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どうして、生まれた瞬間の記憶は無くなってしまうのだろう。
幼い頃の記憶は、徐々に薄らいでいって、まるで最初からこの世界に自分が存在したように思えた。
生まれて数年はその記憶も保持しているのかも知れない。ただ、今の僕には全く覚えが無かった。母に抱かれた記憶も無ければ、父に声をかけられた記憶も無い。祖父は何も教えてくれなかった。
昨日の雨など、まるで無かったことのようにカラリと空が晴れていた。空の高さが夏の終わりを予感させた。
車の窓から入ってくる風は、潮風の匂いと土の匂いがした。この匂いは土の中の微生物が有機物を分解するときの匂いらしいが、いまいちピンとこない。本の挿絵では、かわいらしい虫のような生き物が泡を吹いていたのを見たことがある。
助手席では彼女がうたた寝していた。風が彼女の頬を撫で、髪の毛をさらった。長い髪の毛が風に遊び、柔らかそうに踊っていた。
まだあれから一日も経っていないということが嘘のようだ。彼女の歌に魔物は大人しい犬の様になった。彼女が歌うのをやめたあとも、家の中に入ってくることは無かった。もしかしたら彼女のこともさらっていこうとするかも知れないと思ったが、そんなことは無かった。悲しそうな鳴き声を上げ、明け方にはいつの間にかいなくなっていた。
魔物は彼女をどうこうする気は無いのかも知れない。しかし、いつまでもそうであるとは限らない。僕達は夜明けとともに家を出た。疲れてしまったのだろう。彼女は大人しかった。起きたら魔物のことを説明しなければならないだろう。
運転席は魔物の臭いがした。町に着いたら別の車に乗り換えたい。
町は遠くからみても、鳥の大きな巣が見えた。今日は鳥が巣の上に鎮座している。
車を止めると、彼女が目を覚ました。少し空を見上げて、僕の方を見た。
「どこについたの」
「町だよ」
「どこの町」
「町は町さ」
それ以上、彼女は何も聞いてこなかった。その代わり、ぽつりとお風呂に入りたいと呟いた。僕もそれには同意見だった。
家を出た、というよりも旅に出たという方が正しいだろう。他に生きている人間を探したい。彼女がこの世に存在してくれたのだから、他にも人がいたっておかしくない。彼女はもういないと言っていたが、本当かわからない。彼女は何か隠している気がする。
それにーー僕は車に搭載されているラジオを見た。ラジオを流している人がいるはずなのだ。ラジオ局が存在するのだ。今日はどの周波数もノイズしか聞こえなかった。
町に魔物が来ないとも限らないが、旅に出るのに手ぶらというわけにはゆかない。食べ物も水も必要だ。それに、服も着替えなければならない。
陽光は暖かいが、時折冷たい風が吹いた。
お風呂に入りたいという彼女の要望を、僕は叶えてあげたかった。銭湯がこの町にはあり、発電機もボイラもあった。祖父はお風呂が嫌いだったが、時折銭湯に入りたがった。
発電機は今も使えるだろうか。この発電機というものが、僕にはよくわからない。ガソリンスタンドにあるのはA重油が燃料だったのに対して、銭湯の発電機は軽油だった。同じ石油からできるものなのだから、どちらでもよいのではと思ったが、そうではないと祖父が言っていた。間違った燃料を入れると不完全燃焼してエンジンが回らないどころか壊れてしまうのだそうだ。なぜ重油や軽油など燃料が違うのかと聞いたが、税金がどうとうか発熱量がどうとか、僕にはよくわからなかった。そういったエンジニアリング的なことが、祖父は得意だった。
銭湯に着くと、彼女は「銭湯って何?」と言った。彼女がいたところには無かったのだろうか。僕は「大きなお風呂だよ」とだけ答えた。
発電機とボイラを起動した。ボイラに供給されるガスはどこから来ているのだろうか。もしかしたら、ガスではない何かで動いているのかもしれない。これだけの量のお湯を常時作るには、電気の力では無駄が多すぎるだろう。ふと屋根を見ると、太陽熱を利用した温水装置が見えた。まさか、あれを利用しているのだろうか。解明してみたい気もしたが、今の僕たちにはただお湯が出るという事実だけが重要であり、学術に挑む時間的余裕は存在しなかった。残念な気もしたが、いつか解明してみたい。
銭湯には男湯と女湯があった。彼女は一人でお風呂には入れないだろう。脱衣所で服を脱いで振り返ると、彼女は服を脱がずにじっとしていた。
「どうしたの、服を脱がなくちゃあ、お風呂には入れないよ」
彼女は顔を赤らめて、僕をーー僕のいる辺りの空間をにらみつけた。
脱がせてほしいと言うことだろうか、と思って彼女の服に手をかけたが、激高されてしまった。彼女のヒステリックな叫び声が耳をついた。鼓膜が破れるのではないかと思った。
