おっとり女神と名無しの英雄 ――天使が織り成す世界SS――
地球で言えば欧州と呼ばれる場所の、中世と呼ばれる時代に似た風景、水と石から成る街並みの一角。
ヴィネットゥーリアと呼ばれる街の広場に建立された、ヘルマと呼ばれる一本の棒にしか見えない(滑らかな曲線は所々にあるものの)飾り気のない石像の前で、二人の男が話をしていた。
「しかし大きいなぁ……これっていつ建てられたものなの?」
「今から二千年ほど前だな」
「にっ……!? 」
緑の衣装に包まれ、緑の髪、緑の瞳を持つ男の答えに、金髪の巻き毛と青い瞳を持った青年が絶句する。
「商人や旅行者の安全を祈願される像とは言え、そんな昔に建てられたものがよく残ってるね。これより新しくても、戦乱に巻き込まれたりして破壊されたヘルマを今までに何度か見かけたのに」
「これは特別だからな」
そう言うと、緑色の男が自分の背丈の二倍はあろうかというヘルマを、感慨深げな瞳で見上げる。
そして金髪の青年が、自分を気遣うような表情をしているのに気付いた彼は、ある提案をした。
「腹が減ったな。ちょうどこの近くに僕の行きつけの酒場が有るから、そこで食事にするとしようアルバトール」
「旧神ヘルメースの行きつけの店か、それは楽しみだ」
アルバトールと呼ばれた金髪の青年は、緑の男ヘルメースに頷き、彼らは広場から一本隔てた通りにある一軒の店に向かった。
「お久しぶりですね。いつもの席が空いてますよ」
二人が向かった先は、炊煙の子守歌亭、と看板に書いてある酒場。
まだ日が高いからか、それとも別の理由があるのか店内に客の姿は無く、ほぼ彼らの貸し切りと言った状態だった。
中に入るなり店の主人と話し始めたヘルメースを横目に、続いて酒場に入ったアルバトールは足を踏み入れると同時に店内を見渡すと、感心した表情で頷いた。
「床板の隅の方まで細かい傷が入ってるね。なかなか繁盛してる店みたいだ」
「このヘルメースが惚れ込んだ店だからな。店主、いつものを二人前。それと今日はエールではなく、ワインにしてもらおうか」
いつもの席に案内されたらしきヘルメースは店主にそう言うと、店の中央にある炉をじっと見つめた。
「そう言えばヘルメース、先ほどこの街のヘルマを特別って言ってたけど、何か理由があるのかい?」
「聞きたいのか?」
「食事だけが人生の楽しみじゃないからね」
天使のように屈託なく笑うアルバトールを見て、ヘルメースは迷う様子を見せる。
「あ、いや……話したくないなら話さなくてもいいよ」
ヘルメースが今まで見せたことの無い表情をしたのを見たアルバトールは、慌ててヘルマについての逸話を遠慮しようとしたが、ヘルメースは黙って首を振った。
「気にしなくてもいいさ。この前の叙事詩のように、君に斬られてはたまらないと思っただけだ」
その返答を聞いたアルバトールは安心したように、だが同時に警戒心をその顔に浮かべつつ、ヘルメースに話をせがむ。
「君はヘスティアーを知っているか?」
その問いかけから、ヘルメースの昔話は始まった。
「その昔、大層おだやかな性格の一人の女神が居た」
「本当に?」
十二神の何人かを知るアルバトールは、疑わし気な視線をヘルメースに向ける。
「本当だ。我が姉アテーナーを筆頭として、勝気な女性ばかりの十二神の中で、彼女一人だけがのんびりとした性格をしていた。万人に優しいその女神に求婚する者は後を絶たず、ポセイシ……」
そこまで話すと、ヘルメースはゆっくりと首を振った。
「ポセイドーンや、アポロンにしつこく求婚されるほどだった」
「今なんか変なこと言おうとしてなかったか?」
半眼で睨み付けてくるアルバトールを一瞥し、ヘルメースはグラスを揺らす。
「いいや、君の気のせいだろう」
「本当かなぁ……どうも君の言うことは毎回信用ならないんだよなぁ」
即座に否定をするヘルメースだったが、疑惑のまなざしを変えないままのアルバトールに彼は苦笑し、再び口を開く。
