1-1 「メガネ」
神世歴三年四月四日
世界樹のある中央大陸を世界の中心として見た場合、そこから西に位置し、人間の支配領域下にある大陸、アルスファーブラ。
その南方都市アロドクトゥスの郊外に、白い石造りの豪邸がある。
その離れの一室にある、子供用の小さな木製ベッドの上で、すやすやと眠っていた幼子の目がぱっちりと開いた。
思わず魅入ってしまいそうな、琥珀色の双眸。
頭部には絹糸のような、陽光を浴びて薄紫に反射する銀の髪。
人によっては女児と見紛うであろう面立ちをした、白皙の美少年であった。
いや、迂遠な言い回しはよそう。
この幼児こそが、転生した好也その人であった。
かつての冴えない凡庸な顔から考えれば、奇跡的な変貌振りと言って良いだろう。
きっとこれが女神様の優遇その一に違いあるまい。
……まあ、ただ単に自分好みの顔にしただけかもしれないが。
とにかく何だか随分と時間が経った気さえする、転生した好也の目覚めであった。
(……ん? 何処だここ? ああ、転生したんだったっけ? 何か超寝た気がするが……)
欠伸と共に伸びをしてから上半身を起こし、きょろきょろと周囲を見回す好也。
地球より文明が遅れていると聞いていたが、覚悟していたよりも随分とましな部屋であった。
足元には赤い絨毯。
窓にはガラスがはまっていて、明るい陽光が差し込んでいる。
暖炉まであり、マントルピースを彩るタペストリーや、しっかりした作りの装飾つきチェストなど、家具からもかなり裕福であろう事が窺えた。
『貧乏な農民の子供に転生させられたらどうしよう?』などという、転生者の多くが抱くであろう不安は、どうやら好也とは無縁らしい。
しかしそうなると、今度は別の不安が頭をもたげてくる。
裕福な家に生まれたら生まれたで、後継者争いなどの面倒事に巻き込まれる危険性があるからだ。
(いや、まずは現状の把握が最優先だ。決まってもいない事で不安になっても仕方がない)
好也は自分にそう言い聞かせ、頭を切り替えようとした。
裕福そうな家に生まれ、生活に困窮しそうな気配もない。
今はそれで良しとすべきである。
きっとこれも女神様の優遇その二だ。
ならば後継者争いも、心配いらない筈であった。
くるんと体を半回転させて四つん這いになり、はいはいで移動して、更に周囲の様子を確認しようとした好也であったが、そこで自分の耳や首筋をくすぐる、あるものの存在に気づいた。
ぬいぐるみのように尻餅をついて座り直し、両手でぺたぺたと自分の首筋辺りに触れた好也は、そこに髪の毛を確認して驚きに目を見開く。
(何だ髪の毛か……。大分伸びてんな……って髪の毛!?)
まるで自分に髪があってはおかしいかのような反応だが、転生前の好也は別にハゲてなどいなかった。
しかしこの場合は、髪があるのはおかしい。
何故なら生まれたばかりの赤ん坊に、首筋をくすぐる、肩までの髪が生えている筈がないからだ。
このくらいの長さに伸びるまでには、個人差はあるが二年か三年は必要な筈であった。
逆説的に考えれば、好也は今二歳か三歳という事になってしまうのである。
(ど、どういう事だ? 俺は生まれてから今まで、一度も目覚めずに寝たきりだったとでもいうのか? 三年寝太郎か?)
予想外の事態に混乱する好也であったが、やがてふつふつと怒りが込み上げてきた。
(畜生! 俺がッ! この俺とした事が、こんなにも長い間ネットを絶たれるとはッ! こんな仕打ちは生まれて初めてだぜッ!)
