3-7 「バベル」
◇
ヨシュアが祖父にこの都市に迫る危機を告げてから二日後の神世歴十六年四月六日午前三時。
彼の姿はアルクスの代名詞たる汽水湖の入り口にあった。
このあたりに住む者にとってなくてはならない食糧庫であると同時に、有名な観光地でもある汽水湖とはいえ、さすがにこのような深夜に近い時間帯ともなれば、周辺に人影は見えない。
いるのはヨシュアと、事態の推移を見届けるべくやってきたファーゴ、その護衛兼万が一住民に気づかれた場合、勝手な行動を許さぬための力の象徴たる、ルプスルグ族の精鋭達だけだった。
孫が強欲の蔵から出してくれた簡素な椅子に礼を言って腰かけた祖父は、平然とした表情のヨシュアとは対極的に、表情を強張らせて緊張を隠せない様子である。
まあこの都市を努力してここまで大きくしてきたのはファーゴであるが故に、自らの権力基盤とでもいうべき本拠地に、対応を誤れば大打撃を受けかねない危険物が近づいていると聞かされたなら、誰が同じ立場であってもこうなりかねないだろう。
「……ああ、あれだな」
自らを落ち着けようと、目を閉じて深呼吸していたファーゴは、孫がぽつりと呟いたその言葉を一瞬聞き逃しかけたが、脳が理解すると同時に、飛び上がらんばかりの勢いで椅子から立ち上がる。
そしてヨシュアが見ている方角に目をやれば、そこにはまだ薄暗い湖の上、だんだんとこちらに近づいてくる、大きな館にさえ見間違えそうなサイズの、黒々とした船影が視界に飛び込んできたのだ。
予言が現実のものとなったと、彼が絶望の表情を浮かべたのも無理からぬ話であろう。
とはいえ、祖父にとっては厄ネタ満載の呪物同然であっても、彼にとっては利用価値のあるお宝も同然。
さっさと片を付けて見届け役でもあるファーゴの血圧を下げてやろうと、ヨシュアは念動の力で浮き上がりながら、
「じゃあ、なるべく早く済ませてくるから待っててよ」
と声をかけた。
「あ、ああ。十分気を付けるんだよ?」
心配する祖父の言葉に適当な頷きだけを返して、彼はあっという間に難破船らしき影の方へと消えて行ったのである。
◇
土手腹に風穴を開けた、よくこれで沈んでいないものだと感心するレベルの破損具合を晒して、それは湖の上を漂っていた。
あらかじめ得た情報からヨシュアが予想していた通り、なにか意図をもってこの汽水湖を目指したというよりは、航行不能になった結果、乗船している者の意思とは関係なくここに辿り着いたというのが正確なところなのだろう。
(さて、今も生きていてくれた方がこちらにとっても都合がいいんだがどうかな?)
そんなことを考えながら船内を移動する彼が左目を閉じて【マップ】スキルを発動すると、瞼の裏に船のレーダーマップが表示され、居住区画らしき場所に、弱弱しく光る黄色の逆三角形があった。
(へえ? 死んだゴブリンのマーカーが変色するのは見たことがあったが、衰弱しているとこんな風に表示されるのか)
救助対象が死にかけているというのに随分と悠長に見えるかもしれないが、実際ヨシュアにしてみればあくまでも生存者がいてくれればラッキー程度の問題に過ぎないのだ。
確かに知り合いの命を助けたという証言が本人からあれば、相手の故郷に乗り込んで行って商取引をする場合、信用という面において大きなアドバンテージになり得るのは間違いないだろう。
しかしたとえ乗組員が全滅していたところで、この船ごとストレージに収めて故郷の大陸に届けるだけでも、十分に恩は売れるのである。
むしろ違う大陸の人間が助けようとしても、自分達の故郷になにか害をなそうと企んでいるのではないかと疑われて救助を拒まれたり、恩知らずにも無事故郷に辿り着ければ用済みとばかりに、噓の証言でこちらを悪人扱いして陥れようとしてくる可能性もゼロではない。
なので彼としては生存者が死にかけているからといって、慌てて救助活動をしようというつもりはなく、自分が彼らのもとまで辿り着いた時、運よく相手が生きていれば交渉してみてもいいかな、くらいの熱量だったのだ。
そんなヨシュアの考えを、非道いだとか薄情だと言う者もいるかもしれない。
だがいつも誰かしらを周囲に侍らせて、自分の世話をさせている彼が、ただでさえ早朝とすら呼べないほど早い時間に起きて、船が陸地に辿り着くより早く、たった独りで空を飛んでやってきている事実を思い出して欲しい。
このような真似ができる者など、世界広しといえども魔法が使えて病原菌も呪いも効かない、加護持ちであるところのヨシュアくらいしかいないのだから、これで間に合わず命を落とすのであれば、最初から助からない運命だったと思うしかないだろう。
