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滅んだ世界より愛を込めて(旧版)  作者: よねり
第一章 旧世界のディストピア
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 風に当たっていると、彼女が出てきた。腕に捕まらせたとき、良い匂いがした。家を出るときに、玄関にあった祖父の杖を彼女のために持ってきたが、彼女は使いたくなさそうだった。

 二人とも、銭湯に置いてあった服に着替えた。彼女は他人が着ていた服なんて、と嫌がったけれど、雨に濡れた服を再び着るよりはマシだと思ったのか、最終的には着替えた。それでも、元々着ていた服は持って行くつもりのようだった。

 鳥の鳴き声がした。

「綺麗な声。誰かいるの?」

 彼女が空を見上げる。あの巨鳥が巣の上に立ち、羽を広げて鳴き声を上げていた。

「鳥だよ」

 彼女は驚いたように息を呑んだ。

「本当に、何から何まで変なところね。何もかもが違う」

「そんなにかい?」

「そうね。目が見えなくて良かったかも知れない。もし目が見えていたら、卒倒していたわ」

 車に乗ると、ガソリンを入れるついでに鳥の巣の下まで行った。昨日の雨のせいだろうか、木の枝がたくさん落ちていた。建物を巣につかっている動物も、今日は姿がまばらだった。

 見上げると、鳥が僕たちを見下ろしていた。遠かったが、鳥は慈愛に満ちた瞳で僕達を見下ろしているように見えた。その瞳は祖父を思い出した。どうして、あの鳥が人間を守ってくれるのかわからないが、僕はあの鳥に助けられたときのことを感謝していた。

 ガソリンを入れ終わると、僕はふと思い出したことがあった。いつか、白馬に乗ってお姫様に会いに行こうと思っていたのだ。車は白かったが、残念ながら馬では無かった。

 振り返って「白馬じゃ無くて悪いけど」と言った。彼女は首をかしげた。だよな、と思って肩をすくめた。

 町を出るため車を走らせた。途中、僕は車を止めると彼女に言った。

「学校って行ったことある?」

 彼女は何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わず首を振った。

「学校へ行ったことはないわ。私は他の子と違うもの」

「他の子? やっぱり他にも人がいるの?」

 彼女はしまった、とした表情をしたあと、黙ってしまった。僕は彼女の肩をつかんだ。

「知っていることがあるなら、教えてよ」

 彼女は縮こまってしまった。まるでダンゴムシのようだ。

 僕が車を止めたのは、小学校の前だった。何度か来たことがある。机と椅子があって、教科書があって、ピアノがあった。楽譜の読み方がわからないけれど、ピアノをめちゃくちゃに弾いているときは楽しかった。ヴァイオリンもあったが、それはうまく音が出なかったからすぐにやめてしまった。音楽の教科書通りにやってみても、ちっとも上達しなかった。

「ねえ、君はピアノを弾ける?」

 彼女は少し考えたような顔をして、頷いた。

「少しだけね」

 僕は思わず声を上げてしまった。

「少しで良いよ、弾いてみて」

「どこで?」

「この小学校にピアノがあるんだ」

「小学校?」

「今、僕達は小学校の前にいるんだよ」

 言うと、彼女は窓の外へ顔を向けた。まるで見えているみたいに、小学校を見上げて懐かしむような切ないような表情をした。

「やだ」

「どうして」

「ピアノなんて弾けないもん」

「今、弾けるって言ったじゃ無いか」

「言ってない」

 彼女はうつむいて、吐き出すように言った。

 僕は車を発進させた。すると、彼女が顔をあげて「もう行くの?」と言った。僕は何も言わずに少し走ったあと、車を止めた。車は門から入って、校舎の目の前に止まった。

「音楽室へ行こう。ピアノ、聞かせてよ」

 彼女は良いとも悪いとも言わなかったが、彼女を引く手を嫌がることは無かった。

 音楽室は三階にあった。校舎の中は埃が積もって、歩くたびに足跡がついた。

「懐かしい匂いがする」

 確かに、この中は独特の匂いがした。良い匂いとは言いがたかったが、僕はその匂いが嫌いでは無かった。

 音楽室の扉はがたついていて、開けるのにコツが必要だった。扉を開くと、一層埃の湿気たような匂いがした。

 僕は急いでピアノを拭いて埃を落とした。まるで上品ぶるみたいに、椅子にハンカチを置いてあげると、彼女をそこへ誘導した。

 彼女は鍵盤に指を置き、撫でるようにその位置を確かめた。そして、ピタリと動きを止めると、たっぷり五分くらいはそのまま固まった。具合でも悪いのかと思ったけれど、彼女が集中しているのだと言うことは横で見ていてもわかった。

 不意に彼女が体を起こしたと思うと、指が軽やかに鍵盤の上を踊った。僕が弾いたときはあんなに重かった鍵盤が、まるで雲を押すように軽やかに動いている。

 ピアノが響かせる音の、一つ一つが並んで、風が髪を撫でるように心地よく耳を叩く。音楽という言葉を、初めて知ったような気持ちがした。

 あの雨音が煙る中聞いた彼女の歌声にも、魂のようなものを感じたが、ピアノを弾いている彼女は、そのときとは違った迫力を持っていた。

 一つの曲を弾き終わったのだろう。彼女が深く吐息を漏らした。

「今のはなんて言う曲?」

「ショパンの雨だれ」

「綺麗な曲だね」

 彼女は迷ったような間を置いて言った。

「私もショパンは好きよ」

 他にも何か弾いてくれるかと思って期待したが、彼女はそのまま鍵盤蓋を下げた。もっと弾いてくれるように頼もうかと思ったが、彼女の表情を見ているといえなかった。

「ひどい調律。ずっと放置されてきたのね、可哀想」

 鍵盤蓋を優しく撫でると、彼女は椅子から立ち上がった。急に彼女が大人びて見えた。

「行きましょう。どこに行くか知らないけれど」

「冒険さ。冒険に目的地なんてないっておじさんが言ってた」

「おじさん?」

「そう、おじさん」

「他にも人がいるの?」

「いるよ、かっこいいおじさんなんだ」

「どこにいるの?」

 まるで探るような言い方に、僕は「知らない」といってしまった。なんでだろうか。とても、胸がそわそわした。

 彼女はふうん、と鼻を鳴らした。もっと突っ込んでくるかと思ったが、それきり彼女は何も言わなかった。

 車に乗ると、僕は尋ねた。

「君は音楽家なの?」

 何気なく言ったつもりだったが、彼女は急に体を震わせて「違うわ」と声を荒げた。その拍子に、シートベルトが外れた。

「ごめんね、何か怒らせること言った?」

 驚いて、エンジンをかける手を滑らせてしまった。彼女はハッとした顔をして、首を振った。

「いいえ。でもなんで」

「君の歌も、さっきのピアノも凄く上手だったから」

「私よりもうまい人なんてたくさんいる」

 彼女の声は、とても冷たく聞こえた。

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