2-7 「春雨」
◇
「これは一体どういう事だ!?」
そうファーゴが珍しく声を荒げたのも、無理もない事であった。
店舗の裏庭に張られた、曲馬団を思わせるような広い天幕の中には、無数の異種族の奴隷達が大勢、手足の何処かを欠損していたり、腹部や顔面などを鋭利な刃物や獣の歯牙で切り裂かれていたり、背中に大火傷を負っていたりといった見るも無惨な姿で、地面に直接敷かれた藁の上に、打ち棄てられたマネキンのように転がっていたのだから。
中には半死半生どころか、未だに息がある事が不思議なくらいの、虫の息としか表現のしようのない者も多く、傷口や顔に集る蛆虫や蝿を追う気力すらないような有様で、密閉されたテントの中には、患部に巻いた布に滲む血や、様々な要素の入り混じった、生々しい匂いが立ち込めていた。
それは宛ら、これから多種多様な死亡原因で命を落とす者達を集めた、悪趣味な見本市のようでもあり、興味本位で同行してきた女性達の顔色を、みるみるうちに蒼褪めさせるには、充分な光景だったのである。
ファーゴですら血相を変えるこの状況にあってなお、表情一つ変える事のないヨシュアの姿は、他の者達には一種異様にすら映ったかもしれない。
だがどのような状況下であろうと、常に冷静な者が一人居るだけで、周囲もある程度の落ち着きを取り戻せる事は確かであった。
「ねえ、じいじ。少し黙っていてくれない? ここに案内するように言ったのは僕なのに、じいじが口を挟んできたら、何時まで経っても話が先に進まないでしょう?」
「ぐっ!? そ、そうだね? わかったよ、ヨシュア君。……ただしエイベル、お前には後でしっかりと事情を聞かせて貰うからな?」
「……ええ、兄者。わかっておりますよ」
アングラサイトへのリンクをうっかり踏んでしまった経験から、こういった光景には耐性のある孫に、話が進まないから、自分の邪魔をするくらいなら黙っていろ、と冷静な声音で叱られた祖父は、意気消沈して引き退りながらも、弟分に釘を刺す事だけは忘れなかった。
言われたエイベルも完全に覚悟が決まっているらしく、落ち着いた態度で返答する。
「あ……」
女子供でなくても刺激が強いであろう光景を前に、知らず知らずのうちに力を込めていたらしい、繋いだ手をやんわりと解かれて、エレミアが申し訳なさそうな、それでいて心細そうな声を上げた。
そんな彼女に、安心させるような、宥めるような笑みを向けてから、ヨシュアは奴隷達の方へと歩き出す。
無造作に、それでいて誰も踏みつける事なく歩みを進める少年が、ふと足を止めた。
暫し目を閉じてマップを確認し、今度は迷う事なく三歩進む。
そこに居たのは、十代前半から後半くらいの年齢に見える、少女達の姿。
近づいてくるローブを纏った少年に気づき、緩慢な動作で精気を失った顔を上げた者も居れば、整った顔の左半分を獣の爪のようなもので抉られ、横たわったまま動けない者も居たり、と返ってくる反応は様々であった。
それらの死にかけた少女達をしばらく見つめてから、少年は再度瞼を伏せる。
今度は世界人別帳で顔や名前、性格などを確認したらしいヨシュアは、ゆっくりと口を開いた。
「一度しか言わないから良く聞け。もしお前達が、僕に身も心も、魂すら捧げて仕える事を誓うのなら、その苦しみからすぐにでも解放してやる。お前達をそんな目に遭わせた、この世界の不条理に抵抗する意思があるのなら頷け。だがもし生きるのが辛い。このまま死にたい、と思うなら首を横に振れ。望み通り、このまま死なせてやる」
一体何をするつもりなのか、と固唾を呑んで見守る同行者達の耳にも、その声は届いていた。
とても十歳の少年の口から出たとは思えない、選択肢など最初からないような相手の弱みにつけ込む、冷酷さと非情さを感じさせながらも、それでいて耳を傾けずにはいられない程、甘美で魅力的な声が。
そしてそれは声を掛けられた当事者達にとっても同様であったらしい。
「あ……ぁう、うぁ……あ」
その証拠に、顔に重症を負って横たわったままの、四名中一番幼い猫人の少女が、引き攣れた口を懸命に動かし、何事か答えようとする。
