36
雨は弱まることなく降り続けた。遠くから雷鳴が響いた。
「昔、神様が世界を水浸しにしたんだ。そのとき、ノアの箱舟に乗っていた生き物だけが生き残ったらしい。箱船に乗れた人は幸せだったのかな。僕は一人だけで残される方がつらいと思うんだ」
窓から見上げた空は、絶望が空を覆い尽くしたみたいに暗くて、僕の心を表しているかのようだった。ジメジメした空気が家の中にまで充満している。
振り返ると、彼女がこちらを見ていた。
「動物の声が聞こえる。何か飼っているの?」
「動物?」
身に覚えがなかった。ケルベロスのことだろうか。
「いや、動物は飼っていないよ。たぶん、この雨だとケルベロスも森の中だと思う」
「ケルベロス? かっこいい名前。犬?」
「狼だよ。頭が二つあるんだ。動物が好きなの?」
急に饒舌になった彼女が不思議だった。動物の話ならしてくれるのだろうか。
「そんな狼いないよ」
つまらなそうに、彼女が言った。
「いない?」
ケルベロスのことを話そうと思ったとき、近くで雷が鳴った。彼女が小さい悲鳴を上げた。辺りが光って、目がくらんだ。だから、窓が割れたとき、雷のせいかと思った。
それが予想もしていなかった事態だと理解できたとき、僕は激しい痛みに襲われていた。
「なに。どうしたの」
彼女は目が見えないからか、事態が理解できていなかった。窓が割れたのは雷のせいではないし、僕が傷を負ったのは窓の破片のせいでも側撃雷のせいでもなかった。
「逃げて」
僕の声は届かなかったのか、それともやつのうなり声でかき消されてしまったのか、彼女はその場から動かなかった。
窓を破って入ってきたのは、魔物に違いない。復讐しに来たのだ。
彼女に夢中になっていたせいで、奴らが復讐しに来るということを忘れていた。この家からも、逃げなければならなかったはずなのに。
窓を突き破って入ってきた腕に、僕は捉えられた。ガラスの破片が体に刺さって、チクチクした。少しして、皮膚が熱くなった。怪我をした箇所が燃えるようだった。
外に引きずり出されたとき、ガラスに皮膚が引っかかって切れた。それでも無理矢理引きずられたから、肌の露出している部分がえぐれて真っ赤に染まった。外は相変わらず雨が激しく降っていたから、血が肌を伝って地面に流れ出した。思っていたより血がたくさん出て、もしかしたらここで死ぬのかも知れないと思った。傷口は燃やされているみたいに熱かった。
そのまま、彼は僕を離さなかった。後ろから羽交い締めにされている。耳元で唸り声が聞こえてた。生臭い息が鼻をついた。家の中から彼女の声が聞こえる。なんと言っているかわからないが、女の子の声というのは、随分甲高くて耳をつくなあ、なんてのんきに考えていた。
雷がなり、一瞬あたりが明るくなった。ようやく視認できた相手の姿は、大男の魔物だった。
大男の腕は毛むくじゃらで、肌に当たる毛がゴワゴワしていて不快だった。足を踏ん張ってみるが、全く彼の力には対抗できなかった。彼は鬱陶しいと思ったのか僕を担ぎ上げた。途中、軽トラの横を通ったとき、少し足を止めて僕を運転席側から助手席に向かって放り投げた。彼はすぐに運転席に座り、エンジンをかけた。僕は助手席の扉を開けて逃げ出そうとしたが、彼の長い腕に捕まった。片手で首根っこを掴まれただけで、首が折れてしまいそうだった。身動きがとれない。
もうおしまいか、と思って僕は観念したとき、魔物の動きがピタリと止まった。エンジンをかけたまま、彼はキョロキョロと辺りを見回した。
彼の力が緩んだ。その瞬間、僕は助手席側の扉を開いてから外へ逃げ出した。激しい雨が僕の体を打った。慌てて走り出したが、魔物は僕を追ってこなかった。