「話の続きをしよう。女神の名はヘスティアー。クロノスとレアーの間に最初に生まれた子供。我が父ゼウスやハーデースなどの姉にあたる存在だ」
「流浪の神ディオニューソスが、十二神になれないことを嘆くその姿を見て、十二神の座を譲った慈悲深い女神なんだっけ?」
「そうだな、そんな話もあるようだ」
ヘルメースは興味がないとばかりにアルバトールの質問を受け流し、話を続けた。
「元々結婚する気が無かった彼女は、自分を巡っていがみ合う二人に悲しみ、ゼウスに願って永遠の処女神であることを許される。そして新しい家族をもつ喜びを捨てさる代わりに、家や神殿の中心である竈や炉の守護神として認められたのだ」
「へぇ……」
「知っての通り、我々の信徒は宴を開くときや神殿に供物をささげる際には、まず竈や炉に感謝と供物をささげる。つまり彼女は捧げられる供物を、ゼウスを含めたあらゆる神々より先んじて受け取ることが出来たのだ」
「なぜゼウスは、そこまでの特権をヘスティアーに与えたんだろう?」
アルバトールの問いにヘルメースは少し首を傾げて考え込む様子を見せ、そしてニヤリと唇の端を吊り上げる。
「ヘスティアーなら処女神だから、ヘーラーに浮気がバレないとでも思ったのかもしれないな」
その答えに噴き出すアルバトールを見て、ヘルメースは満足げに頷いた。
「そして家や神殿の中心を守護すると言うことは、そこに住む家族、神職をすべて守ると言うことに繋がる。家族を持つ喜びを捨てさった彼女は期せずして、それ以上の人々を家族とする喜びを得る事になったのさ」
「めでたし、めでたし……かい?」
話は終わったとばかりに、酒場の厨房へ注意を向けるアルバトールを見て、ヘルメースは溜息をつき。
「……いや、むしろこれからが本番だ。あのヘルマについても、何も話していない」
いつになく声のトーンが低いヘルメースに不安を覚えたアルバトールは、椅子に座る姿勢を正し、改めてヘルメースへ向き直る。
「それは今から二千年前の出来事。歴史に名を残さなかった英雄と、おっとりした女神の過ごした何の変哲もない日常。神話ですらない、ただの思い出話」
ヘルメースは遠い目をして、在りし日の彼らの思い出を語り始めた。
――いようイリアス、これから神殿かい?――
――ああ、初めて一人で狩りが出来たから、神殿に供物を捧げてくるところさ――
「その日イリアスと呼ばれる少年が、神殿に一羽の野兎を持ってきたそうだ」
ヘルメースはそう言うとワインを一口飲み、舌を滑らかにさせる。
「だが、初めて一人で狩りを成功させた彼はひどく興奮しており、また狩人として一人前と認められるようになる奉納の儀式に緊張して、炉の手前で転んでしまった」
「獲物は?」
「当然地面に叩きつけられた」
「可哀想に……」
「そうでもない。最初に言っただろう? 彼女一人がのんびりとしていたと」
首を傾げて思い出そうとするアルバトールに、ヘルメースが微笑む。
――元々地を駆けていた野兎が、地面に寝そべったとしても、ぜんぜん不思議じゃないと思うの――
「それが姿を現した彼女の言い分だったそうだ」
「……優しいお方なんだね。それで、その少年はそれからどうしたんだい?」
ヘルメースは軽く微笑み、厨房から漂ってきた香しい匂いに気を取られつつ、アルバトールへ視線を戻した。
「女性に免疫が無い少年が、少し優しくしてくれた女性に懸想する。良くある話だ」
「つまりヘスティアーに惚れてしまったと」
「神と人の恋など待つのは悲劇しかないものを、何故わからんのだろうな」
「……そうでもないんじゃないか?」
アルバトールはむっとした表情になるが、ヘルメースは軽く首を振ってそれを黙殺した。
「まだ少年だったイリアスは、思い込みもまた激しかった。彼は女神に釣りあう人間になろうと必死で強くなろうとし、そして実際に強くなった。一人でコボルトやゴブリンと言った、魔物の群れすら討伐できるほどにな」
「それは確かに……人としては強い……と思う」
