った後、それらの服と靴も放り投げた。
「まあ、ぬれたまま乗るよりは良いでしょ」
乗って良いとも言わないうちに、海さんは後部座席を開けて乗り込んだ。車が少し揺れた。
「あ、ちょっと待って」
エンジンをかけると、突然海さんが叫んだ。
「もう、なんですか」
彼は答えずに慌てて車から出て行く。自分が投げ捨てた服を取り上げて、まるで自分の体の一部でも探すみたいに慌ててポケットの中を漁る。
「あっ」
何かを探し当てた海さんは、うれしそうにそれを取り上げたが、次の瞬間失望した表情に変わった。忙しい人だ。
取り出したのは、煙草の箱だった。祖父が喫んでいたものとも、おじさんが喫んでいたものとも違う。海水でぐっしょりと濡れていた。一本一本、大事そうに取り出して確かめるが、どれもこれもどっしりと水分を含んでいた。最後の一本を確かめると「畜生め」と叫んでそれらを投げ捨てた。
海さんは憮然とした表情で、再び車に乗り込む。彼のことを彼女に説明すると、彼女の顔色が悪くなった気がした。見えない目で後部座席を窺う。その姿に、海さんは微笑んだ。
「海です、よろしく。可愛い女の子だね。でもどこかで見たことがあるような」
「人違いです」
彼女が言う。それきり、彼女は口を利かなくなってしまった。しかし、無遠慮に海さんは彼女を質問攻めにする。ほとんど彼が一人で喋っている様な状態だった。彼女に無視されても、彼は一向に気にしないようだった。
「ねえ、名前くらい教えてくれよ」
「名前がないと不便じゃないか?」
彼の言葉が誰に向けられているのか、わからない。僕も彼女もまったく彼の質問には答えなくなった。
海さんの着替えを調達するために、町に向かった。
「本当に運転できるとは・・・・・・驚きだねえ。俺よりうまいんじゃないか」
海さんが楽しそうに言う。ルームミラー越しに見る彼の表情は、ほんの数十分前に砂浜で見た不安な表情とは全く違って楽しそうに見えた。彼はそういう人間なのかも知れない、と思い始めた。
町に着くと、衣料品店に入った。僕も彼女も服が汚れてしまっていた。
「彼女にはこれが似合うんじゃ無いかな」
海さんが中世ヨーロッパの貴族みたいな服を持ってくる。そんな服、どこにあったのか今まで僕でさえ見たことが無い。
「あなたは自分の服を探して下さい。風邪を引いても知りませんよ」
僕も彼女も、着替える前とほとんど変わらない格好に落ち着いた。僕はジーンズにシャツ、ジャケット。彼女はブラウスにカーディガン。海さんはスーツだった。スーツは大人が着るものだということは知っていたが、祖父もおじさんもスーツを着ている姿を見たことが無かった。
「しかし、この店の服すべてタダなんて、最高だな」
海さんはウットリとガラスに映った自分の姿を眺める。
「他の場所では違うんですか」
「さあ、どうだったかな。憶えていないな」
急に不機嫌になり、彼は車に乗り込んだ。
彼の不機嫌はほんの数分だけだった。気がつけば、またやかましく喋り始めた。海から来る人間は変な人ばかりだ。こんな人ばかり生き残っているのだとしたら、僕はここで生きた方が楽かもしれない。
「さて、これからどうしようか。おや、あれは教会か」
海さんが建物を指さした。他の建物とは雰囲気の違う、屋根の尖った建物だった。実のところ、僕も少しだけ気になっていたがなんだか入る気にならなかった。
教会、という言葉に彼女が反応した。
「教会があるの?」
急に喋ったからか、声がかすれていた。
「おや、小鳥のさえずりかと思ったら、お姫様の鳴き声でしたか」
海さんが茶化すのは無視した。
「行きたいの?」
尋ねると、彼女は小さくうなずいた。そのとき、彼女が胸にある十字架をぎゅっと握りしめていることに初めて気付いた。
「そりゃあいいね、神頼みしたら俺の記憶も戻るかもしれない」
教会の前に車を駐めると、僕たちは車を降りた。重い扉を開くと、ひどくかび臭い。中は動物に荒らされた形跡はない。そこら中に動物の糞が散らばっていないことだけは救いだった。
