THEN 西暦2050(春日13)年
────終戦の前々夜
おにいちゃん。
少年は、ぴたりと足を止めた。
おにいちゃん、いかないで。
まだ年幼い少女の声。振り返りそうになり、唇を噛んで堪える。
少女が、とてとてと駆け出す。しかし、リノリウムの床に足をとられ、すてんと転んだ。
「……全く」
ため息を吐き、少年が振り返る。床にぺしゃっとうつ伏せになったままの少女を、そっと抱き上げる。
そして、機関銃を扱うのには似つかわしくない、ほっそりした指で少女の髪をすいてやりながら、諭すように言った。
「ここの床は滑りやすいから走っちゃダメだって、言っただろ?」
「わるいの、あたしじゃないもん。よんだのにむしした、おにいちゃんだもん」
少年は、思わず苦笑した。少女の細く柔らかい、漆黒の髪の感触に、きっとこの子は母親似だな、という思考が浮かぶ。────ああ、でも、この頑固さは父親似か。
少年の軍服の襟を掴み、俯く少女。絶対に行かせるものか、という意志が見える。
「…………でもな」
呟く。少年は、少女を抱く自分の手を、じっと見つめた。その白さと細さに似合わず機関銃を握り続けた手。毎日のように他人の命を奪い、血と硝煙に汚れ続けた手だ。
「お前はこれから、何の罪もない普通人として暮らしていけるんだ。きっと、記憶も消される。……その方がいいんだ、僕みたいな人殺しのことを覚えてる……ましてや一緒にいる必要なんて」
「……ちがうよ」
少年が、目を瞬く。
「ひとごろしっていうのは、じぶんのためにいけないことをするひとのことだもん。おにいちゃんがたたかってるのは、あたしたちのためだから、ひとごろしじゃないよ」
思わず、目を伏せた。
「……そっか」
嬉しかった。自分の業を正当化してはいけないと知っていても、たとえ行いを肯定したのが5歳の少女だったとしても。
そして、悲しかった。そんな感情が残っていることに驚いた。
もう、別れれば、二度と会えないかもしれない。もし必然的に会うことがあれば、それは最悪の状況になったということだ。
彼は、少女を床に降ろすと、微かに笑みを浮かべた。
「僕たちが落ち着いたら、お前が辛いことも厳しいことも全部受け止められるようになったら、きっと迎えに行く。それまで、……待っててくれ」
「────うん」
少女は、少年の首に腕を回す。
「だいすきだよ、おにいちゃん」
「……僕も」
小さく微笑むと、少女は、少年の頬にそっと口づけた。
「────これは、あたしからの、せんべつ」
*
「Oh, my God!That is “Criminal”, who is coming……we are to be killed!」
────ああ、なんてことだ!あれが《大罪人》だ、こっちへくるぞ……われわれは殺されるんだ!
通信機で傍受した敵方の会話に、彼は、無意識に唇を吊り上げた。
この戦場で1人、明らかに異質な純白の軍服が、そよぐ風に翻る。
彼の手が、おもむろに持ち上がる。長大な機関銃の銃口が、敵兵たちを射抜く。
2人の上官は玉砕した。恩人はシベリアに消えた。2人の少女は彼のもとを去った。
彼を人間たらしめていた人々は、もう、誰もいない。
────だから。
グリップを握りしめ、銃爪に指をかける。
「《大罪人》じゃねえよ、クズが」
────だから俺は、鬼に堕ちる。
「………………俺の名前は、《殺戮者》だ」
青白い光が、天を真一文字に切り裂いた。
──────────────そして、
そして、
5000万人の玉砕の上に、敵同盟を道連れに、日本は斃れた。
2050年、1月29日、五月革命戦争終結。
勝利も敗北もなかった。全ての国が共倒れ、停戦協定もままならないまま終わった。
しかし────彼らは、果てることを選ばなかった。参戦国という咎を背負い、それでも、新しく復興することを望んだ。
海浜幕張区(政令指定都市所属区第132号)
所属 千葉県千葉市
区階級 実験的防衛都市特区第1号
区制施行 2052(春日15)年10月
人口 20万人
内部区分 海浜幕張区(幕張新都心)
├新幕張新都心┬幕張中央(行政区)
│ ├商業幕張(商業区)
│ └新幕張(居住区)
└旧幕張新都心(重度倒壊区域)