「君が言うのだから確かだろうな。人の身から熾天使になりしアルバトールよ」
「茶化さないでくれると助かるな」
寂し気な笑みを浮かべるアルバトールに軽く頭を下げ、ヘルメースは再びワインを口に含んだ。
「じきにイリアスはその武勲話をヘスティアーに捧げるようになった。だが、すぐに止めてしまった」
「何故だい?」
「気付いたのさ。最初に彼が聞いたヘスティアーの声と、彼の武勲話を聞く時のヘスティアーの声が違うことを」
店の中央に置かれた炉から、薪が爆ぜる音が聞こえる。
その音にしばし耳を傾けた後、ヘルメースは話を続けた。
「彼が気付いたのは、まず後ろに並んでいる人々。そして自分に刻まれた傷だった」
「傷はわかる……けど、後ろに並んでいる人々って? 奉納は一人ずつ行うものじゃないの?」
「だがイリアスはそうは思わなかった。女神は皆が慕うものであり、自分の身勝手な話で長い時間を独占するものでは無いと。そして後ろに並んでいた者たちが行う奉納を見て、再び彼は気づいた」
「何に?」
「ささやかな幸せこそが、ヘスティアーの望むものなのだと」
「それは……」
考え込むアルバトールを助けるように、ヘルメースは話を続けた。
「危険な魔物討伐より安らかな大地の恵み。大きな功績より小さな手助け。そんなささやかな人々の笑顔こそが、ヘスティアーの喜びだったのさ」
アルバトールは納得し、話の続きを求める。
「そして女神の独占に気付いたイリアスは、今まで多くの魔物を討伐してきた功績として、ある一つの望みを神官長に申し出て、それを許される。それは夜、参拝する者もいなくなった神殿に入れる権利だった」
「神殿に?」
「正確には敷地内の建物の外、だな。神官職がいる神殿の中に入ることは許されず、彼もそれを望まなかった。自分の傷を女神は見たくないだろうと思っていたからな。そして夜だけの逢瀬、二人の壁越しの交際……いや、交流は始まった」
「ロマンチックだね」
「そのまま魔物討伐を続けていれば、彼は我らと肩を並べ、オリュンポスに居住を許された神の一人として、永遠にヘスティアーと共にいることも出来ただろうにな」
そこまで話したヘルメースに、横から声がかけられる。
「兎肉のソテーです」
そう言って大皿を差し出してくる女性にヘルメースは珍しく声もかけず、皿に乗った肉にフォークをつきたてる。
「食べないのか? ここのブルーチーズソースは絶品だぞ」
「もちろん食べるさ。へぇ……さっぱりした兎肉の割にはすごいコクだな。ヘーラーの離宮で食べた、羊の丸焼きにも負けない風味だ」
「そのためのブルーチーズソースだからな。ワインもどんどんやってくれ」
見る見るうちにソテーとワインは消費され、あらかた皿の上も片付いた頃に再びヘルメースは口を開いた。
「イリアスは魔物討伐をやめ、人々の収穫の障害――鹿や猪などの害獣――を仕留める生活に戻った。あるいは開墾の手助けをしつつ東西奔走し、そしてその苦労話を、壁越しにヘスティアーへ面白おかしく話した」
「君のようにかい?」
何気なく放ったアルバトールの一言に、ヘルメースは目をしばたかせる。
「まさか。この雄弁の神より面白おかしく話せるとでも?」
「題材によってはそうなるんじゃないかい? それより話の続きを頼むよ」
「そうだな」
ヘルメースはフォークを持ち、そしてそれを使う対象である肉が無いことに気付いた彼は、再びそれを手元に置いた。
「イリアスは良く働いた。それは我々十二神にとってさほどの意味を持たぬものであっても、民衆にとっては無くてはならないものだった」
ヘルメースは飲みかけの酒器を置き、そしてアルバトールの顔を正面から見つめる。
「それを繰り返すうち、彼はいつしか民衆にとっての英雄になっていた。神話に名が残らぬ小さな功績と言えども、実際に自分たちを助けてくれるイリアスは、ヘラクレスやペルセウスなどの大英雄よりも、よほど心強い存在だったのさ」