それを押し留めるように手をかざすと、少年は家族や近しい者に対する時とは違う、命令口調で告げた。
「話せないのなら、無理に口を開く必要はない。返事は首を縦か横か、どちらかに振るだけで良いと言った筈だ。こちらが知りたいのは今からする質問の答えだ。今までとは違う人間を主人と仰ぎ、奴隷を続けてまで生き延びたいか? それともこのまま死にたいか?」
「あっ……」
ヨシュアの邪魔をしないよう、息を殺して見守っていた同行者のうちの誰かが思わず安堵の声を漏らしたのは、四人共に最初の質問には首を縦に振り、次の質問には首を横に振ったからだろう。
そう、彼女達は全員が自らを襲った運命に抗い、生き続ける事を望んだのである。
頷く動作自体が契約の承諾と見做されたのか、彼女達の細い首に黄金色の首輪が顕れ、自己主張するかのようにほんの一瞬だけ輝きを放つと、皮膚の下へと吸い込まれるように消えて行く。
その光景を黙したまま見届けたヨシュアは、一呼吸置いてから口を開いた。
「良いだろう。ここに契約は結ばれた。ならば次はこちらが約束を果たす番だな」
言ってやおら天を仰ぎ、少年は誰にともなく告げる。
「【女神の涙】」
――間、髪を容れず、にわかに雨が降り始めた。
――そう、テントの中に。
「えっ!?」
異口同音に上がる、当然の反応など御構いなしに、ぽつぽつと当たる程度であった雨脚は次第に強まり、やがては弱雨へと落ち着く。
避難する暇すらなく、全員が例外なく雨に濡れ、非日常の光景に呆然としているところに、それは起こった。
ある奴隷の、痛々しく焼け爛れた背中の皮膚が、べろりと剥け落ちたのである。
「ひっ……えっ?」
その下から覗く、血塗れの筋組織。
そんな見る者の想像を裏切り、まるで殻を剥いたゆで卵のような、白くつるりとした肌が現れた。
刃物や獣の歯牙によって抉られた傷口さえ、ぼこぼこと泡立ち増殖した細胞が瞬く間に癒着し、再生して傷跡一つ残さない。
それだけでも十二分に驚倒に値するというのに、真に極めつけの出来事は、次の瞬間に起きた。
「「「――なっ!?」」」
馬や山羊の出産を思わせる光景。
そう後に祖父が語った通り、羊水のようなぬるぬるとした粘液に覆われた四肢が、まるで産道から産み落とされる胎児のように、欠損部からずぼりと音を立てて生えてきたのである。
これらの現象が、三分にも満たぬ短時間のうちに目紛しく起きて、人々を濡らしたぬるま湯のような優しい春の雨は、何事もなかったかのように地面に吸い込まれて消えて行く。
「――っ!」
と、そこで突然強風が吹いて、しっかりと張られていた筈の天幕を吹き飛ばし、まるで悪戯でもするかのように、ヨシュアのフードさえも巻き上げて行った。
そして射し込む陽光が、濡れた着衣の含む水分をあっという間に蒸発させて、その場に雨が降った痕跡さえ、完全に消し去ってしまったのである。
いや、確かに雨は降ったのだ。
全てを癒やす奇跡の雨が。
その証拠に、ほんの数分前までは死を待つばかりであった傷病者の姿など、ここには最早一人たりとも存在しないではないか。
火傷に裂傷、病も部位の欠損さえも、まるで一時の悪い夢であったかのように消え去って、五体満足な姿を取り戻した奴隷達は、自分の身に何が起こったのかわからずに、鳩が豆鉄砲を食ったような表情でその身を起こし、呆けたように周囲を見回すばかり。
だが、それもほんの僅かな間だけの事。
たとえ我が身に何が起こったのかはわからずとも、近くで自分と同じく半死半生だった同胞達が、まるでつい先程までの弱々しい姿が嘘であったかのように、元気に起き上がり、きょろきょろ周りを見回しているのである。
じわじわと込み上げてきた感情は、あっという間に爆発して、仲間達の喜びは自分の喜びであるとばかりに、連鎖的に広がって行った。
「治った? 治った! でかい魔物の爪で掻っ捌かれた筈の俺の腹の傷が、あっという間に塞がっちまったぞ!」
「私の肺の病もよ! 少し前までは、呼吸をする度に苦しかったのに、もう苦しくない!」
