13
足音がする。また、あの魔物だ。魔物には目が四つあり、手も八本生えていた。やつは僕を見つけると、ゆっくり、ゆっくり近付いてきた。
体が動かない。金縛りだ。
四つの目で、やつは僕の顔をのぞき込む。生臭い息が顔に当たる。顔を背けたかった。
魔物は生臭い息を吐きながら、顔を近づけてくる。そのまま、僕の耳に口を押し当てて、何か囁いた。
「え? 何を言ったの?」
何か言っているが、聞き取れない。
そして、魔物は僕の顔を生臭い舌で嘗め回すとどこかへ行ってしまった。
「待って!」
自分の声で目を覚ました。
「夢か」
顔を触ってみる。ベタベタしていた。一瞬。何かとてつもなく嫌なことを思い出したような気がしたが、すぐに忘れてしまった。何か生臭いような気がする。
「そんなに汗をかくほど、楽しい夢を見ていたんだな」
火の消えた木材の前で、おじさんがスルメをかじっていた。
「おはよう。何か夢を見ていた気がするんだけれど、忘れちゃった」
毛布で顔をこすった。
「ああ、おはよう。もう日が高いぞ。じい様に怒られっちまう」
僕は起き上がると、大きくのびをした。
「おじいちゃんはもう死んだよ。忘れたの?」
言うと、おじさんは寂しそうな顔をして笑った。
「ああ、そうだったか・・・・・・うん、そうだったそうだった」
まるで自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
「ガソリンスタンドは向こうだぞ」
おじさんが顔を上げずに指さした。あまりそちらへはいったことが無かった。町の奥の方は荒れていて、道も良くない。アスファルトの割れ目から植物がでたらめに生えているので、車で行く気にもなれなかった。
町の奥へ足を踏み入れるのは緊張した。昨日見た魔物が、また現れるかもしれないからだ。それにーーレッサーデーモンを思い出す。凶暴な動物に出会うかもしれない。
メインストリートには、お店が並んでいた。歩道はそれほどでもないが、車道は僕の背丈よりもずっと大きな細い蔓のような物が生えていた。
奥に行けば行くほど、動物が巣にしている店が多かった。大抵は入り口が潰されて、縄張りを示すように糞が塗りたくられている。
遠くにひときわ大きな建物が見えた。建物とは言え、途中から崩れているので、もとがどれくらい大きいものだったのかはわからない。そのてっぺんの崩れたところに、小木や藁を敷き詰めた鳥の巣があった。今日は鳥の姿を見ない。
鳥の巣の下にガソリンスタンドはあった。丁度、軽トラが一台止まっていた。鍵もついており、エンジンはかかった。ホッと吐息をつく。これで家に帰れる。
ガソリンスタンドには、お店があった。中には何に使うのかよくわからない工具や、オイルなどが並んでいた。テーブルの上に、お菓子が置いてあったが、カビが生えていた。
ここには用事はないな、と思って顔を上げると、何か緑色のものがこちらを見ていた。
カマキリだった。
僕の家の周りでは、カマキリは小さいサイズのものが多いが、この町の中では、僕の背を優に超すサイズが存在しているようだ。たまに振り回す釜は空を裂き、ガラスを隔てていても、風を切る音が聞こえてきそうだ。
大きな目が、僕を捉えていた。興奮したように、腹部が震える。残念ながら、僕を餌として認識したようだ。
幸い、僕は店舗内にいる。カマキリもこの中へは入ってこられないのだろう、店の中は動物に荒らされたような形跡は無かった。油の臭いと、食べ物がないせいだろう。
とはいえ、このままこの中にいてもじり貧である。トラックまで走り、僕が先にたどり着くかカマキリが先に僕を捕まえるかの競争だ。
生存確率を限りなく高めるために、何か使えるものは無いだろうか。見渡してみる。ライターがあった。これで紙に火をつけて手に持てば、敵もひるむだろう。
