38
風に当たっていると、彼女が出てきた。腕に捕まらせたとき、良い匂いがした。家を出るときに、玄関にあった祖父の杖を彼女のために持ってきたが、彼女は使いたくなさそうだった。
二人とも、銭湯に置いてあった服に着替えた。彼女は他人が着ていた服なんて、と嫌がったけれど、雨に濡れた服を再び着るよりはマシだと思ったのか、最終的には着替えた。それでも、元々着ていた服は持って行くつもりのようだった。
鳥の鳴き声がした。
「綺麗な声。誰かいるの?」
彼女が空を見上げる。あの巨鳥が巣の上に立ち、羽を広げて鳴き声を上げていた。
「鳥だよ」
彼女は驚いたように息を呑んだ。
「本当に、何から何まで変なところね。何もかもが違う」
「そんなにかい?」
「そうね。目が見えなくて良かったかも知れない。もし目が見えていたら、卒倒していたわ」
車に乗ると、ガソリンを入れるついでに鳥の巣の下まで行った。昨日の雨のせいだろうか、木の枝がたくさん落ちていた。建物を巣につかっている動物も、今日は姿がまばらだった。
見上げると、鳥が僕たちを見下ろしていた。遠かったが、鳥は慈愛に満ちた瞳で僕達を見下ろしているように見えた。その瞳は祖父を思い出した。どうして、あの鳥が人間を守ってくれるのかわからないが、僕はあの鳥に助けられたときのことを感謝していた。
ガソリンを入れ終わると、僕はふと思い出したことがあった。いつか、白馬に乗ってお姫様に会いに行こうと思っていたのだ。車は白かったが、残念ながら馬では無かった。
振り返って「白馬じゃ無くて悪いけど」と言った。彼女は首をかしげた。だよな、と思って肩をすくめた。
町を出るため車を走らせた。途中、僕は車を止めると彼女に言った。
「学校って行ったことある?」
彼女は何か言おうとして口を開きかけたが、結局何も言わず首を振った。
「学校へ行ったことはないわ。私は他の子と違うもの」
「他の子? やっぱり他にも人がいるの?」
彼女はしまった、とした表情をしたあと、黙ってしまった。僕は彼女の肩をつかんだ。
「知っていることがあるなら、教えてよ」
彼女は縮こまってしまった。まるでダンゴムシのようだ。
僕が車を止めたのは、小学校の前だった。何度か来たことがある。机と椅子があって、教科書があって、ピアノがあった。楽譜の読み方がわからないけれど、ピアノをめちゃくちゃに弾いているときは楽しかった。ヴァイオリンもあったが、それはうまく音が出なかったからすぐにやめてしまった。音楽の教科書通りにやってみても、ちっとも上達しなかった。
「ねえ、君はピアノを弾ける?」
彼女は少し考えたような顔をして、頷いた。
「少しだけね」
僕は思わず声を上げてしまった。
「少しで良いよ、弾いてみて」
「どこで?」
「この小学校にピアノがあるんだ」
「小学校?」
「今、僕達は小学校の前にいるんだよ」
言うと、彼女は窓の外へ顔を向けた。まるで見えているみたいに、小学校を見上げて懐かしむような切ないような表情をした。
「やだ」
「どうして」
「ピアノなんて弾けないもん」
「今、弾けるって言ったじゃ無いか」
「言ってない」
彼女はうつむいて、吐き出すように言った。
僕は車を発進させた。すると、彼女が顔をあげて「もう行くの?」と言った。僕は何も言わずに少し走ったあと、車を止めた。車は門から入って、校舎の目の前に止まった。
「音楽室へ行こう。ピアノ、聞かせてよ」
彼女は良いとも悪いとも言わなかったが、彼女を引く手を嫌がることは無かった。
音楽室は三階にあった。校舎の中は埃が積もって、歩くたびに足跡がついた。
「懐かしい匂いがする」
確かに、この中は独特の匂いがした。良い匂いとは言いがたかったが、僕はその匂いが嫌いでは無かった。
音楽室の扉はがたついていて、開けるのにコツが必要だった。扉を開くと、一層埃の湿気たような匂いがした。
僕は急いでピアノを拭いて埃を落とした。まるで上品ぶるみたいに、椅子にハンカチを置いてあげると、彼女をそこへ誘導した。
彼女は鍵盤に指を置き、撫でるようにその位置を確かめた。そして、ピタリと動きを止めると、たっぷり五分くらいはそのまま固まった。具合でも悪いのかと思ったけれど、彼女が集中しているのだと言うことは横で見ていてもわかった。
不意に彼女が体を起こしたと思うと、指が軽やかに鍵盤の上を踊った。僕が弾いたときはあんなに重かった鍵盤が、まるで雲を押すように軽やかに動いている。
ピアノが響かせる音の、一つ一つが並んで、風が髪を撫でるように心地よく耳を叩く。音楽という言葉を、初めて知ったような気持ちがした。
あの雨音が煙る中聞いた彼女の歌声にも、魂のようなものを感じたが、ピアノを弾いている彼女は、そのときとは違った迫力を持っていた。
一つの曲を弾き終わったのだろう。彼女が深く吐息を漏らした。
「今のはなんて言う曲?」
「ショパンの雨だれ」
「綺麗な曲だね」
彼女は迷ったような間を置いて言った。
「私もショパンは好きよ」
他にも何か弾いてくれるかと思って期待したが、彼女はそのまま鍵盤蓋を下げた。もっと弾いてくれるように頼もうかと思ったが、彼女の表情を見ているといえなかった。
「ひどい調律。ずっと放置されてきたのね、可哀想」
鍵盤蓋を優しく撫でると、彼女は椅子から立ち上がった。急に彼女が大人びて見えた。
「行きましょう。どこに行くか知らないけれど」
「冒険さ。冒険に目的地なんてないっておじさんが言ってた」
「おじさん?」
「そう、おじさん」
「他にも人がいるの?」
「いるよ、かっこいいおじさんなんだ」
「どこにいるの?」
まるで探るような言い方に、僕は「知らない」といってしまった。なんでだろうか。とても、胸がそわそわした。
彼女はふうん、と鼻を鳴らした。もっと突っ込んでくるかと思ったが、それきり彼女は何も言わなかった。
車に乗ると、僕は尋ねた。
「君は音楽家なの?」
何気なく言ったつもりだったが、彼女は急に体を震わせて「違うわ」と声を荒げた。その拍子に、シートベルトが外れた。
「ごめんね、何か怒らせること言った?」
驚いて、エンジンをかける手を滑らせてしまった。彼女はハッとした顔をして、首を振った。
「いいえ。でもなんで」
「君の歌も、さっきのピアノも凄く上手だったから」
「私よりもうまい人なんてたくさんいる」
彼女の声は、とても冷たく聞こえた。