「背中の火傷が……痛くない?」
「何言ってんだ坊主? ……ああ、背中だから見えねえのか? 痛くねえのなんて当たり前じゃねえか。だって火傷なんて、もう何処にもねえんだから。ほら、触ってみろよ。大丈夫だって、痛くねえから。……な?」
「……ねえ? おばさん。なくなった筈の私の足があるわ。これは夢なの?」
「夢じゃないよ! たった今、目の前で生えてきたんだよ! 言ってて自分でも何を言ってるのか、意味がわからないけど、本当の事なんだ。ああ……でも良かった。集落で一番の駿足と言われてたあんたが、自慢の足を失った時の落ち込みようといったら、見ていられたもんじゃなかったよ。……本当に良かったねえ?」
涙を流しながら抱き合い、歓喜に打ち震える姿は、他人事とはいえ見る者に感銘を与えるに足る光景であった。
一頻り喜びをわかちあった彼らの視線は、次いで一斉に一ヶ所へと集中する。
そう、たった一言でこの人智を超えた奇跡を喚び起こし、今は透徹した眼差しで自分達を見つめる、ヨシュアの元に。
誰からもこうすべきではないのか? などとという類の声は上がらなかった。
だというのに、彼らは全員が老若男女の区別なく、一様に同じ行動をとったのである。
即ち彼を取り囲むと跪き、頭を垂れたのだ。
眩い日差しを銀の髪が反射して、天使の輪の如き輝きを浮かべる。
そのとても子供とは思えぬような深い見識を湛えた金の双眸で、跪く奴隷達を見下ろすヨシュアの姿は、神々しささえ伴った。
「おお……おお! なんと尊い……」
感に堪えない、とでもいうかのように、大商会の会頭とその娘、ヨシュアの勧めで買われたばかりの奴隷までもが、異種族の奴隷達に倣う。
――フードを上げた白いローブ姿の少年に、数多の種族が跪く。
――それはさながら、神の御子による奇跡を描いた、一幅の宗教画のよう。
保護者達が跪かなかった理由は、自分達はヨシュアの信奉者ではなく、庇護者であるという自負によるものであったに違いない。
もしそれがなければ、ファーゴやエレミアなどは、真っ先に膝を折っていた可能性も否定できないだろう。
そして跪きこそしなかったものの、彼らも全身の産毛が逆立つような、鳥肌が立つような心地を味わった事に変わりはなかったのである。
それは奴隷をペットとして購入するなどと言い出したヨシュアに対する、ネガティブなイメージを払拭してなお余りある程の感動であり、むしろそのネガティブなイメージこそが、逆にギャップとして彼に対する評価を撥ね上げる役割を果たしたと言って良かった。
要するに、少年が奴隷をペットとして購入すると言い出した事も、他種族の奴隷の存在を隠そうとしたエイベルに、王室御用達という特権を取り上げると脅した事さえもが、全ては死に瀕していた奴隷達を救うための行動であり、素直にそうとは言い出せない照れ屋のヨシュアが、照れ隠しに悪ぶって見せていただけなのだと、好意的に受け止められたのである。
事実彼らの命は救われて、あのままでは大量の遺体を片づける羽目になっていたであろう、商会関係者達の悩みの種まで一挙に解決してしまっている以上、一概に違うとも言い切れないところがまた始末に負えなかった。
自分に向かって跪く奴隷達を見下ろしていた、少年が口を開いたのはその時である。
「何を勘違いしているのかは知らないが、お前達が助かったのは単に運が良かっただけに過ぎない。どうも俺が魔術か何かで奇跡を起こして、お前達を救ったとでも思っているようだが、それは大きな間違いだ。俺は自分が最初に声を掛けた奴らを癒して貰うために女神様に祈っただけなのに、その結果女神様がその祈りに応えてお前達まで救ったからといって、俺に感謝するのは筋違いだとは思わないか? お前達が感謝すべきなのは俺じゃなくて女神様だろう? わかったら道を開けろ。通れない」
その突き放すような物言いに、奴隷達は素直に従って道を開けたが、それは別にヨシュアの言い分を認めたからという訳ではなかった。