僕は手近にあった新聞紙をトーチにしようと思ったが、ふと外にある赤い看板が視界に入った。
『火気厳禁』
他に危険という文字も見える。店の中を見ると、カウンタの内側にも火気厳禁と書かれていた。すぐ横に、ガソリンがいかに危険かと言うことが書かれている。それによると、気化したガソリンは非常に危険で、着火するとすぐに爆発してしまうらしい。さらに誘爆してこのガソリンスタンドそのものが吹き飛ぶのだと、ドクロマークのイラスト付きで説明されている。
僕は手に持った新聞紙に視線を落とした。危なかった。もう少しで死ぬところだった。カマキリをやっつけるには充分だが、自分が死んでは元も子もない。
他になにかないか。店の外から、巨大カマキリが微動だにせず僕を見ている。カマキリというやつは、大きくても小さくてもそうなんだなと思った。僕も虫を捕って遊ぶのが好きだった。たまにカマキリを見つけると、じっとして全く動かないときがあった。一体何を考えているのだろうといつも不思議だった。
今はあのカマキリが何を考えているのかわかる。僕が出てきたら捕食する、それだけのために神経をとがらせているのだ。
火はだめだ。では何がある。
太陽の光がまぶしかった。このガソリンスタンドは硝子張りだった。だから、どのように隠れていてもカマキリに見つかってしまうのだ。
ふと思い立った。店の中にいるだけで、これだけ眩しいのだ。光を集めて攻撃できないだろうか。つまり、日があるうちがチャンスだ。
僕は急いで鏡を探した。カウンタの内側に小さな手鏡があった。それを日の当たるところに置いてみる。うまい具合に光を反射した。カマキリの目に当ててみると、一瞬怯んだが、少し頭を動かしただけで彼の食欲は微塵も削がれなかったようだ。
もっと大きい鏡が必要だ。それも何枚も。
手鏡は、店舗内で販売されているものらしかった。小さいが、数が集まれば少しは攻撃力も上がるだろう。
しかし、それだけ集めたところで、まだカマキリを撃退するには力及ばなかった。
持久戦に持ち込むかーーこちらには兵糧が無い。カビの生えたお菓子を食べてみようか。カマキリは何日食べずに生きていられるだろうか。
喉が渇いた。見回すと、ペットボトルの水が行儀良くいくつも整列していた。そのうちの一つを飲んだ。自分が思っているよりも、随分喉が乾いていたらしい。一気に500mlを飲み干してしまった。
急に湧き上がる尿意。トイレに行き、洗面台に手を突いてどうしたものか、と呟いた。
ふと顔を上げると大きな鏡があった。僕は慌てて工具を持ってきてそれを外した。鏡は全部で三枚あった。一枚一枚が重く、割れないように気をつけて外す。持ってみると、思ったよりもずっと重かった。手が痺れて落としてしまいそうだ。しかし、これは自分の命だ。鑑を落とすと言うことは、命を落とすのと同義である。いつもよりも慎重に鑑を扱った。
ようやくすべて外したあと、カウンタに立てかけてみた。中々、良い角度が見つからない。
徐々に、日は傾きつつある。
早く・・・・・・早く。
あれこれ試行錯誤している内に、気がつくとカマキリの姿が消えていた。
心臓がはねた。奴はどこへ行ったーー。
ガシャーー店舗の奥から音がした。慌てて音のした方を見る。通路に出て、右がトイレ、左が外と通じる扉だった。扉は窓が割れていた。割れた硝子窓に、何かねっとりした液体が付いていた。何だろう、と思い近付いたとき、天井から何か垂れた。何だろうと思ってかがむと、すぐ頭上で何かが通り過ぎた。見上げると、天井にカマキリがとまっていた。右の鎌が、壁に突き刺さっていた。かがまなかったら、僕の頭と体は泣き別れになっていたところだろう。
カマキリは、一瞬、そういうオブジェなのかと思うほど現実感が無かった。