壁には火の消えたろうそくがたくさんあり、部屋の奥にはピアノのようなものが置いてあった。長椅子が続いており、中央の通路をまっすぐ行った先には、机のようなものが置いてある。その後ろに、蝋人形のようなものがつるされていた。
彼女は蝋人形の前まで行きたがった。この臭いは気にならないらしい。連れて行くと膝をついて祈った。彼女の首飾りは祈るためにあるもののようだ。
海さんは鼻歌を歌いながら教会の中を歩いていた。彼は祈ろうという気はないようだ。
長い時間、彼女は祈りを続けていた。途中、彼女が涙を流していることに気付いた。彼女の祈りを邪魔してよいものか迷って、僕は邪魔しない選択をした。
教会、というものが何のためにあるのかは本で読んだ。実際、中に入ったことも祈る人を見るのも初めてだった。
美しい、と思った。この教会の埃まみれのステンドグラスや偶像の中にあってさえ、彼女が祈る姿は美しかった。それは、アスリートがそれぞれの最も正しい姿勢をしているときのような正しい美しさを持っていた。
蝋燭に灯がともる。外は闇の帳に覆われ、隙間風が吹き込んでくる。蝋燭の炎は揺らめき、彼女の横顔を照らす。陰影のせいか、時折彼女の表情が何か別のものに見えた。パイプオルガンが荘厳な音を奏でた。少し前まで埃まみれだったそれは、今では作りたてのように美しく光を反射している。悲しいことに僕の知っている音楽は、彼女が弾いてくれたショパンの雨だれのみ。少し教会に似合わなかったが、それでも僕の妄想の中では美しく鳴り響いた。
目を開くと、先程と同じ埃まみれの教会の中だった。蝋燭も煤けたまま冷たくそこに鎮座していた。ふと、窓の外に何かの気配がした。
彼女はまぶたを開くと、立ち上がった。まるで見えているみたいに、真っ直ぐに偶像を見上げた。
彼女の手を引いて教会の扉を開けると、巨鳥の鳴き声が聞こえた。見上げると、すぐ上を飛んでいた。
教会から出ようとすると、足下に何か飛んできた。石のようだった。見ると、遠くの方に猿が一匹立っていた。それが投げてきたのだろう。
「逃げて、早く車に乗って下さい」
猿は凶暴だ。彼らは自分の仲間以外すべてを憎んでいるのではないかと思うほど、残忍である。ここは彼らの縄張りだったようだ。
再び石が飛んでくる。今度は足に当たった。コントロールが良くなってきてる。慌てて飛び出した海さんに、扉の影から猿が襲いかかった。長い腕で海さんの腕をひっかく。海さんは悲鳴を上げてその場に座り込んだ。腕からは真っ赤な血が流れている。
「ひいっばい菌が入る! いやだ、俺は何者にも変わりたくない!」
海さんが涙を流して叫んだ。
やられるーーそう思った瞬間、地鳴りのような音がした。巨鳥が教会の上に止まっていた。口には猿を一匹くわえている。
「うえっ、あの鳥なんなんだ。あんなに大きな鳥、見たことが無い。食われっちまうんじゃないか。もう終わりだ! 俺たちみんな終わりなんだ!」
海さんが慌てて車の中に飛び込んだ。あの優しい目を見て、どうして食われるなんて想うのか不思議だった。
先程まで石を持って構えていた猿の姿が消えていた。
僕は鳥に手を振った。彼女が「何してるの」と訊いたが、僕は「なんでもない」と答えた。
「僕の友達がいたのさ」
「お友達がたくさんいるのね」
「君も大切な友達の一人だよ」
彼女は俯いた。
「よくあんなのと視線を合わせられるね。やつらはみんな凶暴な獣だ」
海さんが吐き捨てるように言う。怪我をした手にジャケットを巻き付けていた。
アクセルを踏む。サイドミラーの向こうで巨鳥が飛び立つのが見えた。すぐあとに猿の集団が叫び声を上げる。
やはりあの教会は猿の縄張りだったのだろう。あの鳥は僕達が襲われないように守ってくれたに違いない。あの猿は凶暴だ。縄張りに足を踏み込んだだけで多数の猿に組み付かれる。そうやってライオンでさえもやられるのを見てきた。彼らは群れのためなら個を失うことさえ恐れない。