それを聞き、アルバトールは目を輝かせる。
もともと領主の息子である彼にとって、熾天使としての魔族との戦いは義務であって、心躍るものでは無い。
民衆の笑顔、その隣でともに笑う自分。
それこそが彼の望みだった。
「だが、そんな生活も長く続くものでは無い」
「どうしてさ」
「簡単なことだ。人の寿命は短い。五体満足で働ける期間など、推して知るべしだ」
黙り込むアルバトールに、ヘルメースは軽く手を振った。
「話はまだ終わっていないぞアルバトール。イリアスはそれを分かっていた。だから彼は、一つの考えを実行したんだ」
「それは?」
「自分に代わり、面白おかしい話を仕入れてくれる者を探すことにしたのさ」
「なるほど」
「その依頼料を稼ぐために、イリアスは再び魔物を討伐することを決めた。いまさら新たな傷を負ってもヘスティアーには分からない。なぜなら彼は自分の傷を見られないために、ヘスティアーと壁越しに話していたのだから」
「待ってくれヘルメース。さっき君は長く続かないと言ったがまさか……」
その問いに、ヘルメースの髪が左右に揺れる。
「彼は見事に討伐を成功させていき、その末についに一人の神の助力を得ることとなる。雄弁の神、旅人の守護者である一人の神を」
「それ君じゃん」
「仕方ないだろう。実際に頼まれたのだから」
少々頬を膨らませたように見えるヘルメースは、広場の方角へ親指を向けた。
「あのヘルマはその代償の供物だ。あれを建てるためにイリアスは戦った。戦いから遠ざかっていた期間は長かったが、彼には才があった。だが……運が無かった」
「どうなったんだ?」
「食人鬼オーガの群れに囲まれたイリアスは、それを見事に打ち倒すも、左足が満足に動かなくなったんだ。だがヘルマを建立する金額には、まだ足りなかった」
話が盛り上がって来たと言うのに、店の裏手で店主と誰かが大声で話す声が聞こえてきたせいか、ヘルメースは少し口をつぐみ、ワインの酒器を手にする。
「ここの店もシュヴァリエか。どんどん有名になっていくな」
「無理もない。人の御業ではないのだから」
「は? どういう……」
ヘルメースはワインを飲み干し、同時に話を再開した。
「イリアスはオーガ討伐を報告して報酬をもらうと、そのまま広場に行って座り込んだ。目の前にはヘルマが建立される予定だった空き地があり、そして手元にはその金額に満たない貨幣が詰まった革袋があった」
「だが、ヘルマはあそこに建っている。期待していいんだろう? この先の展開に」
「もちろんだ。この僕を誰だと思っている」
「雄弁の神ヘルメースだ」
アルコールが入っているだけではない笑い声が店内を満たし、グラスを打ち合う小気味いい音がそれに続いた。
「そしてイリアスを囲む人々の姿もまた、そこにあったのさ」
ヘルメースは言った。
今までにアルバトールが見たことが無いほど嬉しそうに。
――お前を助けるのではないぞ。ヘルマは商人の守り神でもあるからだ――
「かつて街道で魔物に襲われていた豪商が言った」
――貴方のお陰で、家族がみんな冬を乗り越えられた――
「かつて獣たちに畑を荒らされていた農民が言った」
――おっちゃんがわけてくれた熊の生き胆で、母ちゃんが元気になったんだ――
「かつて母親を助けた男のようになろうと街に出てきた少年が言った」
ヘルメースは空になった酒器を脇へ置くと、長い吐息をつく。
「彼らはその手に革袋を持っていた。その重さに千差万別はあれど、その中に入っていた重みはすべて等しかった」
「重み?」
「それはイリアスへの感謝という思い。彼らをずっと助け続けてくれた、イリアスへの恩返しだった」
「そうか……」
感慨深げに、アルバトールが呟く。
その目に映っていたのは、故郷の孤児院にいる子供たちの姿だっただろうか。
「そして彼はとうとうヘルマを建てることに成功する。僕はその功績を認め、世界中を飛び回り、イリアスへ話を届けた。そして彼がそれをヘスティアーに捧げる。そのサイクルは長い間続いた」