安定の好也である。
全くぶれない。
普通はお約束の一つである、赤ん坊の時の授乳シーンを見逃した事などを気にしそうなものだが、ネット以外の事は全て頭から吹き飛んでしまっており、気にもならない様子だ。
気の短い野菜人の王子のように激怒している。
(何年も意識のないまま放置されるなんておかしいだろ? ……はっ! まさかネットができる固有スキルを作るという話自体、嘘だったんじゃないだろうな!? まんまと騙されて寝こけていた俺を見て、嘲笑っているんじゃ? ……いや、落ち着け俺。青ひげになるんだ。まだそうと決まった訳じゃない。話をしたのは短い間だったが、あの女神様が人を騙すとは俺には思えん。きっと何か理由がある筈だ)
そう自分に言い聞かせて深呼吸し、何とか落ち着こうと努める好也。
なかなかの自制心であった。
きっと過去に思い込みで暴走して、痛い目を見た事があるに違いない。
転生を強いられはしたものの、でき得る限りの便宜を図ろうという、女神様の誠実な姿勢に好感を持ったという理由も大きかった。
(試してみればわかる事だ。……【ネット】)
好也はかつて女神様に聞いたように、目を閉じて心の中でスキル名を念じる。
正確なスキル名はわからないが、初めての時くらい、多少の誤差は認められる筈であった。
そうでなければ、正確なスキル名を当てるまで、好也は試行錯誤を繰り返さなければならない事になってしまう。
◇
果たして一回で認められたのか、瞼の裏に浮かび上がるものがあった。
一瞬期待した好也だったが、次の瞬間には裏切られて顔をしかめる。
確かに浮かび上がったが、それは単なる文字列であった。
好也の期待するものではない。
しかし読み進めて行くに連れ、好也は何やら納得した様子で一つ頷く。
それは女神様からのメッセージであった。
『まずは無事の転生おめでとう。それから一つ謝らないといけない事があるの。あなたに約束した固有スキルなのだけれど、私とした事が、地球のインターネットを少し甘く見ていたみたい。
【女神の叡智】とは、文字通り私の知識にアクセスできるスキル。例えるならアカシックレコードかしら? 情報の精度という点においては、誤情報の混じる地球のネットとは比べものにならないのだけれど、昔のインターフェースが文字だけのパソコン――短刀Vシネマだったかしら? ――みたいなもので、今のパソコンの使い易さと比べると、数段は劣っていると言わざるを得ないものだったわ。
予想以上に作るのに時間がかかりそうだったので、任意で設定できるあなたの自意識の目覚めを、ちょうど三歳という事にして、その間にあなたに納得して貰えるだけの固有スキルを作る、という方針に切り替えたの。
スキルが使い難い、未完成の状態で目覚めても、きっとストレスが溜まるだけだろうと判断したのだけれど、大分待たせてしまってごめんなさい。
長くなったけれど、これからのあなたの新たな人生が、幸多いものであるように私はいつも見守っているわ。どうか頑張ってね。それからスキル名は、あなたが決めたもので問題なく発動するようにしてあるから、呼び易いもので大丈夫よ』
どうやら事情説明のメッセージだったらしい。
好也が読み終えると同時に、それは霞のように薄れて消えた。
(成程な。自意識の目覚めか。昔の事過ぎて良く覚えてはいないが、確かに一番最初の記憶は、三歳くらいの時に姉にガムを貰った事だったような気がする。そう考えればあまりに早く自意識に目覚めても、体が思うように動かせない上に、スキルの調整が不完全でストレスが溜まる、という女神様の予想もあながち間違ってはいないか)
納得の行く内容だったからか、好也の溜飲は下がった。
しかし、女神様からのメッセージが消えた後に現れたものを見て真顔になる。
発動したスキルは、デザインが微妙であった。
好也が地球で愛用していた検索エンジンである、《Goggles》や《Hyahha!》のデザインを少しずつ混ぜて加工したもののように見える。
検索バーの真上に《MEGAmiNEtwork》とあるのは、《Goggles》のデザインに似ているし、アドレスバーの真下に動画、辞書などの利用したいサービスのページに直結した文字リンクがあるのは、《Hyahha!》のデザインに似ていた。
他にも気になるところが多々あり、好也はもしやネタか何かなのだろうか? と疑心暗鬼に陥ってしまいそうになった。
まず《MEGAmiNEtwork》からして酷い。
女神が日本語なのに、ネットワークが英語だ。
そして大文字の部分のみをつなげて読むと、MEGANE。
メガネである。
良く見ると検索バーの横にある、検索ボタンの『検索』の文字の下に、虫眼鏡ではなく眼鏡のマークがあった。
どう考えても眼鏡とゴーグルという、目許にかけるもの繋がりでのメガネだとしか思えない。
パチモン臭が半端ではなかった。
(これ、絶対にメガネって愛称で呼ばせようとしてる! そう誘導する意図、全く隠す気ないし!)
好也は心なしか、どこか遥かな高みから、ちらちらとこちらの様子を窺っているような、そんな視線を感じた気がした。
暫く耐えていた好也であったが、遂にはその無言の圧力に屈し、聞こえよがしに独り言を呟く。
「ジャアコンドカラ、【ネット】カ【メガネ】ッテヨボウ……カナア?」
酷く片言で棒読みではあったものの、ぱああっと華やいだ笑顔の気配を感じ、好也は自分が正解を引き当てた事を知って、深い安堵の吐息を漏らした。
さりげなく予防線を張っているあたり、あまりメガネと呼ぶ気はなさそうな事には、幸いにもまだ気づかれてはいないようだ。
(でもこれって、見た目はともかく中身はかなり凄くないか?)