後部座席で、海さんがまだ息を荒げている。着ていたシャツを裂いて、腕に巻き付けていた。
「さっき、何者にも変わりたくないって言ってましたけど、あれはどういう意味ですか?」
僕は聞き逃さなかった。きっと、彼は何かを知っているに違いない。
「そ、そんなこと言ったかな・・・・・・きっと、この傷が原因で破傷風なんかになってしまうことを恐れてわけのわからないことを口走ってしまったんだと思う」
海さんは口の端から泡を吹きながら、早口に言った。
「破傷風って何ですか?」
「切り傷にばい菌が入ってなる病気のことさ。最悪、腕を切り落とさなくちゃいけなくなる。ここに病院はあるのかい・・・・・・といっても、医者はいないのだろうね。せめて消毒くらいはしておきたい」
海さんが真剣な目で僕をにらみつける。
背後から猿の声が聞こえた。何匹かは車を追ってこようとしていた。アクセルを強く踏み込むと、姿は見えなくなった。鳥が猿の上を旋回して牽制していた。
「ここは物騒だねえ。そんな中で、よく生き抜いてきたね。一人で生きてきたのかい?」
海さんが猿たちを見ながら言う。
「いいえ、祖父やおじさんたちに育ててもらいましたよ」
「ふうん。彼らはまだ存命なのかい」
僕は少し言葉に詰まった。
「もう死にました」
「みんな?」
僕は頷く。
「悪いことを訊いたね。申し訳ない」
珍しく海さんは心痛な表情を見せた。僕は意外に思って動揺してしまった。
「実は僕も親の顔を知らなくてね」
「記憶が戻ったんですか?」
尋ねると、海さんは慌てたように「いや、言葉を覚えているのと同じように、このことだけは憶えているんだよ」と言った。
「だから君の気持ちはわからなくもない」
「そうですか」
ずっと胡散臭い彼だったが、その表情だけは初めて本当だと思った。
唐突に海さんが手を叩いた。
「さて、湿っぽい話はおしまいにしよう。これからどこへ行く? まずは町に消毒薬を取りに行くとして、そのあとだ」
僕は冒険の目的を見失いつつあった。世界があんなに狭いとは思わなかったからだ。あの壁の秘密はどうやって暴けば良いのだろうか。海の向こうまで壁は続いており、どうやっても壁の向う側へはたどり着けそうも無い。あとはこの二人がやってきた海の向こうだけが出口のように思えるが、二人とも海の向こうのことは語らない。
「とりあえず、今日のところは家に帰ります。明日からは船でも探します」
「船だって? まさか海へ出ようというのではあるまいね?」
海さんが片方の眉を上げる。器用だなと思った。
「そうですよ。どうやったってあの壁は越えられそうに無いです。二人が海から来たって言うなら、海へ出れば他の生き残りに会えるし、海さんだって家に帰れるでしょう」
「海の向こうなんて危険だよ。第一、船なんてあるのかい」
たしかに、動きそうな船を僕は見たことが無かった。
「それならいかだでも何でも作りますよ」
海さんが僕の肩をたたく。
「まあまあ、そう興奮しなさんな。ゆっくり考えよう。時間ならたっぷりあるんだから」
「僕はもう充分ゆっくりしたんですよ。こんな狭いところで十三年もいるんですから」
ハンドルを殴りつけると、海さんは唸った。
「すまない。俺もここに流れ着いたばかりで、ここら辺のことを知りたいんだ。記憶だって戻っていない。もしかしたら、外が危険でここに逃げてきたのかも知れないだろう? だから、きちんと安全だと言うことがわかるまでは待って欲しい。これは俺が怖がっているからじゃあ無いんだ。君たちのような子供を危険にさらすわけには行かない。これは大人としての義務だ」
急に海さんが真剣な顔をした。確かに、彼の言うことは正しい。立て続けに二人も海から流れ着いたのは今まで初めてのことだ。
「今更子供扱いされたって・・・・・・」
僕の呟きは風に乗って消えた。