「君も律儀だね」
「だからこそ神が務まる。さて、イリアスへ僕が東西古今の話を届けるところだったな。まぁ雄弁の神である僕が届ける話だ。多少の変更はあったようだが、イリアスがヘスティアーへ話す内容は、どうやら彼女に気に入ってもらえたようだった」
嬉しそうに話すヘルメースを見て、アルバトールもまた笑顔となってその話を聞く。
「ひっきりなしに壁越しに聞こえてくる、イリアスの穏やかな話。ヘスティアーはその穏やかな日々を、いつしかとても愛おしく思うようになっていた」
だがその笑顔は、次のヘルメースの言葉で曇ることになった。
「思い残すことの無い人生を生きた者にしか出せない、その穏やかな声も」
幾分トーンが落ちたヘルメースの声を聞いたアルバトールは、気遣うように目の前の旧神の顔を見た。
「ある日、イリアスはヘスティアーに長い長い旅に出ると告げた。捧げる話は尽き、世界にはまだまだ困窮した人々が自分を呼んでいる。次にいつ戻ってこれるかは分からないが、もし戻ってこれたなら一つだけ貴女に望みたいことがあると」
「……それは?」
「ヘスティアー自身の話を聞かせて欲しい」
それを聞いて生返事をするアルバトールに、ヘルメースは苦笑する。
「それを聞いたヘスティアーはえらく弱ったそうだ。何しろ彼女は竈や炉の神。他の十二神のような神話があるわけではない」
「気ままに出歩きまわる、君たちとは違うわけだ」
「だから彼女はのんびりと考えた。温かい炉の周りに寝そべり、薪が弾ける音を聞きながら育つ子供たちへ、いつも彼女が歌っていた端切れの子守唄。それを完成させて、彼女自身の神話の代わりに聞かせようと」
「子守唄……」
「それから彼女は子守唄を考え始める。おっとりした性格の彼女は、ああでもない、こうでもない、となかなか子守唄を作ることが出来ず、ついにこう思ったそうだ」
――戻って来た彼と一緒に子守唄を作ろう。どうせ私は話す神話を持ち合わせていないのだ。だから余った時間で、彼と一緒に子守唄を完成させよう――
「だが、彼は戻ってこなかった……?」
アルバトールの問いに、ヘルメースはしばらく口を閉ざした。
「のんびりとイリアスの帰りを待っていたヘスティアーを、ある日その手に一握りの灰を持った一人の神、つまり僕が訪問した。そしてこう言った。この灰を、貴女の炉に置いてくれないだろうかと」
「ヘスティアーは……?」
「黙ってその灰を受け取り、炉の片隅に盛る。そして軽く息を呑んで、ヘスティアーは子守唄を歌い始め……僕はその横で、彼女の歌う姿を見守った」
うつむくアルバトールを見て、ヘルメースは天井を見上げた。
「のんびりとした彼女の歌う子守唄は、よく音程が外れた。息が続かないのか、所々で詰まった。そして最後まで知らないのか……途中でまた最初に戻っていた」
ヘルメースは天井に向けていた視線を横に向け、店に入った時のように炉を見る。
「そしてその炉から灰を分けてもらった料理人が、一つの酒場を開いた。その酒場に来るものはなぜか全員が穏やかな気持ちになり、家族のような気分になったそうだ。そして末永く繁盛したその酒場が、ここ炊煙の子守歌亭と言われている」
「言われているって……ひょっとして、今までの話ってここの酒場の云われなの?」
睨み付けてくるアルバトールに、ヘルメースはニヤリと笑う。
直後に口を開こうとしたアルバトールの横から、店主がヘルメースに声をかけた。
「相変わらずですねヘルメース様。ところで言っておりませんでしたが、近々この店も引き払おうと思ってるんですが」
その衝撃的な内容にアルバトールは驚き、ヘルメースは仕方ないとばかりに頷く。
「君がそう言うのなら仕方が無い。次に店を開く場所がどこになるかは分からないが、ワインはどうせディオニューソスから仕入れるのだろう? イリアス」
「ん?」
「その予定です。新しい店のことは、ここと同じようにディオニューソス様に聞いてください。しかしレシピやワインまで提供して下さったヘルメース様には、感謝してもしきれませんよ」