発動したスキルが描き出す画面を見ながら、好也はそう思う。
今頃気づいたのか? と呆れるよりほかない鈍さであった。
女神様の注意書きにもあったが、このスキルから得られる情報の数々は、女神様の叡智そのものである。
つまり地球のインターネットと違い、ソースを探したり、複数のデータから総合的に判断してそれを正とする、といった胡乱な分析さえ必要ない。
どの専門家に尋ねるよりも正確な答えが、パソコンやスマホといった機器、電力さえ不要で何時でも何処でも得られるのである。
本来アカシックレコードへのアクセスというものは、幾度もの失敗の果てに、それでも届かず失意のうちに倒れる事さえ、良くある話と切って捨てられるのがオチであった。
しかもたとえ成功したとしても、自分の器以上の情報は読み取る事ができない、という罠のおまけつきである。
それなんてクソゲ? と人によっては思うのだろうが、それでも追い求める者は後を絶たない。
そこまでする価値がある、という事なのだろう。
アカシックレコードが、創世の神の知識と同義と仮定するなら、このスキルは、その場所へのアクセスを可能にするものであると言えた。
無論、保護者が有害サイトフィルタリング機能つきのブラウザーを導入するように、女神様の手によって、好也が知ると危険な情報には、アクセスできないようにされてはいるものの、それを差し引いたとしても破格の性能であろう。
しかも地球のインターネットに慣れきった好也のために、可能な限り近い感覚で扱えるように、様々な工夫をこらした上で、である。
紛れもなくチートスキルであった。
ご機嫌で、これで何時でもネットができる、と浮かれている好也は、おそらくその危険性に気づいていない。
扱い方によっては、大賢者と称えられる者さえ知らない知識を、好きな時に閲覧できる。
この事実が知られれば、好也は欲深い権力者達にとって、自身の利益のために金の卵を産む雌鶏でしかない。
あの手この手でヨシュアを手に入れようと、画策するであろう事は言を俟たない。
また世の知者、識者と呼ばれている者達が、このような力を持つ好也に嫉妬し、邪魔に思って消そうとしないとも言い切れまい。
後はもう、好也がその事に早く気づいて巧みに立ち回るか、女神様がその危険性を認識し、何らかの対策をとっている事を祈るよりほかなかった。
(時刻? こんなの今まで見た事ねえな……。おっ、念じるだけでページが開いた! しかもデジタル時計かよ? 今は……朝の七時四十二分か。へえ……あっ、そうか! よく画面右下に表示される時計を見ながら時間を確認していたけど、あれってパソコンの機能であって検索エンジンの機能じゃないのか! 時計や電子機器がないと時間の確認のしようがないけど、この機能があれば現在の時刻がすぐにわかるって事ね? 成程成程? 確かに転生モノで、主人公が時計の普及していない世界で現在時刻を知るために、日時計を利用したり太陽の運行から推測したり、と大分苦労している描写があったもんなー。これはありがたい)
女神様のかゆいところに手が届く配慮に、好也をして感謝の念を抱かずにはいられなかったらしい。
天に向かって手を合わせ、なむなむと拝んでいる。
◇
とそこへ、ドアをノックする音が静かな室内に響いた。
油断しきっていた好也は、びくっと小さく飛び上がり、慌てて瞼を持ち上げるとドアの方を振り向く。
「ヨシュアさ……坊ちゃま? お目覚めでいらっしゃいますか?」
耳が蕩けそうな甘い声と共に、ゆっくりと開いたドアから顔を覗かせたのは、金髪に紫の瞳を持つ、二十代前半に見える美女であった。
しかも女神様以上に胸部と臀部に張りのある肉感的な肢体を、メイド服に包んでいる。
それだけでも危険極まりないのに、あまつさえその耳は、御伽噺やアニメなどでしか見た事がない程に長く、尖っていた。
エルフである。
しかも金髪美女で、扇情的な体形をしている上にメイドな。
属性が多過ぎて突っ込みが全く追いつかないが、一体誰の趣味なのかと小一時間問い詰めたい。
……聞くまでもなかった。
間違いなく好也の趣味である。
いや、エルフメイドの言葉が確かなら、転生後の名前はヨシュアだったか。
誰かの作為を疑ってしまいそうな程、元の名前に似通っていた。
まあ、横文字の名前は覚え難いので、わかり易くて良いのだが。
それはともかく、顔を真っ赤にして、ぽーっとエルフに見惚れているヨシュアの姿を見れば、彼女が好みのどストライクである事は疑いようがないだろう。
きっとこれも女神様の優遇その四である。
因みに、既に女神様の優遇その三が判明している事にはお気づきだろうか?
