03
何だか寒い。
そんな思考が浮かんだ瞬間、自分のまぶたがぴくりと震えた。
うっすらと目を開く。最初に視界に捉えたのは、真っ白い天井に取り付けられた有機ELのシーリングライトだった。
次いで、時々揺れ動く、セーラー服に包んだ長身。首筋で切り揃えられた茶色い髪が、微弱な風にふわりと舞い上がる。
その光景に、麗乃はがばっと起き上がった。女がこちらを振り返る。
「あ、起きたねー。大丈夫?気持ち悪いとかない?」
そして、手近なパイプ椅子を引き寄せて麗乃の前に座る。起きてみると、自分が寝かされていたのは固めの長椅子だった。周りを見回すと、脇に寄せられた長机やパイプ椅子──小さな会議室のようである。
怠い体を支え、彼女と向き合うようにしてちょこんと姿勢を正す。しかし、直後にふらりと傾いだ麗乃の体を、彼女がわたわたと支えた。
「わーッ!ダメじゃん!大丈夫じゃないじゃん!」
「ごめんなさいうるさいです……」
ふらふらしながら呟く麗乃に、彼女は困った様子で問うてきた。
「……えーっと、何か飲む?ほぼお湯のホットコーヒーと危ない味しかしない緑茶と開けたら爆発すると思われるコーラと20年前に賞味期限が切れたオレンジジュースがあるけど」
まともな選択肢が1つもない。しかも最後のやつは、もはやなぜ残されているのか理解できない。
「だいたい、なんでコーヒーがそんなに薄いって決まってるんですか粉増やせばもう少しは」
麗乃の言葉に、女が小さく首を傾げる。
「んーそれがね。コーヒーメーカーの調子がおかしくて、せっかく豆挽いても粉の大部分がどっか行っちゃうんだよね」
「────じゃあアレで。普通の水で」
そう言うと、彼女はぽんと手を叩いた。
「なるほどキミ頭いい」
頭を抱える麗乃を尻目に、女が蛇口を捻る。そうして紙コップにぎりぎりまで注いだ水を差し出してきた。
再び目の前に座った彼女が、こくこくと水を飲む麗乃を眺めて言う。
「────そういえば、キミの名前まだ聞いてなかったね。なんて言うの?」
「あ、えと」
コップを脇に置き、辺りを見回す。向こうの壁に寄せられた長机にプラスチック製のブリーフケースが置かれているのを見、それを取って戻ってくると。中からライティングタブレットを取り出して起動した。
メニューの中から「メモの新規作成」を選択。展開した真っ白い画面に、タッチペンで自分の名を大書する。
「────紅崎、麗乃です。新幕張中央大学付属高校の1年生」
「新幕張……ああ、さっきのとこか」
ふうん、と頷いた女が、タブレットを指差した。
「あたしは、──あ、ちょっとそれ借りてもいい?」
タブレット画面から容赦なく麗乃の名前を消し、その上から自分の名を書き殴る。お世辞にもきれいとは言えない漢字2文字にひらがな3文字──その下に、筆記体のアルファベットの走り書き。
「瑛琳みらい。ついでに英語名がミライ・エイリン=フィドラー。元日系アメリカ人です」
「……それ、よく帰化できましたね」
アメリカは、先の戦争での1番の敵国だ。戦中であれ戦後であれ、帰化が許されるとも思えないのだが。
みらいが小さく首を傾げる。彼女が身にまとうセーラー服をよく見ると、戦前の渋谷教養学院のものだった。
「んー、……まあ、それについては後でね」
先があるらしい。みらいが、部屋の奥からボロいホワイトボードを引っ張ってくる。────学校の授業でもELパネルの電子黒板が普通の時代にとっては、ホワイトボードの方が珍しいかもしれない。
「じゃあ、ちゃちゃっと説明しちゃうよ?あたしが何者で、ナギサとは何繋がりで、ナギサがキミに何を言おうとしてたのか」
「あ、……はい」
こくりと頷いた麗乃の前で、ホワイトボードに5つの文字が記される。
ESPer。
英語にこんな単語はなかったような気がする。首を捻る麗乃に、みらいが言った。
「エスパー、ね」
「……」
暫く思考が止まった。それから、記憶の片隅から響きが似ているものを引っ張り出す。
「──ベネズエラの独立運動家?」
「それはエスパーニャ」
すぐに突っ込まれ、黙り込む麗乃。そして、ぽんと手を打つ。
「スペインのサッカーリーグですね」
「リーガ・エスパニョーラのことかな」
「じゃああれだ、初期微動継続時間の後にくる大きな揺れ」
さすがに呆れたらしいみらいが、黙ってホワイトボードに英単語を2つ書き足す。
キャップを閉めたペンでボードをトンと叩き、言う。
「ほら偏差値74、読んでみ」
煽られた。だいたい、偏差値が74なのは付属中の方で高校は75なんだけどなあ、と心の中で呟いてから渋々声に出す。
「────エクストラセンソリー・パーセプション」
「よくできました」
ぱちぱち、と、みらいの感情がこもらない拍手が部屋に響いた。
「直訳は『超感覚的知覚』ね。超能力者の英訳と思ってもらえればいいかな」
麗乃の表情は動かなかった。少しだけ首を傾げ、淡々とした声で言う。
「…………私、超常現象って信じない派なんですよね」
みらいが、ふ、と口許だけで微笑んだ。そして目を伏せ、寂しそうに呟く。
「────もう、終戦から13年になるもんね。知らない普通人ばっかりなのも、しょうがないか」
ペンを置き、黙って麗乃の隣に座る。そして、手を差し出してきた。
「なんかない?壊しても構わない物」
彼女の突然の質問に戸惑う。しかしとりあえず言われた通りに鞄の中を覗いてみた。
「……これとかは、どうですか?」
麗乃は、鞄から美術用の鉛筆を取り出し、みらいに渡した。受け取った彼女が、わー鉛筆とか久しぶりに見た、と目を丸くする。
それを、ほい、と渡し返してくるみらい。
「折ろう」
「……はい?」
「あたしがやると、何か仕込んだみたいになって感動が薄れるんじゃないかなと思って」