僕は悲鳴を上げて後ずさった。それと同時に、ほんの数秒前まで僕がいたところにカマキリが落ちてきた。慌てて店舗の中へ戻る。カマキリも追いかけてこようとしたが、壁に刺さった鎌が抜けず動けないでいた。
ガラス扉から外へ出る。中を窺ってみたが、カマキリが追いかけてくる気配は無かった。あの大きさだ。随分腕力が強いのだろう。あの壁に刺さった鎌はもう抜けないのでは無いだろうか。
トラックに乗り込むと、僕は鍵を回した。インストルメントパネルに警告がつく。見ると、ガソリンがほとんど空だった。この軽トラは、ガソリンを入れようとしてここにおかれたものだったのだ。
なんとタイミングの悪い。一秒でも早くここから立ち去りたいというときに、ガソリンを入れねばならないなんて。
店舗脇にある非常用電源をオンにした。発電機は、カマキリが侵入した裏口のすぐ近くだった。恐る恐る中をのぞき込むと、カマキリはまだ鎌が抜けずにもがいていた。少しすると、嫌な臭いのする排煙がガソリンスタンドを覆った。ポンプに給電される。
走って戻り、給油のガンを握ると、ゆっくりとメータが上がって行く。焦っているからだろうか。いつもより遅く感じる。何度も振り返って、カマキリが来ていないか確認した。
「よし!」
ガソリンが満タンに入ったのを確認すると、僕はガンを投げ捨てた。
トラックに乗り込むと、エンジンをかける。そのまま発進しようとしたが、発電機を止めていないことに気付いた。あれは燃料で電気を発電する物だ。燃料が無くなったら使えなくなってしまう。祖父からも、あれは命綱なので、絶対に回したままにしてはいけないと教えられていた。
再び軽トラから降りて、非常用発電機を止めに行く。発電機の停止ボタンを押すと、震えながら発電機は止まった。
戻ろうとしたとき、視界の端に影が見えた。慌てて振り返ると、先程のカマキリだった。壁に刺さっていた方の鎌は、方からちぎれていた。自らちぎったのだろう。残りの鎌で僕を襲おうとしたが、上手く重心が保てずよろけて転んだ。起き上がるのも一苦労のようだ。窓から這い出すときに腹を切ったのか、体液がこぼれていた。遅かれ早かれ、このカマキリは死ぬだろう。なぜだか、悪いことをしてしまったように感じていた。
それでも、カマキリの戦意は喪失していなかった。起き上がって僕を追ってくる。いつもカマキリの動きは緩慢だと思っていたが、意外なことにカマキリというのは獲物を攻撃するときはものすごい俊敏さを発揮する。軽トラまでたった数メートルしか無い上に、スタート時のアドバンテージがあったはずなのに、追いつかれそうだった。
もう駄目かーーそう思ったとき、大きな影が頭上に現れた。それが何か認識するより早く、カマキリが視界から消えた。
見上げると、あの巨大な鳥だった。大きな足でカマキリを掴み、巣へ飛んでいった。
翼の風圧で吹き飛ばされた僕は間抜けにも口を開けたまま、地面にへたりこんで空を見上げた。
「よかった・・・・・・」
命が助かった、という安堵感が少ししてからやってきた。どっと疲れて、その場に寝そべった。
「あぶねえところだったな」
急に声をかけられてびっくりしたが、みると助手席からおじさんが顔を出していた。
「おじさん、いつの間に」
「さっきからここで待っていたよ」
「だったら助けてくれたら良いのに」
「それじゃあ、お前が強く育たないだろう」
「死んでしまったら元も子もないじゃ無いか」
おじさんは答えず笑った。また歯が減ったように思う。
「早く帰ろうや」
「はいはい」
立ち上がって、運転席に乗り込んだ。
「あ、そうだ」
エンジンをかけたとき、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「トイレットペーパを拾いに行かなくちゃ」