単に彼の通り道を塞いでしまっている事に気づいたからそうしたのであって、彼らのヨシュアに対する感謝の念は、いささかも揺らいでなどいなかったのである。
その証拠に、奴隷達の中で最も年嵩な犬人族の男が、代表して静かに口を開いた。
「それは違います。確かに我らが助かったのは、女神様の起こされた奇跡によるものかもしれませんし、勿論女神様にも感謝しております。しかしその切っ掛けを作ったのは、紛れもなくあなた様の祈りだ。たとえそれが、我ら全員を癒すための祈りでなかったとしても、何処かに我らに対する哀れみの気持ちがなければ、このような奇跡が起こる筈もありません。あなた様のお陰で、我ら全員が助かったのです。ありがとうございます。このご恩は死ぬまで……いえ、死んでも忘れません」
再度深々と頭を垂れる男に倣い、全員が頭を下げるのを見て、これ以上は言っても無駄だと思ったのか、男の声に足を止めていた少年は、一つため息をついてから保護者達の許へと向かう。
そして立ち上がって自分を出迎えた、エイベルとジェシカに向かって言った。
「約束通り、二人の悩みは解決してあげたよ? どう? これなら売り物でなくても、数人くらいは譲って貰っても良いんじゃない? ……まあ、もう奴隷契約は済んじゃってるし、事後報告でしかないんだけど」
「本当にありがとうございます、末弟様。お陰様で悩みが晴れて、心が軽くなりました。事後報告だなどと、とんでもない事です。勿論お好きなだけお連れいただいて構いません」
「ありがとうございます」
二人共何の文句もありはしないとでもいうかのように、ヨシュアに向けられた視線には感謝の念しか浮かんでいない。
商会の敷地内で人死にを出さずに済んで、心の底からほっとしている様子である。
「とりあえず、喫緊の問題は解決したという事で良いのかな? ならばヨシュア君、そろそろじいじの疑問を解消させて貰っても良いかい?」
そう声を掛けてくる祖父の声に、孫も今度は頷いて了承した。
「うん、良いよ。待たせてごめんね? じいじ。それじゃあじいじが知りたいであろう、どうして他の種族との融和を大事にして、その相手を奴隷にするなんて以ての外だと思っているじいじの弟分が、こうして死にかけた異種族の奴隷達を、自分の敷地内に隠しておかなければならなかったのか。それを本人の口から聞いてみようか?」
こうして遂に、エイベルがファーゴにまで隠そうとしていた秘密が、詳らかにされる瞬間が訪れたのである。
◇
自ら動ける程の健康状態に戻ったのであれば、わざわざ裏庭などに置いておく必要もないという事で、奴隷達は食事や着替えを与えてから、商会内にある空いたスペースで休ませていた。
怪我や病気が治ったとはいえ、今まで半死半生の状態であった事は確かだったので、大事を取らせた形である。
その間にエルダーヴィード家の一行は再び応接室へと戻り、エイベルから詳しい事情を聞いてから、奴隷達の処遇を決めようという事になったのだ。
こうして始まったエイベルの事情説明だったが、それは要約すれば、エルダーヴィード家の敵の話であったと言えよう。
この大陸を陰で支配していると言っても過言ではないファーゴであるが、支配の確立に至るまでには、お世辞にもスマートとは言えないような強硬策も辞さなかったため、表立っては口に出せずとも、内心では憎悪を燃やしている者達は数え切れない。
そういったファーゴに含む所がある者達が、意趣返しとして、彼が取引相手として大事にしている亜人種の奴隷達を、死ぬ寸前まで甚振り痛めつけたり、劣悪な環境に置いて病気にさせたりしたのであった。
あまつさえそんな奴隷達を、ファーゴという後ろ盾があるとはいえ、立場の弱い商人であるエイベルに押し付けたと言うのである。
最初は、とある貴族の家紋付きの馬車に乗った者達が商会を訪れて、王室御用達の商品を多数購入させろと要求してきたらしい。
当然エイベルは、ただでさえ数に限りのある商品故、いくら貴族様とはいえ、このような横紙破りな真似をされては困る、と断ったと言う。