故に彼は船内を慌ただしく駆け回ったりせずに、欠伸を噛み殺しながら一歩一歩着実な足取りでもって、生存者のいる部屋を目指して進むのだった。
◇
だからその魔族の男女が生きていたのは、ヨシュアが懸命の救助活動をしたからなどではなく、本人達の運によるものといえるだろう。
あるいはなにか超自然的な存在の思惑によるものかもしれないが、彼に確認のしようがない以上は気にしても仕方がない。
「……誰?」
かすれた声で誰何してくる、唯一意識があるらしい女性。
獣人にも種族差があるように、魔族にも種族差はありそうなものだが、息をしている二人は赤みを帯びた肌にエメラルドグリーンの瞳、紫がかった髪の間から肌と同じ色をした二本の角を持つ、オーガのイメージに近い容姿の持ち主であった。
(おそらく大丈夫だろうとは思っていたが、別大陸に住む魔族の言葉も翻訳できるのであれば、この女神さまが【バベル】とか厨二病全開の名前を付けた、異世界言語翻訳もチート級のスキルということで間違いなさそうだな)
そんなことを内心で考えながら、ヨシュアは相手に対する気遣いの欠片も感じられない声で告げる。
「この大陸で唯一人、お前達を助けることができる存在だよ。……で? 助けて欲しいか? もちろんタダな訳がないし、対価を踏み倒そうとすれば、地の果てまでも追いかけて倍額を取り立てるが」
あまりにも直截な物言いにしばし絶句していたらしい女性だったが、我に返ったように瞬きし、
「わ、わかった。そちらの要求が度を越したものでない限り、私にできることならば可能な限り応えると約束する。……その、今は意識のないこの者がどう答えるかはわからないが」
と振り絞るような声で答えた。
ヨシュアが聞く限り精いっぱい正直に答えているように思えたので、今はそれでいいか、と二人の体を念動力で浮かせて船から出る。
突然の事態に混乱し、泡を食う彼女の悲鳴を無視した彼は、今も潮の流れに従って動き続ける船の上空で制止した。
(このままでは処理能力が足りないか)
自分と二人の人間を念動力で制御しながらの作業に限界を感じたらしく、ヨシュアは自らに与えられた固有スキル、【九生幻創】を発動。
これにより上限が十万の保有魔力が百万に増え、処理能力も十倍になった彼は、間近で魔力が爆発的に発生して気絶しそうになっている要救助者に気づかないまま、奇跡を連発するかのような魔法を行使して見せる。
まずは二人の魔族が長い船旅でろくに水も使えずに汚れていたので、『浄化』の魔法により一瞬で風呂上がりに洗濯済みの清潔な服に着替えた状態にしてやり、ティア・ラクリマという、謎の液体を振りかけて、病気や怪我を完治させた。
次いで『浄化』の魔法を難破船にもかけたのだが、人間二人とは規模が違うだろうに、全く同じように汚れや病原菌といったものから、瘴気と呼んで差し支えなさそうな黒い靄のような空気までもを瞬く間に消し去ってみせるのだから、魔法というものは本当にとんでもない。
宙に浮いたまま目を白黒させる女の横で、船をストレージにしまうのを躊躇する理由がなくなったヨシュアは、巨大な建造物のごとき魔族の船を、あっさり亜空間に収納したのである。
目の前で繰り広げられる超常現象の連続に、遂には目を回したように失神してしまった彼女を、いったい誰が責められようか。
責められるべきはそんな被害者の姿をちらりと一瞥しただけで、
(さすがに限界だったか?)
とあっさり興味を失った、人の心とかないんか? と言われそうなヨシュアの方だろう。
しかし残念なことにこの場で意識を保っているのは当人だけであり、たとえ事実を知ったところで反省などするはずもない彼は、今も首を長くして帰りを待っているであろう祖父のもとへ飛び去るのだった。
今回の被害担当:運悪く難破船に乗って死にかけた魔族女性。 意識が朦朧とする中、突然そんなことは考慮しないヨシュアが突然現れて、要求を聞いて助かるか、拒んでそのまま死ぬかの二択を迫られる。
ヨシュア「首を振ることさえできないほど衰弱しているのなら、それも運命ということで無回答を理由に死ぬことになるが?」
魔族の女性「……なんでもはしないけど助けてくださいお願いします」
今回もお読み頂きありがとうございました。
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