「ヘルマの礼だから、それについては気にしなくていい。しかし君も変わった男だ。ヘスティアーと共にいることができればそれでいいなど」
「んんん?」
「想いを押し付けるのではなく、同じ想いを持ち続けるのが夫婦と言いますから」
「えーと? ちょっと待って? イリアスって、旅に出ると言った後にどうなったの?」
ヘルメースと店主の会話の内容がおかしいことに気付き、アルバトールはつい口を挟んでしまう。
「色々とありまして、つい先ほどは野兎のソテーを調理させていただきました」
その結果、イリアスは調理人になったことが判明した。
「じゃなくて! なんで人間が二千年も生きてるんだヘルメース!?」
「民衆を助け続けた功績と、我々に新しい価値観を植え付けた功績を讃え、僕とヘスティアーがイリアスを神の一人に加えるようにゼウスに申し出て、受諾された」
「じゃあ炉にくべられた灰って何だったんだよ! 思わせぶりに話して!」
「この僕を誰だと思っている」
胸を張るヘルメースに絶望したように、アルバトールは呻いた。
「……ずるがしこく、悪だくみに長けた盗人の神だ」
「分かっているならいいじゃないか。大体君は、先ほども僕のことを信用できないなどと言っておきながら……」
「よくない」
また騙されたとの思いが先に立ち、一人の人と一人の神が幸せに暮らすこととなった、一つの物語としての評価を下すことも忘れて黙り込んだアルバトールへ、先ほど大皿を持ってきた女性が声をかける。
「天の住人である天使が、堕ち込んでちゃいけないと思うの」
「その言い回し……貴女がヘスティアーですか」
「うん。それにしてもアル君は懐かしい香りがするね、くんくん」
栗色の髪を布でまとめた可憐な女性が、自分の髪の毛を遠慮なく嗅いでくる姿に少々驚いたアルバトールは、思わずその身を引いてしまう。
「まぁそう怒るなアルバトール。本来ならイリアスは、人間としての生をまっとうし、そのままハーデースのところへ行くはずだった」
「そうだろうね」
「だが僕が連れ戻した。イリアスの行動には、我々には理解しがたいものがあり、理解しなければならないものが含まれていたように思えたからな。ちなみに先ほど言った灰は、イリアスを連れ戻す際に死の神タナトスを騙す囮とした、彼の髪の一部だ」
むくれたままのアルバトールを見て、その場に居る彼以外の全員がたがいに目を見合わせ、そして三人がほぼ同時にアルバトールへ説明をしようと口を開いてしまう。
「我々十二神は考えたのさ。イリアスは魔物討伐を続けていれば神となり、永遠にヘスティアーの元にいる事が出来たのに、あえて人間のまま彼女のそばに留まったのはなぜなのだろうと」
「イリアスの話は本当に楽しかったの。危険なことから逃げても問題は解決しないって判ってても、やっぱり人が傷つくようなことは、見たくも聞きたくもなかったの」
「つまるところ、私はこう思ったのです。神となり、ヘスティアー様に私の思いを永遠に押し付けるだけの生活よりは、人間のまま互いに思いが通じる人生の方がいい。例えそれが、一瞬のものだったとしても」
そして困惑した表情になったアルバトールを見た彼らは口を閉じ、また一斉に口を開く。
それを何度か繰り返した後。
「えーと、皆の言ってることは一応聞き取れるんだけど……やっぱりいい話は一人ずつ聞きたいかな」
アルバトールは少しだけ弱った顔をすると、イリアスへワインの追加注文をする。
「いい話には、いいワインがつきものだからね」
四人が話し込むうちに、いつの間にか時は過ぎ。
ヴィネットゥーリアの街を、ランプの暖かいオレンジ色の光が染めていく。
ヘルメースは一つの竪琴を取り出し、炊煙の蒸気亭の中から徐々に変わっていく街の風景を見つめ。
おっとりした女神の守る美しい大聖堂と、名を残さぬままにこの街を守り続けた英雄へ、祝福の音楽を捧げた。