結局はさんざん悪態をついて去って行ったのだが、今になって考えてみると、この行動自体が既に相手にとっては予定調和のうちだったようにも思える、と彼は語った。
つまりは最初から断られる事を前提とした無理難題を押しつけ、予定通りに断らせた上で、一度相手の要求を無碍にしたという負い目を感じさせて、次の要求を断り難くさせる狙いだったのではないかと言うのである。
そしてエイベル親子の予定を調べ上げ、二人が不在の時を狙って再び商会を訪れると、貴族家の人間相手に強く出られない部下を脅しつけ、一度相手の要求を断ったという負い目さえも利用して、本命の狙いである、大勢の助かる見込みのない亜人奴隷達を引き取らせる事に成功したのであった。
エイベル親子が事態を把握した時には既に手遅れで、いつ死んでもおかしくないような異種族の奴隷達を、無益とは知りながらもさりとて放置する訳にもいかず、食事や薬を与えて、少しでも長く生きられるように手を尽くすよりほかなかったらしい。
つまるところエイベルがファーゴにさえ彼らの事を秘密にしていたのは、この一件がどう考えてもファーゴに対する憎悪に端を発するものであり、エイベル達はそれに巻き込まれただけであると知れば、身内には甘いところのある兄貴分は、きっと自分を責めるだろうと思ったからだったのである。
奴隷達には悪いとは思ったが、どう考えても手の施しようがない状態だった事もあって、可能な限りの延命措置はするが、最終的にはそのまま自分達が看取るつもりでいたのだと、親子は語った。
そのような経緯で引き取らざるを得なかった奴隷達であり、正規の仕入れ手続きを踏んだものではなかったために、正式な取り扱い商品だとは認識しておらず、ヨシュアに見せるつもりもなかったのだと。
話を聞いて何も言えなくなってしまった父親を見ていたミシェルが、不思議そうな表情を浮かべて尋ねる。
「お話はわかりましたけど、さっきからとある貴族と仰るばかりで、具体的なお名前が一切出てこないのですが、一体どの家の方の事なのでしょう?」
「……申し訳ございません。それは申し上げる事ができないのです」
「……え?」
まさか返答を拒否されるとは思わなかったのか、呆気にとられる母に、ヨシュアは消沈している祖父に代わって説明するべく口を開く。
「あのね? お母さん。僕も前に女神様に教えて貰ったんだけど、商売をする上で最も大切なものは信用なんだって。もしお母さんが、他の人に知られたくない物を買ったとして、それを買ったお店の人が、お母さんの名前や何をいくつ買ったのかを、他の人に面白可笑しく言いふらしたとしたら、お母さんは次からそのお店の事を信用できるかな?」
「それは……できないでしょうね」
「そうだよね? たとえどんな相手でも、自分達が望む物じゃなかったとしても、商会の人間が奴隷達を引き取ってしまった時点で、残念ながら取引は成立しちゃってるんだよ。だからもし、その取引相手の名前を誰かに漏らした事が知られてしまえば、エイベルは商人としての信用を失う事になって、この商会も大きな損害を受けちゃうんだ。それでエイベルは、たとえ相手がじいじであっても、取引相手の名前を口にする事ができないんだよ」
「そうだったの。……ごめんなさいエイベルさん、知らなかったとはいえ、答え難い質問をしてしまいましたね」
「いえ、とんでもない事でございます。どうかお気になさらないでください。……末弟様もお気遣いをいただきましてありがとうございます」
少年は一つ頷き、まだ落ち込んでいるらしい祖父に向かって言った。
「じいじもいつまで落ち込んでるの? 知りたがっていた事情は聞けたし、二人の悩みの種だった奴隷達だって、結果的には誰も死んでないんだよ? 相手の名前がわからない事は残念だけど、その目論見自体は完全に外れさせる事に成功したっていうのに、一体何が不満なの?」
「ああ……そうか、そうだったね? ヨシュア君が女神様にお祈りしてくれたお陰で、こちらに嫌がらせしようとした相手の企みは潰えたんだった。誰の仕業かは知らないが、今後二度とこのような事が起きないように、こちらもしっかりと対策を練れば良いだけの話だね?」
