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たまに、天気の良い日は車の窓を開けて彼女は鼻歌を歌う。僕はそれを聞くと嬉しくなった。本当に、彼女の歌は美しかった。
最初のうちは、夜になっても寝られるような建物がなくて車の中で寝ることもあったが、ある程度わかってくると、夕方になる前にめぼしい建物で休むことを覚えた。ある程度の間隔を置いて、集落がポツリポツリと存在していることも知った。
家の前でたき火をすると、彼女は最初怖がったがすぐになれたようだった。ずっと前の誕生日に祖父からもらったナイフで、釣った魚をさばく。そうしているときは、とても集中できた。
車の中で眠るときだって、魚が釣れなくてお腹が空いたときだって、彼女の鼻歌を聴いていると我慢できた。彼女はお腹が空くと不機嫌になるし、寝苦しい夜は僕を殴ったりするけれど、それすら愛しかった。
本音を言えば、鼻歌じゃなくて歌を歌って欲しいし、ピアノを弾いて欲しかった。それでも、風に乗って聞こえてくる彼女の声に僕は癒やされた。
時折鳥肌が立つような冷たい風が吹く日があった。もう夏はすっかり終わってしまった。秋も深まってくると、早く食べ物を溜めないと食べるものがなくなってしまう。今までは、家畜もいたし畑もあったし、町に行けば缶詰があった。夏の間に干し魚や干し肉を作った。冒険は春になるまでやめようかと思った。しかし、それではだめだった。冒険は逆境に打ち勝ってこそ冒険なのだとおじさんは言っていた。今こそ逆境なのだ。
ただ、冒険と言うには刺激が少なかった。魔物と戦って以来、無意識的に危険なことは避けている、ということに気付いていた。なぜなら、僕が思っているより世界は危険で、彼女を危険にさらしたくなかったからだ。動物が巣くっている建物には近付かなかったし、車を降りて長い階段を上らなければならないようなところはいかなかった。
「何のための冒険だ。ドライブか?」
ある日の夜、彼女が眠ってしまったあとおじさんがやってきて言った。
「違うよ。僕は本当に冒険がしたかったんだ」
「お前の冒険ってなんだ」
「新しい発見をすること、ラジオ局を見つけること、生き残っている人を見つけること・・・・・・」
おじさんはそれに対しては何も言わなかった。汚れた瓶のお酒を飲んで、たき火のそばにつばを吐いた。
茂みの暗闇から物音がした。
「ほら、お望みの冒険らしいことがやってきたぜ?」
おじさんは嬉しそうに笑った。音がした方向とおじさんの顔とを交互に見る。おじさんは楽しそうに、音がした方を顎で示した。
「わかったよ」
僕は火のついた薪を持って、茂みに近づいた。かすかに揺れているのは、風のせいだろうかそれともなにかが潜んでいるせいだろうか。
火を近づけても、茂みの葉は燃えなかったが、焦げ臭かった。慌てて火を引いた。
火を引くと少しの間、物音が消えた。気が緩んだ直後、茂みが大きく揺れて、何かが飛び出してきた。慌てて逃げようとして、尻餅をついてしまった。手に持っていた薪が落ちて影が揺れた。それに怯えて情けない声を上げてしまった。
茂みからのそりと出てきたのは、ケルベロスだった。揺らめく火に、頭が三つにも四つにも見えて惑わされそうになるが、その瞳は紛れもなく僕の友達のケルベロスだ。
「どうしてこんなところに」
言った瞬間、ふと気づく。ここはケルベロスの縄張りなのだ。つまり、僕たちは旅をしているつもりだったが、狭いところをぐるりと回って帰ってきただけなのだ。
手を出すと、ケルベロスは僕の手を舐めた。こんなに甘えた彼を見るのは初めてだった。
おなかが空いているのだろうか。いくつか残しておいた食料をあげると、彼は少し警戒した後、片方の首が恐る恐る食べた。その後は、どちらの首も僕が差し出した食べ物を少しだけ食べた。
ケルベロスの体をなでると、ずいぶん痩せていた。食べ物がとれないのだろうか。寒くなってきたとはいえ、まだ食べ物はあるはずだ。
食べ終わると、ケルベロスは僕に体を擦りつけるようにして鳴いた。
「何かいるの?」
その声に、彼女が目を覚ました。
「ああ、僕の友達のケルベロスさ」
「ケルベロス?」
「狼なんだ」
「まあ、狼がいるのね。私、犬は好きよ」
「猫を飼っているんじゃあなかったの?」
「あら、だからって犬が好きじゃいけないの?」
彼女は僕のそばに来て、ケルベロスをなでた。
「良い毛並み。きっと綺麗な色をしているのでしょうね」
ケルベロスの毛並みはビロォドのような手触りで、真っ黒だった。夜の闇に溶け、月の光に煌めく。今もたき火の炎を反射して、艶やかに光っていた。
ケルベロスは彼女の指をなめ、顔を擦りつけた。
「可愛い」
彼女が笑った。まるで愛おしいものを愛でるように、ケルベロスの頬をなでる。
安心したのか、ケルベロスは顔を押しつけるようにして眠ってしまった。
僕はケルベロスをたき火の近くまで連れて行き、一緒に寝た。
翌日、起きてみるとケルベロスは死んでいた。別れの挨拶をしに来てくれたのと気付いた時にはもう遅かった。
「どうしたの」
泣いている僕の背中を、彼女は優しくなでてくれた。僕がケルベロスの背中をなでるように、愛のある温もりだった。
「ありがとう。僕の大切な友達が死んだんだ」
彼女は何も言わずに、ずっと僕の背中をなでてくれた。僕は彼女にしがみついて、大声を上げて泣いた。