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ラジオはつけっぱなしにしていたが、あれ以来一度も受信することは無かった。山の上にいるからといって、ラジオが受信できるわけでも、ラジオ局があるわけでも無いらしい。
そもそもラジオというのはどういうシステムなのだろうか。図書館で見た電子工学の本は、難しい記号だらけで理解できなかった。
この山を越えたのは初めてだった。一体どんなところにつながっているのか、わくわくした。山を下りると、その光景に違和感があった。その違和感の正体に気付いた瞬間、僕はハッと息をのんだ。ここは、あの魔物に拉致された町の近くだった。山を登って、ぐるりと回って再び近くに降りてきてしまったのだ。
慌てて町から遠ざかる。一瞬、黒い影が視界を横切った気がした。あの洞窟の記憶がフラッシュバックする。動悸がした。汗がこめかみを流れ落ちる。
そんなはずはないーー幻覚に違いない。やつらの巣はまだずっと遠くの山じゃないか。
「どうしたの?」
急に車を止めた僕に、彼女が言った。
息苦しくて、視界が滲んだ。
「ごめんね、何でも無いんだ」
窓を開ける。外の空気を吸うと少し気分が良くなったが、視界はまだ滲んでいる。七色のアメーバが視界を泳いでいる。頭の内側を低周波ノイズが這いずり回っている。
「ねえ、何か聞こえる」
彼女が言い終わらないうちに、窓の外から手が伸びてきた。
逃げる暇もなく腕につかまれ、ハンドルに強く頭をたたきつけられた。
「なに?」
彼女が叫ぶ。その声と痛みで、目の前に火花が散った。そのまま腕につかまれ、窓の外に引きずり出された。髪の毛がブチブチとちぎれる音がした。
あの大男だ。子供の姿も見える。あのとき、視界を横切ったのはこの子だろう。大男の方は、図体が大きいのに、どこに隠れていたというのだ。
彼女がわめく声が聞こえる。痛みで聴覚がおかしくなっていた。彼女の声が耳をつく。
僕には何をしても良いが、彼女には触れて欲しくなかった。
体が浮く感覚に目を開くと、大男の顔が目の前にあった。生臭い息が顔にかかる。何か言おうとしているのだろうか。うめき声のようなものが口から漏れた。ワイヤーで縫い合わされているため、ほんの少ししか口が開かない。初めて近くで見る彼の顔はよく見ると、人間よりも猿に近かった。真っ黒ではあるが、表面に凹凸がきちんとある。口の形も猿のように出っ張っていた。乱雑に縫い合わされた口がとても痛々しい。
「なんだよ、殺すのか」
言うが、彼は反応しない。その代わり、僕の頭を再び車の中に突っ込んで、何かうめいた。
「彼女には手を出すな。食いたいなら僕を食え」
伝わっているのかいないのか、彼は僕を再び車の外に出すと屋根に叩き付けた。
「一体何なんだよ・・・・・・痛いじゃあないか」
大男はひときわ大きな声で唸った。それはまるで、歌っているように聞こえた。
歌ーー?
昨日のことなのに、遙か遠い昔のように思えた。あの雨の中、彼女の歌声に魔物は聞き惚れていた。もう一度彼女の歌声を聞くため、いや、彼女の歌声を持ち帰るために僕達のことを探し回っていたのか。
「お前たちの思い通りになんて、絶対にならない!」
僕は叫んだ。その気迫に押されてか、彼の手が緩んだ。その瞬間、僕は彼の手から逃げ出した。彼の手が大きすぎることと、僕が小柄なことが幸いしたのだ。
思い切り金的を蹴り上げる。いかな魔物とて、生物学的に雄で有る限り、金的は急所のはずだ。動物図鑑にもそう書いてあった。
思った通り、大男は苦悶の表情でひざまずいた。生まれて初めて、金的攻撃を受けたのだろう。混乱しているようだった。
僕はすぐに車に乗り込んで、アクセルを踏んだ。しかし、車は動かなかった。エンジンが唸りを上げるだけだった。
こんなときに壊れてしまったのかーー焦って窓から下をのぞき込むと、車体が浮いて、タイヤが空回りしてた。見ると、魔物の子供が車を持ち上げていた。
僕は忘れていた。あの子供が見た目に寄らず力持ちであることを。恐らく、降りていって攻撃したところでこちらがやられるだけだろう。
「ねえ君、歌を歌って」
泣きじゃくっている彼女に向かって、僕は言った。
「無理・・・・・・」
彼女は嗚咽交じりにそう答える。鼻水が垂れて、彼女が言葉を発した拍子に飛び散った。
「でも、歌わないと僕達ここで殺されてしまう」
それでも、彼女は無理と言った。
僕は彼女を抱きしめた。どうしてそうしたのか、よくわからない。彼女が歌わなければ、本当に僕達はこのまま、回復した大男に殺されてしまうだろう。もしかしたら、死ぬよりももっとつらい目に遭うかも知れない。そう思ったら、彼女を抱きしめたくなったのだ。
腕の中で、彼女の嗚咽が小さくなって行くのを感じた。完全に落ち着くと、彼女はそっと僕を押しのけた。そして、深呼吸を一つすると、おもむろに歌い始めた。
その歌声は、強く、清らかで、ピアノの音色を思い起こさせた。世の中には色々な種類の楽器があると言うが、そんな楽器でも彼女の歌声には敵わないだろう。
歌を歌い始めると、うめいていた大男も静かになり、子供も車を持ち上げるのをやめた。僕はゆっくりとアクセルを踏んだ。