溺愛する孫の言葉にはっとなり、このまま落ち込み続けたのでは、奇跡を起こして奴隷達の命を救った、ヨシュアの行いにまでケチをつける事にもなりかねないと気づいたのか、ファーゴは俯いていた顔を上げて、気を取り直すように 破顔する。
「それよりも、あの奴隷達の事だよ。正式な手順を踏んでの仕入れじゃなかったから、この商会の奴隷として扱ってないって言ってたけど、こうして生き残った以上は、そうもいかないんじゃないの?」
こうして、自分も関与してしまった以上は、知らないふりもできないというヨシュアの言葉に従う形で、本人達も交えてその処遇を決める事になったのだった。
◇
ところが、この議論が予想外に紛糾する事になってしまったのは、ヨシュアにとって予想外だったと言えよう。
エイベルは自分が所有者という事にはなっているが、金銭を払って手に入れた商品ではない以上、本人達の意思を優先して、場合によっては奴隷の身分から開放しても良いとさえ思っていたらしいのだが、彼らは全員が奴隷の身分のまま、ヨシュアに仕えたいと主張して譲らなかったのだ。
理由は言わずもがな、命を救われた恩返しのためである。
亜人達はどうも恨みは死ぬまで忘れないが、恩も死ぬまで忘れないという者達ばかりらしく、しかもその事を誇りにすら思っている節さえあって、ヨシュアに助けられた恩を返すまでは、死んでも死にきれないと言い張って憚らなかったのだ。
これにはさすがのヨシュアも困り果ててしまった。
彼の暮らす別荘の離れの部屋にも限りがあり、直接奴隷契約を結んだ少女達だけならともかく、全員が暮らすスペースなど到底ある筈もなかったし、さらに言えばまだ十歳の少年に、彼ら全員を養う経済力などある筈もなかったからである。
とはいえ自分を慕い、仕えさせて欲しいと真摯に訴えてくる彼らに冷たくできる程、少年は非情には徹しきれなかったのだ。
珍しく本当に困っている事がわかる、ヨシュアの年相応な表情に、悪いとは思いつつも大人達は笑みを隠す事ができない。
と、そこでこの孫には甘いファーゴが、好々爺の笑みを浮かべながら提案する。
ルプスルグ族のために用意した土地がまだ余っているので、彼らにはそこで生活して貰い、同時に人間の世界の常識や様々な技能を習得させて、いずれはヨシュアのために働いて貰えば良いのではないかと。
当然その間必要になる費用は、全て自分が持つので安心しろとそう言い切ったのである。
そのような事をすれば一体いくらかかるかわかったものではない、とモルガンが反対したが、ファーゴは頑として聞き入れない。
「彼らはヨシュア君に命を救われた恩を返すためなら、それこそ自分達の命を懸ける事すら厭わないだろう。そのような人材は、欲しいと思って手に入るようなものではない。忠誠心というものは、金で買おうと思っても買えるものではないのだ。私は彼らを養うのにかかる金よりも、彼らというヨシュア君の味方を失う事の方をこそ惜しむ」
そう言って譲らない夫に、これが自分達からヨシュアへ贈る、今年の誕生日プレゼントだとまで言われてしまえば、然しもの彼女も折れるしかなかったのである。
こうしてヨシュアは、自ら選んだ四名の奴隷の他に、三十余名の忠誠心溢れる奴隷達を、将来の配下として得る事になったのだった。
今回の被害担当:女神様。 主人公にこき使われる。
女神様「ううっ、ヨシュアに泣かされた」
ミシェル「申し訳ありません、女神様。もう、駄目でしょ? ヨシュア。これからは女神様を泣かせないようにしなさい」
ヨシュア「わかったよ。あーあ、【女神の涙】って、怪我や病気だけじゃなくて、肉体疲労や精神疲労も治る上に、髪に栄養を与えたり、アンチエイジングやデトックスの効果もあるから、美容にも良くて便利なのにな。他の方法探さなきゃいけないのか……」
ミシェル「え? ……ヨシュア? これからはなるべく女神様を泣かせないようにしなさい?」
女神様「おい」
今回もお読み頂きありがとうございました。次回もお読み頂けますと、作者が喜びます。