「自分で脱ぐから、先に行っていて」
怒った声で彼女は言った。僕は彼女にタオルを渡して風呂場へ向かった。
僕が体と頭を洗って、お風呂に浸かってからようやく彼女が風呂場に姿を見せた。手探りで歩いている。僕は風呂から出て彼女を導こうとしたが、彼女は「来ないで」と言った。
「どうして、危ないよ」
「いいの、とにかく知らない人に体を見られるのは嫌」
「知らない人じゃ無い」
「知らない人よ、私あなたのこと何も知らない」
頑なな彼女を安心させたくて、僕は風呂の中に再び戻った。壁際まで下がってから彼女に声をかける。
「ここからじゃあ湯気で君のことは見えないよ。好きにしたら良い」
半ば投げやりに言う。一体何が嫌だというのだろう。
風呂の中に潜った。水の音がする。まるで別の世界に飛び込んだような気分である。
ここを出たらまだ行ったことの無い方向へ行こうと思った。いつも、海の周りしか行ったことが無かった。山の中は危険だからいくなと祖父に言われていた。確かに、山の麓の洞窟には魔物の巣があったし、猪などもいるだろう。物の本によると、電波というのは遠くに飛ばす必要があるらしい。だったら、山の上にラジオを放送している人がいるのでは無いだろうか。時間はたっぷりあるのだ。ゆっくり探していけば良い。それより気になるのは彼女のことだ。彼女から、もっと話を聞き出せないだろうか。
水面から顔を出すと、彼女が風呂の中に入ってこようとしているところだった。彼女が足を踏み外してしまわないかハラハラした。彼女の手足は短くて、ぬいぐるみみたいだった。
「ねえ、君のいたところにはどんなお風呂があったの」
声をかけると、彼女は僕に背中を向けた。
「さあ、目が見えないからわからない」
「このお風呂より大きいか小さいかっていったら」
「家のお風呂はこんなに大きくなかったけど、旅行に行ったときなんかはこれくらい大きいお風呂はあった」
「旅行って、それは冒険とは違うの」
「冒険?」
彼女は振り返って怪訝な表情を見せた。
「そうだよ、冒険。僕達は今、まさに冒険の真っ最中じゃないか」
彼女は同意とも不同意とも示さなかった。
「いつも、パパは車で私を色々なところへ連れて行ってくれた」
「パパ、ねえ」
それが父親を示す言葉だと言うことは知っていた。僕にとっては祖父がその役なのだろう。違いなんてわからない。
「それと猫も一緒よ」
「猫かあ。猫は凶暴だから好きになれないんだよな」
「そんなことないわ。大人しくて可愛いのよ」
それが本当だとすると、僕は猫に好かれていないらしい。何度も襲われたことがあった。
「ベル・・・・・・会いたいな」
彼女の涙が水面に落ちた。彼女は泣いてばかりだ。女の子って言うのは、こんなにいつも泣いてばかりいるのだろうか。
「ベルって言うのが、猫の名前?」
彼女は頷いた。
「ベルはどこにいるの?」
「わからない。おうちにいると思う」
「おうちはどこにあるの?」
彼女は首を振った。彼女はここがどこかもわからないのだ。家がどこにあるかなんて、わからないだろう。
「僕にはパパも飼い猫もいないけれど、寂しいと思ったことは無いよ」
言うが、彼女は何も答えなかった。
「あとはなんだろう。僕の事を説明したいんだけど、上手く説明できないな。あとはそう・・・・・・魔物のことを説明しておかないと」
「魔物?」
彼女が反応した。
「うん、昨日ね、雨の中、僕達を襲いに来たーー正確に言えば僕を襲いに来たんだけど、それが魔物」
彼女は何か思い詰めたような顔をした。
「魔物って、何なの?」
「魔物がなんなのかは僕もわからないんだ。とにかく、力が強くて凶暴で、恐ろしい存在なんだ。捕まったら・・・・・・」
捕まったときのことを思い出して、身震いした。
「とにかく、絶対に捕まっちゃいけない。だから、僕達はもうあの家には戻れない」
「私たち、ホームレスになってしまったの?」
「ホームレス? それは何?」
「家が無い人たちの事よ」
「そうだね、そうなったんだよ。どういうわけか、君の歌を聴いたら魔物が動かなくなっちゃったんだけど、君はあの歌が何か知っている?」
とても不思議に思っていたことだった。あの歌には、何か凄い力があるのだろうか。しかし彼女は首を振った。
「わからない。私が一番好きな歌。小さい頃、トイレの中で聴いていたの」
「トイレの中で?」
不思議だった。それ以上、彼女はそのことについては教えてくれなかった。
「とにかく、昨日は魔物が襲ってきて、僕達は今奴らから逃げているところなんだ」
理解してくれたのかはわからなかった。彼女は再び、思い詰めたような顔をして、黙ってしまった。
彼女が僕に先に出ろというので、先に風呂を出た。外は暑いだろう。せっかく汗を流したのに、また汗をかいてしまう。