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うなり声が聞こえた。びくり、と体が震える。あの魔物のことがまだトラウマのように体に刻み込まれているのだ。今朝見た夢のせいかもしれない。
夢の中で、僕は何かを頬張っていた。生肉の味が口の中に広がる。次に鉄の臭い。目の前には、彼女の頭が転がっていた。僕は夢中で彼女の肉を、目玉を、ほじくって口に運んでいる。血の池に映った僕の顔は、魔物と似ていた。
あのうなり声は、おそらく頭が二つある狼、ケルベロスのものだろう。夜になると遠吠えともうなり声ともつかない声がたまに聞こえる。その声が聞こえた後は、決まって大雨が来るのだ。
「雨が来るよ」
彼女に言うと、彼女は顔を上げて鼻をヒクつかせた。
「雨の匂い・・・・・・」
つぶやくように言った。視覚がない分、嗅覚が鋭敏なのだろうか。
それから一時間も経たないうちに、空が真っ暗になり大粒の雨が降り始めた。
窓をたたく雨の音を聞きながら、僕は彼女に尋ねた。
「君はどこから来たの」
彼女は答えない。
「どうして教えてくれないの。君の他に人間はいるの?」
尋ねると、彼女は顔を膝に埋めてうなった。ケルベロスのうなり声に比べると、ずっとかわいらしかった。柔らかくて真っ黒な髪の毛が、彼女の白いワンピースに映えた。
「他に人がいるなら会ってみたい。おじいちゃんはこの世界が滅んだって言うけれど、もしかしたら、他に人がいるかもってずっと思っていたんだ」
彼女は顔を上げると、ゆっくりと、まるで歌うように言った。
「世界は滅んだわ。この世界から人はいなくなったの。いるのは魔物だけ」
「君が生き残っているじゃないか。どうやって今まで生きてきたの」
「私は人間じゃないの。だから捨てられたの」
「どういうこと」
「私は人間の姿をした魔物なのよ」
彼女は再び口を閉じてしまった。