一体どうしたことだろう、と不思議に思っていると、魔物は緩慢な動作で車から降りてきた。先程のような素早い動きとは違い、虚ろな目をしている。僕に執着していたくせに、今は僕のことなどどうでも良いとでも言うように、視界にさえ入っていなかった。
今のうちに、と思って家の中に駆け込む。雨が目に入ってよく見えない。近くに置いてあった服で乱暴に顔を拭いた。彼女はどこだろう、と探し始めて気付いた。何か音楽が聞こえてきていた。しかも、その歌を僕は知っていた。何度も何度も、あの洞窟で再生させられたあの歌だ。一体どうして、あの歌が聞こえてくるのか。
歌の聞こえてくる方へいくと、驚いたことに歌っているのは彼女だった。彼女を挟んで反対側の、破られた窓の外で魔物が佇んでいた。彼は、彼女の歌が聞こえたから僕を連れて行こうとするのをやめたのに違いない。
まるであの洞窟の中にいたときのように、歌を聴いている間の彼は置物にでもなったかのように微動だにしなかった。
僕の気配を察知したのか、彼女が歌うのをやめた。
「何があったの」
僕の方へ向かって、彼女が言った。
「何でも無いよ、ゆっくりこっちへ来て」
彼女は僕の声の方へ、ゆっくり向かってきた。
歌が終わってしまって、魔物は低く喉を鳴らし始めた。
「今の歌、もう一度歌って欲しいな」
「どうして」
「聞きたいんだ」
彼女は震える声で、再びあの歌を歌った。透明な、よく通る声だった。本来の幼い声に、腹式呼吸の深みのある音が混ざって、まるでオペラ歌手のようである。
唸り声は止んだ。やはり、彼女の歌に反応しているのだ。
僕はそっと台所へ行き、包丁を掴んだ。この家にある刃物の中で、最も刃渡りの長いものだ。
玄関から外へ出て、窓の方へ回った。魔物は僕に気付いていない。足音を立てないように近付いた。包丁を握る手に力が入る。
ゆっくり、ゆっくり近付く。チャンスは一度だけだ。
家の中から彼女の声が聞こえ続けている。唯一救いなのは、彼女に血を見せなくて済むと言うことだった。
あと数歩で魔物に届く。元々大きい彼が、より大きく見えた。あのゴワゴワした毛が体中を覆っていて、皮膚も黒いため真っ黒に見える。それが雨に濡れて、獣のようだ。
心臓がうるさい。包丁を持つ手が震えた。僕に、彼を殺すことが出来るのだろうか。今まで、考えないようにしていたが、彼は見た目は人間に近い。本当は人間なのでは無いだろうか。
あと一歩、あと一歩踏み込んだら思い切りこの包丁を彼の横腹に突き立てる。頭の中で何度もシミュレートした。
息が苦しい。酸欠になりそうだった。彼の体から饐えた臭いがして、余計呼吸がしづらかった。
今だ、と思って腕に力を入れたとき、彼女の歌が止んだ。
「ねえ、聞いてる?」
僕の気配が無くなって不安になったのだろう、彼女は先程まで僕がいた方に声をかけた。
ハッと気がつくと、再び魔物が喉を鳴らした。
しまった、失敗だーー急いでその場から離れようと思ったが、このチャンスを逃したらもうあとはない。思い切って包丁を彼の方に押し出した。
魔物は唐突にその場に膝をつき、顔を手で覆った。人のような声で泣いた。獣の唸り声とも、人間の泣き声とも似た声だった。
僕の手は、彼の手前で止まっていた。包丁は彼の体毛の一本も傷つけることなく、直前で止まった。結局のところ、僕には彼を殺す勇気が無かった。震える手から包丁がこぼれ落ちた。金属音がしたが、魔物は振り返ることは無かった。
僕の耳には、激しい雨の音と、激しい魔物の鳴き声だけが、いつまでもいつまでも聞こえていた。




