白
――何も、見えない。
――何も…わからない。何も無い…。
“何も無い”って何色だろうな。
“目の前が真っ暗になった”だとか、“頭が真っ白になった”だとか。そんな言葉が、よく使われている気がする。大抵の人は、黒か白のどちらかを答えるんじゃないだろうか。
しいて俺の意見を言うなら…答えは“白”だと思う。
具体的な日付は覚えていない。でも、寒さが厳しい日だった気がする。俺は過労で倒れたらしい。
あの瞬間は、よくわからなかったけど…。上も下も、今居る場所も無くなって…ただ視界が真っ白だった事だけ覚えてる。次に気が付いた時、俺は真っ白な病室のベッドに居た。
なんだろうな…。なんで、こんなところに居るんだろうか。仕事がまだまだ残ってるんだが…。
俺は、まだまだ状況がわかっていなくて、そんな事を考えた。すぐに起き上がり、ふらつきながらも人を呼ぼうと歩き出すと…。偶然にも、部屋の目の前がその階の詰め所だった。すぐに看護師に見咎められ、俺は今来た数歩分を巻き戻されていく。
「落ち着いてください。大丈夫なのでまずはベッド戻りましょうか」
自分はこんなに落ち着いていて、ただ目を覚ましたから、報告に向かっただけなのに。そんな不満を覚えた俺だが、後になって考えてみれば、救急車で運ばれ、意識を失っていた患者だ。いい大人で、病院の仕組みだって知っている。ならば急に起き上がらず、ナースコールで人を呼ぶべきだった。俺は確かに、冷静では無かったのだろう。
本当に落ち着いてからは、ただ退屈だった。わがままを言って、即退院する訳にもいかない。しかし何か重病な訳でも無く、痛みに苦しめられたりもしていない。検査を受け、退院許可が出るまで待つしかなかった。先の事なんて、何も…何も見えない。お先真っ暗、というやつだった。
そんな時だった。
こんな大した事の無い病状の俺が、個室であるはずも無く、仕切りの向こうには、他の患者さん達が居る。その仕切りカーテンの下を潜って、子供が顔を出していた。そして俺と、ばっちり目が合う。
隣の人の…ご家族の子だろうな。
そのうち戻っていくだろうと思い、暇つぶしがてら見つめ合っていると…なんとその子はそのまま、こちらへと入り込んできてしまった。そして面会者用の椅子に器用に登り、座り込んでしまう。
隣の会話や様子から察するに、このくらいの子供には、そりゃあつまらないだろう話を続けている。随分とお年も召しているようだし、話題もそれ相応だ。その点俺は、倒れたというのに情けない事だが、そこそこにまだ若い。それで比較的警戒する事無く、寄ってきたのかもしれない。
「………」
カーテンの向こうに居るだろう親御さん達は、まだ気付いて居ないようだった。この子の方も、こっそり来た自覚があるのだろうか。騒いだりせず、静かに手元を見ている。その手には、少しばかり懐かしさを感じる物が握られていた。それは、小さめのスケッチブックと、クーピーという画材道具。要するに、おえかきセットだった。
今時の子は、このくらいでもタブレット端末なんかをいじっている事も多い。お絵かき道具を持ち歩く子供なんて、今日日見かけない。この子は随分と珍しい。
様子を見守っていると、再び目が合った。そして、こっそりとした声で、俺は一つのお願いをされた。
「なにか…かいて?」
「…む」
目の前には、小さな手で画材が差し出されている。
俺は少し戸惑った。そこそこに絵心はあったが、実際に描くのは学生の頃以来だった。向こうの患者さんに声をかけて、この子に戻ってもらう事もできる。でも俺は…そうしなかった。
スケッチブックを受け取り、こちらからも静かに声をかける。
「何を描いて欲しい?」
「…なんでもかけるよ?」
会話は、微妙に噛み合っていなかった。こんなものなのかも知れない。
この子の言葉をそのまま受け取るなら…何を描いてもいいんだよ、という意味だろうか。もしかしたら、俺があまりに退屈そうな顔をしているから、遊び道具を貸してくれたのかもしれない。それとも、考えすぎだろうか。
いけないな。こんな事だから、仕事でも入れ込みすぎて、倒れてしまうんだろう。
俺は、ただ遊ぶ事にした。そうは言っても、本当に自分の気が向くまま描く訳にはいかない。提案から入る事にする。
「動物は好き?」
スケッチブックを開き、まだ真っ白なページを見つける。この子が自分でお絵かきしたページには被らないように、少し間を空けた。
「うん。うちにもいる」
「そうなんだ。もしかして…猫さんかな?」
「…うんっ」
何でわかったんだろう。そんな表情をしていた。
でも俺は、魔法使いなんかじゃない。先程ページをめくっている間に、猫のような絵があったのだ。
「じゃあ、猫さんを描こうかなー」
適当に薄く色を乗せつつ、俺はこっそりと携帯で資料を調べる。どうしても、凝り性なのは直らない。どうせなら、かわいい絵を描いてあげたかった。
いつの間にか、椅子からこちらのベッドに移動し、絵を描くところを覗き込まれている。でも俺は気にしなかった。そりゃあ気にもなるだろう。
周りは、今座っているベッドも、カーテンも、天井も真っ白で…。目の前にあるのも、真っ白な紙。そこに、少しずつ色が付いていく。
「………」
小さな観客の手前、リアルな絵ではなく、ポップでデフォルメの効いた、カラフルな猫を増やしていく。元から描かれていたこの子の絵に、近いものを選んだ。その方が受けがいいだろう、なんて事も考えた。
気が付くと、またいつからか、絵と交互に俺の方を見ていた。この子は、何か言いたい事でもあるのだろうか。それはわからない…けれど、今この子は表情を緩め、ここに入り込んできた時より、リラックスしているように見える。だから、これでいいだろうと思えた。
「あら…? ちょ、ちょっと!」
おっと…。
そんな不思議な、穏やかな時間が終わりを告げた。隣のスペースから、この子が居ない事に気付いた様子の声が聞こえてくる。
「ありがとう。呼んでるから、戻ろうか?」
俺はそう言って、お絵かきセットを返し、指で示した。
「どういたしまし…て!」
かわいらしい笑顔だと思った。つられて、俺も上手く笑えていたと思う。
話はこれだけだ。本当に何でもない、でも珍しい出来事だったと思う。
でも俺は、後々になってから、なぜかこの出来事をよく思い出す。
どうしようもなくて、わからなくて。疲れて、実際に倒れて…。冷静なつもりでも、先の事が何もわかっていなかった。そのせいか、倒れた時のイメージと重なり、あの真っ白な空間に恐怖すら感じていた。
でも、あの子とのやりとりで、それを塗り替える事が出来た気がする。
――何も無いのは、怖い事だけど。
でも、真っ白なら…。
『なんでもかけるよ?』
きっと、何とでもなるし、笑う事も出来るんだと思うんだ。