答えは【異世界言語翻訳】である。
あまりにも自然でわかり難かったかもしれないが、ここは既に異世界なのである。
つまりネットができるスキルを使用しても、地球の言語で表示される必要などないのだ。
しかし表示された文字は日本語と英語であり、先程聞こえたメイドの言葉もしっかりと理解できた。
この事からも、異世界の言語が自動的に翻訳されているとしか考えられないのである。
おそらくヨシュアが日本語で文字を書けば、それもこの世界の言語に勝手に翻訳される筈であった。
これもまたチートな固有スキルである。
しかし致し方ない面もあろう。
異世界でもネットができるスキルを作る、という約束を前提に転生を了承したのだ。
スキルは作りましたが、使用しているのはこの世界の言語なので、あなたがこの世界の言語を勉強して、理解できるようになるまでは読めません、では詐欺である。
何しろ理解できるようになるまでに、一体何年かかるかわかったものではない。
賭けても良いが、ヨシュアが暗黒面に落ちて、命を懸けてでもこの世界を滅茶苦茶にしようと、大暴れするのは間違いないだろう。
それを避けるためには、こういったスキルを与えるよりほかなかったのである。
魅了状態からはっと我に返ったヨシュアは、気になった事を尋ねた。
「よしゅあぼっちゃまって、ぼくのこと?」
期せずして棒読みだった所為か、先程は気づかなかったが、それは舌っ足らずで如何にも子供の声であった。
変声前で愛くるしいと表現しても良かったが、転生前の自分の声との違いに、ヨシュアの中で違和感が膨れ上がる。
無論そんなものを覚えているのは当人のみで、相手が驚きに目を瞠ったのは別の理由からだったようだ。
「まあ! 随分とお喋りがお上手になられましたね? 本日は坊ちゃまの三歳のお誕生日ですので、そのお陰でしょうか? ……ああ、申し訳ございません。ご質問にお答えするのが先でしたね? 仰る通りです。お名前はヨシュア・エルダーヴィード様。エルダーヴィード家の三男様でいらっしゃるのですよ?」
しずしずとヨシュアの居るベッドに歩み寄ったメイドは、しゃがみ込んで目線を合わせると、にっこり微笑んで答える。
直視したらまた魅了されそうだったので、ヨシュアは若干視線を逸らしながら頷いた。
「そ、そっか。きょうはぼくのたんじょうびなんだ?」
「はい。ちょうど三年前は女神様がその存在を顕示され、いくつかの人類国家の首脳部をお諫めになられた、記念すべき年。神の世の復活を祝い、それまでの暦を神世歴と改めた、その年の四月四日のお生まれでいらっしゃいます。……あっ! 申し訳ございません。坊ちゃまには少し難しいお話でしたでしょうか?」
「だ、だいじょうぶだよ? さんねんまえの、しがつよっかうまれだってことはわかったから」
「まあ! 素晴らしいです! しっかりと要点をおさえて理解なさっておられるなんて、さすがは坊ちゃま。まだお小さいのに大変賢くていらっしゃるのですね?」
「ふむむっ!?」
メイドはヨシュアをその豊満な胸に抱き締め、良い子良い子と頭を撫でる。
実際の子供は、頭を撫でられれば安らぎを覚えたりするのかもしれないが、中身が大人であるヨシュアはそれどころではなかった。
顔を圧迫してくる巨乳の柔らか過ぎる感触だとか、鼻腔をくすぐる香水などの甘い匂いを最大限に感じるべく、全神経を集中するのに必死である。
(苦しい……でも幸せ。……でもやっぱり苦しい)
窒息死の危機と、この幸せな感触をもっと味わいたい、という葛藤の狭間で、ヨシュアは色々な意味で顔を真っ赤にしながら悶え苦しむ。
すわ! このままヨシュアの異世界ネットライフは終わりを迎えてしまうのか? という間一髪のところで撫で撫での時間が終わり、ようやく息も絶え絶えのヨシュアは解放された。
気づかれないように呼吸を整えながら、ヨシュアは今まで聞けずにいた事を遂に切り出す。
「それで、あの……おねえちゃん、だれ?」
その瞬間、メイドの笑顔が凍りついた。
今回の被害担当:ヨシュアのいた世界の検索エンジンズ。 デザインとか真似されたっぽい疑惑。
《Goggles》&《Hyahha!》「訴訟」
※5/23 加筆修正。